チャプター7
〜エルリッヒの自宅〜
よろい戸を閉め切ったままの室内は暗い。夜を迎えるのにはまだ少しあるので、それらを開け放ち、それでも少し薄暗いため、ろうそくに火を灯す。これで十分な明るさになった。
エルリッヒは椅子に座るでもなく、厨房に向かう。
「まだ晩御飯には早いけど、今日お昼食べ損ねちゃったでしょ? お腹減っちゃってさ、今から晩御飯作るけど、食べてく? お姫様扱いされて気分がいいから、タダにしとくよ?」
「タダ!?」
「えー、そこ? ゲートムント、あんまりみみっちいのは。もちろん、ごちそうになるけど……」
ゲートムントをたしなめつつ、ツァイネもご相伴に預かるという。代金のことはともかく、二人とも、このお誘いは嬉しかった。
「じゃ、三人分作るからちょっと待っててね。っと、そだそだ」
手慣れた所作でかまどの火を起こすと、入り口に戻り、ドアに「臨時休業」の札を下げた。
「これしとかないと、お客さん来ちゃうしね。本当、蓄えがあってよかったよ。一回の休業がどれだけの損失になるかって考えたら、恐ろしくて夜も眠れないからね!」
「そっか、切実だよね」
「俺たちも不安定な稼業だけどよ、食堂もなかなかに綱渡りなんだな。感心するぜ」
カウンターで椅子に座った二人はしみじみ同情してくれたが、エルリッヒの心配はお金のことだけではなかった。仕入れた食材は、ここで三人前作ったところで到底使いきれるものではない。鮮度は心配だから、少しでも使ってしまって、残りは干物や塩漬けにでもしなくては。
幸い、干物も塩漬けも、酒のつまみにはちょうどいい。それなら、日を改めて出せば美味しく食べてくれるだろう。そこまで考えたところで、胸のつかえがすぅっと軽くなっていった。
「あ、そうだ、お酒はちゃんとお代を頂くから、それだけはよろしくね」
「う、やむをえねーか」
「タダ飯をご馳走になるんだから、それくらいは払わないと悪いよね。もちろん払うから安心してよ。でも、他に何か手伝いはいらない?」
ツァイネは甲斐甲斐しく手伝いを買って出たが、むしろ素人が手伝っても足手まといになるからとこれを断り、一人厨房に引き払った。
料理ができるまでの間、二人はくるくると動くエルリッヒの背中を見つめることになった。
「なあツァイネ」
「ん、何?」
料理が始まってしばらくして、エルリッヒの出してくれた井戸水を飲みながら二人は会話を始める。じっと後ろ姿を見つめるというのも、案外暇なのだ。
だからと言って、空腹のままお酒を飲むのは良くないからと、まだ出してくれない。すっかり暇を持て余していた。
「こうしてエルちゃん見てると、本当にあのドラゴンなんだって、あんま信じられねーよな」
「まあ、そりゃあね。姿形が全く違うからねぇ。でも、あんな思いつめた様子で打ち明けてくれたわけだし、何か色々と合点が行くことも多いでしょ?」
二人は、当然のようにエルリッヒの言い分は信じることにしていた。だが、この目で見るまでは、座学的に知った知識が事実として結びつかない。こればかりは仕方がないことなのだ。
もちろん、信じているみんながみんなそのような感じだからこそ、今まで通り過ごせているとも言えた。もし、この先本当に返信するところでも見られようものなら、それは英雄視されるか迫害されるかのどちらかに違いない。エルリッヒ本人を含め、みんなそのように考えていた。
「あー、あのフライパンを軽々と振ってるところとか、いろいろ詳しかったり、王様に物怖じしなかったり」
「世界を旅していろんな街にいたっていう話もね。この世界は広いんだ。この国の外をいっぱい知ってるとなると、とても二十歳そこそこの若さじゃ無理だよ。長く生きてきたからこそじゃないかな。それにほら、北の国で出会った竜人族の人たち、エルちゃんと顔見知りの人も結構いたけど、なーんか、昔っから知ってる風だったからね。じゃあその昔っていつ頃なの? なんて考えたら……」
