“傷をなぞる様に”
「もうあかん! 我慢できひん!」
小さな交差点の真ん中で鈎がそう声を上げると、六郎太としおり&ゴブリンの視線が一斉に彼へ集まった。
「んだよ、まだ大して歩いてないだろ」
六郎太がやれやれと頭を振る。
鈎はそれを見て歯を剥いた。
「アホか! こちとら昼から一滴も水を飲んでないんや。もう喉がカラカラや。人間様の体の70パーは水さんで出来とるっちゅうのに、もう20パーをきっとる。ああ、このままやと死んでまう。こんなところで死ぬんわ嫌や。最後は超美人な嫁さんの腕のなかって決めてんねん。どうしてくれるんやわいの人生設計!」
その場に座り込んでしまった鈎を見て、しおりが六郎太を向いた。
「まんじ君、少し休もう。わたしもいわれてみれば少し――」
しおりは確かめるように咳払いをした。別に風邪気味でもないのに喉がいがいがする。
ゴブリンは彼女の体の変調を察してか首筋を優しく撫でた。
そんな二者一妖をぽかんと眺めた六郎太は「ああ、」と、思い出したように口を開いた。
「ここは油取りの結界内だからな。少しづつだけど霊気を吸われてるんだろ。体の不調はそれに伴ったものだ」
「アホ。そんなもんこちとら分っとんねん」
鈎はすくっと立ち上がり大きな溜息をついた。
しおりは不思議そうに鈎を向き、それから六郎太へ訊ねた。
「霊気を吸われると喉が渇くの?」
「いや、そうとは限らねえよ。ただ、霊気ってのは人間が裏側に備えるエネルギーみたいなものだ。それが抜けることでこちら側では異常を察知した脳が“なにかヤバい”って命令を身体に出してんのさ」
「じゃあ、ずっとここにいたら――」
六郎太は何も言わずしおりへ頷いた。
「じわじわと生命力を奪い取る……ほんま、油取りとはよういうたものやで」
三者一妖の間に沈黙が流れた。
彼等はここまで一時間ほど道なりに歩いている。攫われた生徒はまだ見つかっていない。というより、人っ子ひとり見当たらない。雑踏や騒音はもちろん、虫や動物など生物の息づく気配がまるでない。ただただ現実の街並みだけが無機質に再現されている。
閉めきられた自動ドア、薄暗い店内、明滅する信号、路肩の自転車、途中見かけた看板が確かなら、今は東京都の板橋区と北区の丁度境目に位置しているはずだ。電話やメールこそ機能していないが、スマートフォンの時計を見るに時間の進み方も現実と相違ないだろう。
ただし、リンクはしていない。時計の表示は0時を示しているが、ここは今、真昼間なのだから。
「ほんでも喉乾いたのはマジやで。まんじ、お前はなんともないんかい」
「んー、まあ乾いちゃいるが我慢は出来る。つか、そんなに何か飲みたいのなら、ほら」
六郎太は道路の脇を指さした。赤い自販機がたっている。
鈎はそれを見て顔の前で手を振った。
「アホかっ。こないな場所のもん飲めるか。毒でも入ってたらどないすんねん」
「そうだよ、危ないよ」と、これにはしおりも反対した。
そんな二人の反応に片眉を上げた六郎太は、おもむろに自販機の前まで行きジュースを一つ買った。
「おい、まさかお前――」
「ちょっと、まんじ君!?」
六郎太は肩を竦めると、止めようとする二人を無視してジュースを一気に飲み干した。
「な、おい、まんじ?」
鈎が駆け寄り声をかける。
六郎太は「う……」と呻いて上体を屈めた。
「ちょっと鈎君! はやく吐き出させなきゃ!」
「出させるってどないに!? 口に指を突っ込めばええんか!?」
焦る二人を横目でちらりとした六郎太は、勢いよく体を起こし「うめぇ!」と叫んだ。
鈎としおりは一瞬ポカンとしたが直ぐに声を荒げた。
「脅かすなやアホ!」
「そうだよ! 本気で心配したよ」
真っ直ぐ向いたしおりの視線に、六郎太は後ろ頭を掻いた。
「いや、悪い悪い、つい」
「ついちゃうわ。こんな時にお約束のボケかますなや。まったく笑えんわ」
「んな怒るなって。まあ、とりあえず毒はねえよ。あと妖気も感じねえ。まぎれもなくこれはただの飲料水だ」
