明るい常闇
家を出て、いつもの登校ルートを行った紀介。
普段通りの玄関、住宅街、道、駅。
しかし、イレギュラーは地下鉄で起きた。
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「キャアアアア!!」
紀介が乗っている車両の前方から、何の前触れも無く悲鳴が聞こえてきた。
その突然の事態に、車両内がざわつき始める。
「痴漢……?」
紀介はふとそう思い、声の聞こえてきた方を見た。
だが紀介は背は高い方ではなく、大勢の人の頭で先が見えない。
しかし、次の瞬間に聞こえてきた言葉によって全てを理解することが出来た。
「こ、殺しだ!さっき悲鳴あげた女が、血だらけで倒れたぞ!」
「おいおいおい!!このジジイ、腕から刃物が生えてやがる!ま、魔人だ!!こいつが殺したんだ!この魔人が女を──────
「うぁぁぁ!にげっ、逃げろーッ!」
「な……?」
男性らの叫び声と悲鳴により、たちまち車両内は軽いパニックに陥った。
軽い悲鳴と共に、我先にと車両の後方へ逃げようとし、しかし満員のため揉み合いが起きる。
「どけ!」「痛ッ!やめて!」「邪魔だって!」「うるせえどけよ!どけって!」「やめろ押すな!」「……ッ!」
そうやって揉みくちゃになる車内で、魔人は殺し足りないのか、数秒おきに悲鳴が上がる。
狭い地下鉄車両内が、あっという間に阿鼻叫喚の密室と化した。
紀介は車両後方に居たため被害は少ないが、しかし押し寄せてくる人達によって何度かバランスを崩しかけた。
「ッ……人殺しの魔人が出たってのもヤバいけど、これじゃあその前に、人間に殺されちまうぞ……!」
そんな危機的状況の中、いつも通りのアナウンスが聞こえてきた。
『暮渋谷駅〜暮渋谷駅〜。お足元ご注意下さい。お出口は右側です』
「ッ!?」
だんだんと減速していく列車の中、後方へと向かっていた人混みは扉へと目標を移し、紀介はひとまず難を逃れた。
しかし、酷いのは扉が開いてからだった。
「どけ!!」「……!!」「やだ!やだ!」「ホームにいるヤツら!逃げろ!」「魔人だー!魔人が出たぞー!!」
扉が開くなり何十人もの人が車両を飛び出し、危険を呼びかけながらホームに溢れかえった。
次の瞬間には、駅全体にサイレンベルが響き始める。
魔人が現れた際、保安局に通報するための非常ボタンを誰かが押したのだろう。
「魔人発生時の非常ベル、初めて聞いた……。って、俺も早く出ねえと!」
ようやく人混みが空き始め、車両の床が見えるほどにまでなっていた。
気づけば、紀介が扉から出る人たちの最後尾。
遅れてはならないと、扉の方へ歩き出したその時────
「─────ッ」
空になった車両前方に一人、十数体もの死体のそばで、血を浴びたまま静かに佇んでいる老人と目が合った。
右手のひらの甲から太い《《針》》が生えており、それらには赤い血が付着している。
恐らく、体から針を出現させる魔人なのだろう。
その魔人は、身体中に返り血を浴びていることとその腕を除けば、全くもって人畜無害な優しい老人と姿変わりない。
改めて、いかに魔人が人間社会に溶け込んでいるかを思い知らされる。
「…………」
初めて見る魔人の姿に呆気に取られ、冷や汗を流しながら、しかしその場に立ち尽くす紀介。
魔人も何を言うでもなく、ただ紀介の目を見ていた。
その時間が十秒弱。
紀介は、逃げる猶予を捨ててしまっていた。
「ッ!扉が!!」
紀介が立ち尽くしている間に他の乗客は全員車外に出ており、もう乗客はいないと判断した駅員が扉を閉めて魔人を封鎖しようとしたのだろう。
賢明な判断だが、残念ながら逃げ遅れた高校生──紀介が取り残される結果となった。
「…………」
先程より少し恐怖を含めた顔で魔人を見る紀介。
そしてその沈黙を破ったのは、今まで一度も口を開かなかった魔人の方であった。
「……バカな小僧がいるものじゃの。魔人が出たというのに、逃げ遅れたじゃと?哀れな程に危機感が足りぬようじゃな」
「な……」
魔人の声は強く厳かで、それだけで威嚇にすらなっていた。
やはり姿こそ普通でも、相手は人を殺したばかりの魔人。
いざ対峙してみれば、全く気迫が違う。
「知っていると思うが、魔人というものは八十歳になった日に高確率で死ぬそうじゃ。……わしは明日が丁度その日での、最期にもう一度だけ血祭りを味わいたいと思うて、今、こうやって人を殺しておったわけじゃ」
「…………」
テレビや雑誌で聞いた事のあるものだった。
セミが一週間で死ぬように、カマキリが冬前に死ぬように。
