ぼーちゃんとのこと
あの頃の彼は、いつも鼻水を垂らしていたから、ぼーちゃんと呼ばれていた。アニメのキャラクターからとったあだ名だった。彼は気に入っていたのかいなかったのか、本当のぼーちゃんのようにそのあだ名を受け入れていた。
人間とは変わるもので、成人してから出会った彼は当然だが大人であり、そしてとても凜々しかった。あの頃ぼーちゃんと呼ばれていた彼とはほど遠く離れていて、一体どう声を掛けたものかと少し悩んだ。けれども、彼の茫洋としていてどこか人なつっこい瞳は、あの頃と変わっていなかった。
「もうぼーちゃんって呼ばないの」
笑いながらそう尋ねてきた彼は、ぼーちゃんと呼ばれることを気に入っていた。曰く、ぼーっとしているくせにいざとなったら頼りになるあのキャラクターが好きだったらしい。大人になるまでわからなかったことはたくさんあるが、これもその一つだった。
それからたまに僕たちはご飯を一緒に食べに行くような間柄になった。いい年こいた男が二人だから、飲みに行く、と言った方が格好が付くのかもしれないが、彼は下戸だった。唐揚げをつまみにコーラやジンジャエールを飲みながら、彼はいろいろ面白い話をしてくれた。思えば小さな頃から、たまにぽつぽつと話すだけの彼の話はおもしろかった。
その日もまた、唐揚げをつまみながらくだらない話をするのだと思っていた。
「俺、ガンなんだ」
唐揚げをかじり、コーラを流し込みながらポロリとこぼれたような彼の言葉の意味がわからなかった。がんもどき、ガン、銃――そんな言葉が頭の中をぐるぐると回った。居酒屋の喧噪の中で、彼がいつも通りにしか見えなかったから、自分にだけ声が聞こえる変な怪奇現象にでも遭遇したのかと思った。
「手術できない場所らしい。それでも転移してなけりゃ根治の可能性はあったらしいが、転移していた」
彼はわざとらしく目の前の唐揚げとポテトフライに視線を向けながら、言葉を続けた。僕にはもう、誤解する余地は残されていなかった。
「それって、どういう」
「早い話、よくはないってこと」
ふう、と息を吐いて、彼はコーラを飲もうとし、口を付けることなくジョッキを置き直した。
「もう、炭酸がきついんだなあ」
彼はそう言って、ヘロリと笑った。僕には返す言葉がなくて、水にしとけよ、と馬鹿みたいなことを言った。
それからすぐに居酒屋を出た。どちらともなしに、自然にお開きとなった。
酒を一滴も飲んでいないのに、足元が地面に付いていないような、ふわふわした気分だった。隣を歩く男の顔を見た。
ぼーちゃんだ。小学校のころ同級生で、中学で離れて、成人してから仕事先で再会したあのぼーちゃんだ。よく遊んでいた。でも小学生は薄情で、中学に入って一ヶ月もしたら彼と会うこともなくなった。でも忘れてはいなかった。僕の友達のぼーちゃんだ。
彼は繁華街から離れて、人気のない道を歩いていった。僕もその後を付いていった。薄暗い闇の中に沈む人気のない住宅街は、この世界ではないようだった。
目的地があるのか、ぼーちゃんははっきりとした足取りで進んだ。僕もその後ろを付いていった。会話はなかった。静かに、僕は月が映す彼の影ばかりを追っていた。
彼はふと立ち止まると、大きな階段を昇り始めた。僕も後に続いて足を上げた。上を見上げると、薄暗い闇に浮かぶように鳥居があった。
彼はしっかりとした足取りで階段を昇りきった。そして誰もいない境内を見渡した後、その隅を指さした。
「あれが見えるか?」
薄い墨汁のような闇の中に白いものが浮かんでいた。花だった。花とは無縁な僕には、それが何だかわからなかった。
「あれは、何の花?」
「知らん」
自分で指さしたくせに、彼は堂々と言い切った。
「知ったかぶりかよ」
僕がそう文句を言うと、彼はそれを無視して歩き出した。
「あれが何の花かは知らない。けれど、どういう花かは知っている」
彼は真っ直ぐにその花の傍へと歩み寄った。僕もその後ろを彼にくくりつけられた風船みたいについていった。
「ばあさんが、よく言っていたんだ。この花に触っちゃいけない。この花を手折ったら不幸になる、ってな」
「へえ、また信心深い――」
僕の言葉が終わらないうちに、彼は無造作に目の前の花をへし折った。僕は続くべき言葉を失って、彼の顔を見た。
「理由のない不幸は、嫌なんだ」
彼は手の中にある花を、どうでもよさそうに投げ捨てた。白い花が、くたりと地面に横たわっていた。
それが彼がこの世を去るちょうど一ヶ月前の出来事だった。
あれから僕はこの神社によく来るようになった。君を不幸にしたかもしれない花は、まだ咲いていない。新しい蕾みが膨らむのを見つめている。
ぼーちゃん、君がいなくて僕は寂しい。
何かにじっと見つめられているような気がする。でもそれは僕をどうにかするような力を持っていないことが、悲しい。
この花が咲いたとき、僕はどうするだろうか。