空き缶を握りつぶす六郎太を見て、鈎としおりは互いに顔を見合わせた。それから我先にと自販機の前を陣取ると、これとこれとこれと――明らかに飲みきれない量を買っていた。
「カァー! 活きかえるで!」
「うん! 正直、わたしも結構我慢してたし」
ゴブリンはしおりの肩を離れ、六郎太の側から燥ぐ二人を見やって呆れたように口を開いた。
「ギギ人間ってのは不便だナ、旦那」
六郎太はフッと鼻で笑った。とりあえず水分の確保が出来るというのは朗報ではある。ただ……本当は飲料が妖気でつくられた幻であればよかったと彼は思っていた。生物がいないということを除けば衣食住が可能なレベルで現実を再現した世界――それを作り出せるという事実。それはすなわち油取りの力量の証明にもなるからだ。結界内限定とはいえ、思いのままに別の世界を創造できる――“隠し神”の異名は伊達ではない。
「にしても、ここがこんなリアルな世界やとはな。わいが聞いてた話とだいぶちゃうわ」
ジュースを飲み終えた鈎が目だけを動かし辺りをねめた。
しおりは極力視線を六郎太達へ向けるようにしていた。
誰も居ない、何も感じられない。そこに目を合わせてしまうと意識が囚われてしまうような気がしたからだ。
「まんじ君、攫われた皆は大丈夫なのかな? こんな場所で霊気まで吸われて……もしかしたら、もう――」
「確かになぁ、わい等は普通とちゃうけど、パンピーじゃあ厳しいかもしれん」
沈んだ顔で地面を見つめる二人を見やって六郎太が眉を上げた。
「多分、大丈夫だと思うぜ」
「多分? なんでや。普通に考えたら助からんやろ」
鈎の視線がグッと険しくなる。
六郎太はそれを見かえしてあっけらかんと答えた。
「考えてもみろよ。相手は油取りだ」
鈎は一瞬眉を顰め、それから「ああ、」と呟いた。どうやら言わんとしていることが分かったようだ。
かたやしおりは頭上にはてなマークを浮かべていた。
六郎太は不思議がる彼女を向いて人差し指と中指を立てた。
「妖が人を襲う理由はざっくりわけて二つだ」
「せや、一つは純粋に食事。妖にとって存在の維持に最も有用なのが人間の氣やからな」
六郎太は頷き、人差し指を折り曲げる。
「でも、だからこそ攫われた皆が危険なんじゃないの? 霊気を吸われる……って、食べられるって意味でしょ?」
「ああ、そうだ。ただ、食事に夢中になって獲物を即殺しちまうようなのはドサンピンだ。強力な妖ほど二つ目の理由であることが多い」
「二つ目って?」
しおりが訝しむように訊ねると、六郎太の視線が鋭くなった。
「戯れだよ」
「たわむ……それって」
「嬲り弄ぶ。楽しむためや。まあ、そうやって生まれた負の氣を貪るわけやから食事も兼ねてるけど」
「まあな」
小さく頷いた六郎太は、なんとも言えない表情になったしおりを一瞥して、ゆっくりと中指を折り曲げた。
「楽しみのために人間を……ゴブちゃん本当なの?」
「ギギおれはもうそんな事はしなイ。ケド、妖がそういう存在なのは事実ダ」
ゴブリンはちょこんと地面に座って俯いた。
その姿に、行き場を失った感情からしおりは奥歯を噛みしめた。
「ごめん、ゴブちゃんを責めてるわけじゃないの。ただ、私が知ってる妖はゴブちゃんしかいないから、信じられなくて――」
「でも、だからこそ、攫われた奴等は無事である可能性が高い」
六郎太はそう言うと、ぐるりと辺りを見渡した。あたかもこの世界の広さを――それを作り出している力を確かめるかのように。
しおりは怪訝な顔でそんな彼を見つめた。
こちらを向く視線に強い疑義の念を感じて六郎太は改めて話を続ける。
「そもそも油取りほどの妖なら数十年、もしかしたら百年単位で食事なんかしなくても平気なはずだ。急いで霊気を吸いつくす必要はない。奴からすれば、むしろできるだけ長く楽しみたいはずだ。だから攫われた奴等はまだ生きている、と俺は読んでる」
「そうやな。わい等から吸うペースもゆっくりみたいやし。アホどもを助けられるチャンスは全然あるで、しおりちゃん」
鈎はにかっと笑いかけた。
「うん、絶対にみんなを助ける! ゴブちゃん、力を貸してね」
ゴブリンは「ギギギ!」と飛び上がると、