ただ魔人は、八十年で何故か死ぬと。
どうやら魔人が犯行に及んだのは、どうせ死ぬなら最期に、という身勝手な原因によるものらしかった。
「……しかし、老いには勝てんの。数十年ぶりとはいえ、たったの十人じゃ、わしが殺せたのは。……じゃが、キリのいい数字ではある。最期にはふさわしいと納得できておった」
魔人はそう言って足元の死体の頭を蹴り、亡骸を弄ぶ。
そして、今度は突然、怒気を含んだ顔で紀介の方に向き直った。
「……それがどうじゃ!!これ以上殺す気は無かったというのに、密室で小僧と二人きりなど……!そんな状況で、どうして殺しを我慢できようか!」
「は、は……?そんな……」
「この十というキリの良い数字で死にたい気持ちはあるものの、目の前の獲物を逃すような恥は行えん!」
魔人はそう叫びながら腕を広げ、今度は腕のあらゆる箇所から針を出現させた。
皮膚の隙間隙間から幾本も飛び出したそれは、あまりにおぞましい。
ここまでくれば、異形という他にない。
理不尽で歪んだ怒りのもと、強く明確な殺意を放ちながら、その凶器に溢れた両腕を、慌てる紀介に向けて構える。
「んな、待っ────」
「待たぬ!待てぬ!決して許さぬ!我が人生の散り際に泥を塗った鬼畜小僧、必ずこの手で紅色の肉塊と化してくれるわ!!」
魔人の両腕の針が動き、紀介の方へ向きが変わる。
そして、皮膚を貫き肉を裂いて骨を断つことを目的に、魔人は大声と共に紀介へ飛びかかった。
「死ね小僧ッ!」
「うあッ!!」
紀介は逃げることなど出来ず、咄嗟に腕を交差して頭を守ろうとする。
当然そんなもので何本もの太い針を纏った拳を防ぐことなど、出来るわけが無い。
しかし、そこで有り得ないことが起きた。
「──ッ!何ッ!?」
まさに魔人の拳が紀介の腕に当たろうかという瞬間、甲高い金属音をたてて、それが弾れる。
その原因は、紀介の腕にあった。
「……何だ、これ。俺の腕から……針が……。これじゃ、まるで……」
「そんな馬鹿な……。わしと同じ、『針を纏った腕』……じゃと!?」
自分の腕から突然に何本もの針が飛び出しているというのだ。
驚く魔人を他所に、紀介も内心悲鳴をあげる。
……いや、もはや老人の方を「魔人」と呼ぶのは不適切に近いかもしれない。
なぜなら、この場にいる魔人は、一人ではなくなってしまったからだ。
「俺……魔人だったのか?いままで気づかなかっただけで、こんな……化け物だったのか……?」
紀介はもはや恐怖を忘れ、目の前に存在する自分の腕を凝視する。
さらに、紀介自身も気がついていないが、既に紀介の左目の瞳には、赤い螺旋が描かれている。
おそらく、この能力を使用した証拠なのだろう。
何も疑うことなく自分は人間だとして生きてきたのに、まさか自分が魔人だったというショックは計り知れない。
しかも今朝のテレビであったように、現在魔人は世界的に「危険な存在」として、人権を持たない者として扱われている。
研究のための解剖、監禁、処分。
その全てが合法に、そして皆から望まれて行われる。
そんな他人事だった存在が、今まさに自分に降りかかったのだ。
「……いや、ありえぬ!」
しかし、困惑しているのは魔人の方も同じだった。
「例え貴様が魔人だったとしても、これはおかしい!同じ能力を持つ魔人は存在しないはずじゃ!」
「同じ、能力……」
紀介は少しずつ正気を取り戻しながら、立ち上がり、また腕を見る。
どう見てもそれは目の前の魔人と同じ腕。
同じ能力を持った者はいないと言うなら確かにおかしな話だが、しかし、これはチャンスだった。
「……何がなんだか分かんないけど、同じ能力だって言うなら使い方も同じ……だよな」
「……な、なんじゃ、貴様。……まさか、わしと戦うつもりか!?」
「そりゃ……まあ、ここで殺されるよりはずっといいかな……って」
紀介は持ち合わせた勇気を全て振り絞って啖呵を切り、腕を魔人の方へ向ける。
そうして意識すると、紀介の腕に生えていた針が全て、魔人の方へ向くように傾いた。
相手の方へ針が向く、という点を見ても、やはり同じ能力で間違いない。
「……危機感なくとも、いっちょ前の勇気はあるか、この小僧!しかし甘い!貴様はたった今能力の存在に気付いたばかり!八十年もの間この能力と付き合ってきたわしに、適うわけがなかろう!」
魔人はそう言い切り、腕を構え、手加減なしで紀介を屠る意志を見せた。
そして次の瞬間、魔人は容赦なく紀介に襲いかかった。
「舐めるなよ小僧!!」
「ッ!」