グラスに注がれた水をぐいと飲み干し、ツァイネは続ける。
「とてもじゃないけど2、3年の話じゃなさそうだなって感じちゃったんだよね」
その瞳はどこか寂しそうだったが、それは自分とは違う時間を生きていることを思い知らされたからだろうか、それとも、気づいてはいけないはずのことに気づいてしまったからか。
「でも、2、3年じゃないっつっても、5、6年くらいのことだと思ったんだろ? あの時の俺たちは、まだ普通の女の子だって信じてたんだから。しょげんなしょげんな。エルちゃんは今こうして目の前にいる。それで十分じゃねーか」
「ま、そうなんだけどねー」
「ちょっと、何意味ありげなこと話してるのさ。あれこれ考察したって無駄だよ? 私は野辺に生きる町娘でしかないんだから。ほら、前菜ができたよ。冷めないうちに食べちゃって。それと、お酒も好きなの飲んでいいから、自由に取ってってよ。あと、私がこのフライパンを軽々と振るえるのは、料理人だから。これだけは忘れないように」
ちゃっかり全て聞いていたらしいエルリッヒが、カウンターを通り越してテーブルに食器と大皿を乗せた。料理をする音で聞こえないかと思ったが、何しろ至近距離、まして人間以上の聴覚を持っているかもしれないエルリッヒには、筒抜けだったらしい。
「そこ、大事なとこなの?」
「当たり前でしょ。なんで今こうしてお料理作ってると思ってるのさ。そんなことはいいからさっさと食べる!」
「い、いや、俺たちは食うけど、エルちゃんはいいのかよ。結局作ってばっかじゃねーの?」
珍しくゲートムントが真っ当な心配をする。が、空腹を訴えているようには見えなかった。俗に言う、作ってるうちにお腹が膨れてきた、というやつだろうか。
「私はいいんだよ、味見しながら作ってるんだから。それに、メインディッシュができた頃にはちゃーんと着席するから。それより、カウンターだと三人じゃ食べづらいでしょ、こっちのテーブルで食べててよね」
「あ、そういう。わかった、ありがと」
「そいじゃ、俺は酒を物色させてもらうかな」
ツァイネが食器を手にした頃、ゲートムントは楽しげに酒瓶の置かれた棚に向かった。後で料金を請求されるとわかっていてもこのひと時がたまらない。
「あー、高いお酒取ってこないよね」
「んー、それは大丈夫じゃないかな。うち、あんまり高いお酒仕入れてないから。それじゃ、遠慮なく食べててね」
ゲートムントの背中を見送りながら、厨房に戻る。ツァイネも、まるで一皿全部自分の分だと言わんばかりに食べ始めた。こうして元気に食べてくれるのが、何より嬉しい。料理人冥利につきる。
「さーて、次は何を作るかなー。何しろ材料はしこたまあるしなー。うーん……」
食材を前に腕を組んで頭をひねる。このひと時も楽しいのだから、料理人は本当にやめられない。
一方、ゲートムントは気に入ったお酒を見つけたようで、ニコニコしながら戻ってきた。
「へへっ、結構良さそうなのがあったんで、これを飲むことにするぜ。エルちゃん、オープナー貸してくれる?」
「あー、カウンターの脇に置いてあるから好きに取っていいよー」
言われるがまま、カウンター脇に置いてあったワインオープナーを使い、コルクの栓を抜いていく。軽快な破裂音とともにボトルが開くと、それをグラスに注いでいく。自分の分だけでなく、ツァイネのグラスにも少しだけ注ぐ。そうしておすそ分けするのが、ゲートムントの考える美味しい飲み方なのだ。
「おー、いい色だ。香りもいい。こりゃあ美味しいぞ?」
「本当だ、美味しそうだね」
このボトルが一体いくらするのかなんて、今は考えない。なんなら二日酔いのことすら考えない。こんなに平和な時間はなかなかないのだから、今はただ、美味しい夕食を食べよう。
二人はそう強く思った。
〜つづく〜