「当たり前ダ。オレはそのために存在んだゾ」と言って、宙で腰に手を当てた。
それを見て六郎太がフッと小さく笑う。
「ところでまんじ、なんか当てはあるんか? このまま彷徨っててもジリ貧になるのはみえとるで」
「正直、向こうから仕掛けてきてくれるのが手っ取り早い。その気配はないけどな」
「結局打つ手なしかいな」
鈎は大きく頭を振る。
「ギギずっと気になってたんだが」
ゴブリンはしおりの肩に座ってへの字の手を顎に当てた。
「なんやねんゴブ、今は猫の手も借りたいんや。何でも意見だしてええんやで?」
「ギギ誰が猫ダ! あんな下等生物と一緒にスルナ」
牙を覗かせるゴブリンをしおりが「まあまあ」となだめる。
「ギギまあいイ。それよりモ、オレ以外は違ウのカ? オレ達が目を覚ました場所、それからココへ来るまでの道のリ。ちょこちょこ見覚えのある景色があるんダガ」
「そらそうやろ、一応都内なんやし」
鈎は呆れ顔で溜息をついた。
「ギ、そういう意味じゃなイ。曖昧な印象でハなく、確かに通ったことのある道デ、見た記憶のある景観ダと言っていル」
六郎太と鈎は顔を見合わせた。全く見覚えがない。というか、都内といっても都心から少し外れたところはどこも似たような印象だ。ここもそうだし王摩高校周辺、自宅の周りも同様に。
「ギギ、オマエも覚えていルはずだゾ」
相棒にそう投げ掛けられ、しおりは困った顔で辺りを見渡した。目を覚まし、ここへ来るまで……言われてみればどことなく――
「あ!」
「なんや覚えあるんか?」
「う、うん。この辺の記憶は曖昧だけど、目を覚ましたあのベンチ――」
六郎太と鈎が再度顔を見合わせる。
しおりはそんな二人を一瞥して呟くように答えた。
「あそこは、関口君の家へ行った時の帰り道なの」
んん? と、鈎の眉が寄る。
「しおりちゃん、関口とそんな仲やったん?」
「え、……ううん。一年生の時に、一度だけ宿題を届けに行ったことがあるの。他に届ける人がいなかったから……」
「ギギ、そうダ。この辺りも帰りのバスで通った道ダ」
「はあ……せやかて、それがなんなん? 油取りが現実と同じようにつくっとるだけやろ」
「いや、どうかな」
六郎太が首を捻る。
油取りの結界内については幾つか話を聞いた事がある。なかでも有力な説は、取り込んだ対象の記憶とトラウマを再現するというものだ。結界内の人間を精神的に追い詰めるのが目的なのだろうが、ここはどうだ? 自分達を苦しめる環境は一つもない。しいて言えば山神しおりが微かに記憶している程度だ。当然、これが彼女のトラウマにあたるとも思えない。
「まんじ君?」
きょとんと見つめてくる彼女を向いて六郎太は後ろ頭を掻いた。
「いや、悪い。ちょっと考えてた」
「考え?」
「ああ。ここは誰の記憶なんだろうなって」
しおりが不思議そうに首を傾げると、その横で鈎が肩を竦めた。
どうやら彼も油取りの結界内について六郎太と同じ説を知っているようだった。
「ここにいる三人のモノとはちゃうやろうな。わいとまんじには覚えがない。しおりちゃんはつい今しがた思い出したとこや」
「記憶が関係あるの?」
「大いにあるで」
鈎はかくかくしかじか、と油取りの結界について説明した。
「じゃあ、ここは攫われた誰かの記憶やトラウマを再現した世界ってこと?」
「ああ、誰かまではわからねえけどな」
六郎太は言いながら、空き缶を自販機横にあるゴミ箱へ投げ入れた。
「まあ、しおりちゃんが覚えてるってのが何気にヒントになるかもやな。攫われた四人の中で他にここまでの経路を知ってそうなのいそう?」
と言われても――しおりは渋い顔になった。
被害者の誰とも親しいわけではない。当然、関口以外はどこに住んでいるのかすら知らない。
そうやって神妙な面持で悩む彼女を見やって六郎太が口を開いた。
「おい鈎、酷なこと訊くなよ。人付き合いのない山神にわかるわけねえだろ」
「は? それをわざわざ口に出して言うお前の方がどうかしてるわ。ほんまにデリカシーのないやっちゃのう。ごめんなしおりちゃん。行者は、いや、この男には血も涙もないんや堪忍してやって」
