“現夢”
目の前には闇が広がっている。何も見えないし、体も動かない。一応、手には山神の肩を抱く感触だけはある。彼女の温もりと鼓動が掌に伝わってくる。
でも、それがどうでもよくなるほど、ここは心地がいい。暗く静かで、場に意識が溶けていくようだ。起きているのか寝ているのかすらも曖昧で、これまでの事がすべて夢に思えてくる。
これはきっと、タチの悪い夢――
あの時からずっと続く――
そう、ずっと――
人は、夢をとりとめのないものだと言う。目が覚めれば、その内容の半分も覚えていない。
でも自分は、凄く鮮明な夢を見る。
あれは丁度、猛暑の厳しい季節だった。障子の隙間から差し込む日差しが、床の間を黄色く照らしていた。
部屋の中央には脚の低い丸机が置かれ、ブラウン管のテレビが襖の邪魔にならないよう壁に面して備えられている。どちらも食卓を囲むことを意識した配置だった。日本人形や掛け軸なども飾ってあったが、気に留めたことはない。
近くに保育所などはなく、こういう真昼間は決まって丸机でミニカーを走らせる。もちろん手で掴んで動かすだけだ。そんなことに夢中になってた。額に浮かぶ汗も気にしたことはない。ただ、外で鳴く蝉の声とテレビの音はやたらと騒がしかった。
台所からは料理の音が聴こえてくる。トントントン、と小気味のいい音色が心地いい。音の変化で料理の出来上がりがわかる。このカチャカチャとした食器の音が止めば料理が運ばれてくると、幼いながらに分っていた。
少しして、思った通り昼食が運ばれてきた。だからミニカーを机の下に置き、大好きなおばさんの顔を見上げた。
おばさんは普段から笑いジワの濃い、優しい顔立ちをしている。でも、その日は真顔というか、どこも見ていないというか、ずっと遠いところを視ていた。
机に料理を並べ終わり、おばさんが向かいに座った。いつもなら「いただきます」と手を合わせるところだけど、今日は無言だった。とても嫌な感じがした。
それに料理を見ても全然食欲がわいてこなかった。お腹は空いているはずなのに、大好きなシチューのはずなのに。なにか嫌な感じがした。においもいつもと違う、嫌な臭いだった。
じっとしていると、おばさんが「食べないの?」と言って立ち上がった。右手には包丁が握られている。料理をしていたのだから当然なのかもしれないけど、刃が上を向くように握られていて変な感じがした。
だから答えずにいた。おばさんは早口になった。
「なんで食べないの? あなたのためにあの人を使ったのに。食べられなきゃあの人も浮かばれない」
その目は相変わらず遠くを向いていた。言っていることもよくわからなかった。ただ、普通でないのはわかった。
おばさんには見えていないみたいだけど、肩に小さなお爺ちゃんが三人しがみ付いていたから、そのお爺ちゃんがおばさんをおかしくしているんだなって察しがついた。
おばさんの左手がヌッとこちらに伸びてきた。右手は包丁を持ったまま、頭の後ろまで引いている。
怖かった。おばさんがじゃない。小さなお爺ちゃんでもない。
自分が、彼等を殺してしまうと分かったから、怖かった。
近づかないで、お願い。心の中で何度も叫んだ。
そのうちに自然と目から何かが流れた……涙ではなかった。
気が付くと辺り一面が焦土と化していた。床の間も――家自体も、ほぼほぼ焼けて無くなっていた。遠くの方からサイレンの音が近づいてくる。
怖くなっておばさんがどこにいるのか探した。いないと思った。
でも最初から、おばさんは目の前にいた。こうなる前の、こちらに手を伸ばした状態のまま、おばさんは真っ黒なマネキン人形みたいになっていた。
凄く悲しくなっておばさんに抱きついた。するとおばさんが膝のところでボキりと折れて倒れた。おばさんの体は地面でばらばらに砕け散った。
自分はそれを必死にかき集めた。元に戻ると信じていたんだと思う。
結局、おばさんは指と指の間から逃げるようにこぼれ落ちていった。もうおばさんは居ないんだと悟った。
それでやっと涙が頬を伝った。
辺りが燃えているからなのか、涙は地面に落ちると瞬く間に蒸発していった。
自分は熱くなかった。ただ――
ひとり置いていかれたことが、悲しかった。
その日、初めて妖を見た。初めて妖を祓った。そして、初めて人を殺した――
他の人はどうだか知らない。でも、少なくとも自分には夢と現実に境目はない。
夢の先に現実があって、現実の後ろで夢が尾を引いている。
だからきっと、眠る寸前と、今みたく目を覚ます直前の微睡だけが、自分にとっての束の間の“夢”なんだと思う。
目が覚めたところで現実に戻るだけ――そう、戻るだけ――――だ――
六郎太は不意に目を開いた。仰向けになったその視界には雲一つない青空が広がっていた。