紀介は素早く相手の動きに反応し、真っ直ぐに放たれた右腕を、こちらも右腕で受け流す。
そして同時に左腕を使って、がら空きになっている魔人の胴体めがけて拳を繰り出した。
「!!」
しかし、魔人も一筋縄では無い。
上手く紀介の拳の針を掻い潜り、それを掴んで受け止める。
そして膝を上げ、両手が離れてガラ空きになった紀介の腹部を蹴り上げようとした。
「ッ!」
その紀介はそれを目視した瞬間、体を後ろに背けてそれを回避し、そのまま魔人との距離をとる。
ほんの一瞬の組み合いだったが、地味ながらもお互いに引かない攻防が地下鉄車内で繰り広げられていた。
「……小僧、思ったより動くのじゃな」
「……」
魔人がそう言うが、それは紀介自身も思っていたことだった。
────俺の身体じゃないみたいだ。こんな素早い動きと反応、俺にできるとは思えない。火事場の馬鹿力……とも、多分違う。何だ、これ
しかし考えても分からない。
ただ今は自分の身を守ることだけを優先し、魔人と拳のぶつけ合った。
しかし、幾度か紀介の腕の針が魔人に傷を与えたり、その逆もあったりはするものの、お互いにいい一撃が入らない。
まるでアクション映画のようか、互いに一糸乱れぬ互角の戦闘。
───いや、むしろ互角すぎと言ってもよいほどだった。
いい勝負をしている、と言えば聞こえはいいが、要するに永遠にあいこが続くジャンケンと同じ。
初めは紀介の動きを賞賛した魔人も、さすがに違和感に気がついた。
「……おかしい。まるで、自分と戦っているような感覚じゃ。わしの攻撃を防御を、なぜ貴様は同じようにやり返してこれる……ッ」
そう言って魔人が勢いよく間合いを詰めて右腕を繰り出すも、紀介は後ろに飛んでそれを避け、今度は紀介が勢いよく間合いを詰めて右腕を繰り出してみせた。
紀介も意図していない、無意識な行動の模倣。
─────しかし、戦闘開始から二分弱。
ついに終わらない格闘に変化が起きていた。
「……はぁ、はぁ……ッ」
動きは互角でも、なぜか体力だけは紀介が圧倒的に劣っていたらしかった。
次第に息があがり、今までは同時だった蹴りも一瞬遅れ始める。
今まで無意識に避けることが出来ていた攻撃でさえ、今は何とか避けている状態だ。
「貴様疲れが見えているぞ!老いたこの体に劣るその体力────実に哀れじゃ!」
その声と同時に繰り出された魔人の蹴りが、ついに紀介の鳩尾を的確に捉えた。
「うぉぶッ……!!」
あそこまで互角だった戦いも最後は呆気なく、一撃で勝敗が着いた。
紀介は目を見開いて蹲り、口から溢れる泡を必死に抑える。
しかし、そんな悲惨な状態を前にして魔人がトドメを躊躇うわけがなかった。
「……まさか抵抗に合うとは思わなんだが、これでわしの勝ちじゃ。もはや怒りは消え失せたが、ここで逃がすと思わぬことじゃ。────死ねいッッ!!」
そう言って魔人は刃を纏った拳を振り下ろし、今、紀介の頭を貫かんと────
ッッ──────
「────ぉ」
突然窓が割れ、それと同時に魔人が小さな断末魔を遺し、その場に倒れる。
紀介はもはや意識が朦朧としており、何一つ理解できないままその光景をうっすらと見ていた。
ホームに駆けつけていた保安局の特殊部隊チームの内の一人が銃を下ろし、肩についていたトランシーバに向かって言った。
「目標A射殺完了。続いて、目標Aと交戦していたとみられる高校生男児、【目標B】の確保に移ります。やむを得ない場合の射殺許可を」
『許可する』
「了解!」
床に倒れている紀介は、車両に近づいてくるその部隊の足音を感じ取り、安心と不安の中で、ついにその意識を失った。
……紀介は魔人である以上、このまま部隊に捕らえられてしまうだろう。
しかし他人に危害を加えたわけではなく、魔人の自覚がありながら申告をしなかったというわけでもない。
そのため、恐らく研究所での監禁や殺処分はないだろう。
普通の収容所に入れられた後、死ぬまで平和な監禁生活を送ることになる。
─────普通ならば。
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病室のベッドで目を覚ました紀介が最初に見たのは、ベッド横に立っている、黒スーツを着た二人の男だった。
「……ぇ」
状況を呑み込めない紀介がそんな声にならない声を絞り出すと、男のうちの一人が、厳かに口を開いた。
「笹ヶ峰紀介。対魔人保安局東京支部長《たいまじんほあんきょくとうきょうしぶちょう》が君と話がしたいと仰っている。目が覚めたのならすぐに着替え、我々に着いてこい」