「え、あ、ううん。全然気にしてないよ、事実だし」
しおりは半ば上の空で返事をした。六郎太の言うように自分と被害者達との接点は殆ど皆無と言っていい。彼等の記憶、彼等が見ていた景色なんて皆目見当もつかない。
そもそも、本当にこの世界には被害者達に関係する要素があるのだろうか。こんな誰も居ない、活気も感じられない、空虚な世界に――建物と道路だけがどこまでも続く……どこまでも――空虚が――
「続いて、いる……まさか、」
しおりは俯いていた顔を持ち上げると、辺りをきょろきょろと見回し、突如走り出した。六郎太と鈎は互いに顔を見合わせ、同時に彼女を追った。
五〇メートルほど道なりに進んだところでしおりが足を止める。
それを確認して、男子二人は彼女の横に着いた。
「水分とったからって無理したらあかんて」
「ごめん、でも」
しおりは肩で息をしながら、目の前に建つバス停の看板へ「やっぱり」と、何かを確信するように呟いた。
「山神?」
六郎太は彼女に訊ねてから、鈎に『わかるか?』と目くばせをする。鈎は『わからない』と肩を竦めた。
「ごめん。でも、ここから、王摩高校のすぐ近くまで乗れるの……」
しおりはバス停に面した道路の先を見つめたまま二人の疑問に答えた。
鈎が看板に顔を近づけ確認する。
「ほんまやな。この辺に住んでる奴はめっちゃ通学らくやん」
「でもそれがなんだってんだ? 俺にはさっぱりだぜ」
しおりは困惑する六郎太を一瞥すると、また遠くを向いて言った。
「ここは関口君の記憶だと思う」
六郎太の眉が寄る。
「なんでわかるんだ? 他の奴の可能性もあるだろ」
「せやな。確かに話が見えんでしおりちゃん」
訝しむ二人をよそに、しおりの視線は変わらず遠くを――その方角の先にある王摩高校を向いていた。
彼女はそうやって数秒ほど物憂げな表情で遠くを見つめると、六郎太達へ向き直り、ゆっくりと息を吐いて話を続けた。
「ここは多分、関口君の通学路なんだと思う。油取りは記憶、それにトラウマも再現するんだよね?」
「せや。わいが聞いた話やとトラウマが現実として忙しなく襲い掛かってくる――まるで悪夢みたいやと」
「悪夢、ね」
六郎太が遠い目で鈎を眺める。
しおりは再び王摩高校の方角を向いた。
「だからね、これが関口君のトラウマなんだと思う。彼にとって学校と、そこへ行くまでの道のりが何よりも心の傷になりえたんじゃないかな」
「なるほどやな。関口はいじめられてた……通学路も地獄になりえるっちゅうことか。にしても人っ子一人おらんのはなんでなんや?」
「まあ、生物をつくるのは無機物をつくるよりも難しいからな。上異の妖とはいえ、そこはコスパの問題だろう」
「いや、せやかて範囲を限定すれば出来なくもないやろ?」
「まあな」と六郎太が頷く。
するとしおりが「違うと思う」と、いっそう物憂げな声で言った。彼女には何となく分かったからだ。人が居ないのは彼――関口努にとって、世界には誰も味方がいなかったからだと。この空虚な世界こそ、まさに彼が見ていた景色そのもの……彼の世界には彼しか居なかったに違いないと。
そう思うと、先ほどまで意味し得ぬ恐怖を覚え、視線をやるのも怖かった景色が急に憂いて見えた。この世界に初めて自分達以外の息を感じた。
同時に、ここまでの道のりを思い出し、どうしようもなく悲しくなった。自分でもわけがわからないくらい自然と涙が溢れてきた。
彼女の肩でゴブリンがこぼれ落ちる涙を拭った。
「しおりちゃんはほんま優しい子やね。もらい泣きしてまうわ」
鈎は顔を伏せ後ろ頭をかいた。
「泣くな山神。全員助け出したら向こうでも関口を助けてやればいい」
六郎太はしおりの頭に軽く手を置いた。
しおりは無言で何度も頷いた。
「よっしゃ! ほんなら、関口のトラウマが具現化されてるっちゅうことは、や。最終的に最もその元凶になるのは、わかるやろまんじ」
「あ? いじめの現場だから――学校だろ」
三者一妖は自ずと王摩高校の方角を見据えていた。