「夢、か――」
「なにが『夢』や。いつまで寝とんねん」
聞き覚えのある関西弁に思わず起き上がると、向かいに備えられたベンチで鈎が胡坐をかいていた。その隣にはゴブリンがちょこんと座っている。
自分も彼等の向かいのベンチで横になっていたようだ。隣ではしおりが心配そうにこちらを見ていた。
「まんじ君、なんだか凄いうなされてたけど――」
「ああ、心配ない。いつものことだ」
六郎太は目頭を押さえた。
「なーにが『心配ない』やねん。一番頑丈そうなお前がなんで一番起きるの遅いんや」
鈎がやれやれと頭を振る。
「知らねえよ。てか、ここは……。そういや、結界に飲まれたんだったか」
六郎太は辺りを見回した。
今いる小路の縁には家やアパートメントが並び、現実に則した景色をしている。ただ、そのわりに怖いくらい閑静で、人の姿はもちろん音や気配すらもない。
「ごめんなさい……私がお札に触ったから」
しおりはそう言って目を伏した。
「いやいや、しおりちゃんのせいやないで。一緒におったまんじの監督不行き届きや」
「はあ? ……んまあ、それは認める。俺も奴の結界を目にするのは初めてだったからな。正直対応がわからなかった」
「なんや、えらい素直やな。まあこうなったらお前責めてもしゃーないわ。んで、どや? お前ならいけるんか?」
これに六郎太は肩を竦めた。
「いや、どっちやそのリアクション」
「わからねえってことだ」
「あの」
会話を聞いていたしおりが小さく手をあげる。
「二人とも、ここがなんなのか分かっている口ぶりだけど、いったい……」
男子ふたりは互いに目を見合わせると、同時に彼女を向いた。
「ここは神隠しの犯人<油取り>が張った結界だ」
「あ、あぶらとり?」
いまいちピンとこない名前に、しおりは眉を寄せた。
「へんてこなネーミングやけど隠し神やで。一応、神の名を冠しとるからなぁ。油取りいうてもニベアみたいに優しないで」
しおりは神という言葉を聞き、余計に難しい顔になった。
「神様なのに人を襲うの?」
「神っつっても妖だよ。まあ土着神に神ってついてるのと同じようなものだ」
「ほんで? 行者的には、その神さんへの対応はどないなっとんのや?」
「対応ねえ、」
六郎太は後ろ頭をかいた。
「話でしか聞いたことねえけど、セオリーは結界術に長けた行者複数人でここと同質の結界を外から張って相殺する」
ふむ、と鈎が顎に手を当てて首を捻る。
「つまりあれや、SFによくあるパラレルワールドアタック的なことか。同じ世界に同じものは二つ以上存在できず対消滅を起こすって」
「SFはよくわからねえけど原理的にはそんなもんだろう」
「ほほう。んで、中からはどないするんや?」
訊ねる鈎の顔が期待感に満ちていた。
六郎太はそれを見て、ぶっきらぼうに言い切った。
「どうしようもねえよ」
「は?」
鈎から寝呆けた声がでた。しおりも不安そうな表情をしている。
そんな二人を見て、六郎太は小さく息を吐いた。
「油取り相手に結界の中からどうこうなんて<会>でも想定してねえんだよ。奴を相手取るなら外からだ。中に入った時点で詰み、だからな」
これに鈎は薄く笑った。
「まあ、そんなとこやろうと思ったわ。わいが知る限りでも、結界内から油取りを祓ったなんて奴は見たことも聞いた事もないからな」
「待って、じゃあここから出られないってこと? 油取りってそんなに強いの?」
しおりは途端に怖くなり、思わず早口でまくし立てた。
「し、しおりちゃん落ち着きいな。どうなんやまんじ。お前ら妖を等級分けしとるやろ」
「んー、<会>の等級でいえば油取りは上異に位置付けられてる。ただそれはあくまでも外から対処する場合だ。結界内の奴はもっと上になるだろうな」
「じゃあ、やっぱり出られないんだね……」
しおりが目を伏せた。
六郎太は困った顔で彼女を一瞥すると空を見上げた。
「まだわからねえってだけだ。そんな落ち込むな。妖は今のお前みたいに、人間が自然と垂れ流す負の氣ってやつが大好物なんだ。むざむざ陰険引き籠り野郎に御馳走してやる必要はねえ」
「まんじ君……。うん、暗くなっちゃダメだよね」
「せやでしおりちゃん。諦めたらそこで試合終了や。にしても、仮にも神さんいわれてる奴を引き籠り扱いとはまんじ、お前は強気っちゅうか豪気ちゅうか」
鈎が半分呆れたような顔で頭をふる。
六郎太はそれを見てあくびまじりに言った。
「くだらねえ。何て呼ばれてようが俺からすりゃただの妖その1だ。それよりまずは攫われた奴等をさがそうぜ」
「まあ、せやな。せっかくこんな所まできたんや。観光がてらにアホどもを探すか」
しおりが男子二人を見て頷いた。それから肩へ飛んできたゴブリンにも。
三者一妖は腰をあげた。




