チャプター39
〜竜の紅玉亭〜
「修行時代の話、ですか? 聞きたいです!」
場の空気を変えようと思って言い出したことだったが、意外なほどに食いつきがよかった。良かった、これでまた楽しく話をしていられる。
「えーっと、どこから話をしようかな。最初は、自分でも作れるようになりたいなって思ったんです。だから、食堂に行って美味しい料理と出会った時に、頼み込んでレシピを教えてもらってたんですよ。もちろん、門前払いされることも多かったんですけどね。だから、食べながらどんな材料を使ってるんだろう、どういう風に調理してるんだろう、なんてことを考えながら食べる癖をつけて」
「ふわぁ、それは、わたくしにはとてもできません! お店の人に尋ねるなんて。でも、それで教えてもらったのは、ちゃんと再現できたのでしょうか」
話を聞いているだけでドキドキする。頭の中にその時のエルリッヒの姿が、景色が浮かんでくる。見たこともない何百年も昔の世界の話なのに、見てきたかのように思い浮かぶのはなぜだろう。決して情景豊かに語られているわけではないのに。本当なら、今の世界とは全然違うかもしれないのに、ありありと浮かんでくるのだ。
こんな経験、初めてだ。
「再現。ん〜〜、できたものもあれば、全然できないものもありましたね。だって、腕はない、食材は不十分、調理器具もこんなに色々揃ってなくて、自宅のキッチンも簡素でしたから。まぁ、ここだって、お店はお店だけど、エルザさんのお屋敷にある厨房よりは質素でしょうけど。とにかく、どうしても足りないものがあれこれあるっていうのが最初でした。お店の料理と家庭の料理が違うっていうことを意識したのは、その頃だったと思います」
「じゃあ、じゃあ、お店を出そうって決めたのはいつ頃なんですか?」
いつごろ? そう問いかけられて、ふと答えに詰まってしまった。お店を出したのはこの街に来たのが初めてだ。それまでのことはだいたい覚えている。が、料理人としてプロになりたいと志したのは、果たしていつの頃だっけ。そんなに前だった気もしないし、魔王が現れるよりも前だったような気もする。
「う〜ん、ちょっと待ってくださいね。なかなか思い出せなくて」
「やっぱり、ずっと昔のことなんでしょうか。何百年も生きるって、わたくしには想像もできない世界です」
それはそうだろう。こんな経験をしている者は、百年以上生きる竜人族を除けば、この世界にも数えるほどしかいないのではないだろうか。自分の他にいるとすれば、同じように人間社会に溶け込んで生きる竜王族の親戚か、おとぎ話の異種族くらいだろう。いるかどうかもわからない存在に想いを馳せるのは、楽しくもあり、不毛でもある。
「長く生きるって、その間ずっと楽しいことがあるわけでもないですし、辛い人も多いと思いますよ。だから、百年足らずで死ぬのも、悪いことじゃないと思います。それで、料理人を志した時期ですよね。多分、百三十年くらい前じゃなかったかと思うんです。ごめんなさい、曖昧で。でも、それまでは自分の食べる料理を美味しくしたい、ていう思いだけだったんですけど、だんだんと他のお客さんの美味しい笑顔を見てたら、それがたまらなく素敵に思えてきて。それに、お店の雰囲気、どうでした?」
「はい。とっても活気があって、元気になりました! 小さい頃お父様に連れられて行った領地の酒場もあのような感じでしたけど、いつもあんな感じなのでしょうか」
気圧されてやしないかと心配になったが、杞憂だったようだ。これは本当に良かった。エルザの様子からは、気を遣って無理をしているようにも見えない。ならば、本当にあの活気も楽しんでくれたのだろう。
「そうですよ。みんな、昼間っから大騒ぎだったでしょう? こんなに明るいのにお酒を飲んじゃう人もいて。街の酒場って、昔っからあんな感じで、いるだけで元気になれたんです。だから、ああいうお店を持ちたいなぁってだんだん思うようになって。とはいえ、やることはとっても多いですから、何から手をつけたらいいかさっぱり」
「そうでしたか……わたくしも、お店を出すだなんて、考えただけで頭がこんがらがってきてしまいます。一体何をどうしたらいいのか」
あの頃を思い返しても、何をどうしたらいいのか、本当にさっぱり分からなかった。身近な人たちに聞いても意味はなく、それぞれ全然違う職人で、自分たちの専門分野については詳しいものの、それ以外のことはさっぱりだった。
「だから、まずは手頃な食堂に弟子入りしたんです」
「まぁ!」
弟子入り、という言葉に強く反応してくれた。度胸がいることだからか、その手順も思いつかないからか。確かに、エルザが誰かに弟子入りしようとすれば、今の身分の全てを捨てなくてはならない。それはほとんど存在しない選択肢と言ってもいいだろう。
「あの頃は、今よりも世の中が大雑把だったんですよ。お店の人に頼んで、シェフに話をする時間を作ってもらって、あとはもう、ひたすら頼み込んで。そうしたら、案外あっさり認めてくれて。女だからって容赦しねーぞ、みたいなありきたりな言葉もかけられたりしましたけどね。それで、最初は野菜の皮むきから始めて、食材の目利きあたりを教わりました。どんな食材が美味しいか、どれが新鮮か」
今の仕入れにも、あの頃の親方の言葉が強く息づいている。とっくの昔に親方はこの世を去っているから、もしかしなくても今の自分の方が目利きはあるだろう。それでも、基礎は基礎だし、あの頃の親方は、まさしく親方だったのだ。
「修行は、どのくらいされたんですか?」
「ん〜、そのお店では、十年くらいいましたよ。まだまだお店を出すには早いって思ってたし、時間はたっぷりあるし。でも、十年くらいすると、さすがに姿形が変わらないのに不審がる人も出てきちゃうから、そうなる前にありがとうございましたって言って卒業したんです。で、今度は別の街に移り住んで、そこで同じように良さそうなお店に修行させてもらって」
今まで、こんなことの繰り返しだった。別段気にしてはいないが、いつも、十年前後で街を後にしてきた。街の数なんて世界には限られているけど、何十年もすれば、消える街もあれば新しくできる街もある。だから、かつての知り合いに出会うことはなかった。そんな再会も、あったらあったで面白いのだが。
「そうでしたか……じゃあ、たくさんお店で修行なさったんですね」
「ええ。でも、ちょうど百年くらい前、魔王が倒されたあたりの頃は、山奥の村で畑仕事をしてました。美味しい料理を作るためには、美味しい野菜を作ることも大切だって気づいて。そこでも、村のみんなに頼み込んで色々教えてもらって。大変でしたけど、貴重な時間でしたよ」
「魔王の時代ですか……それはそれで、大変だったのではありませんか?」
これまで、ずっとニコニコと話を聞いていたハインツが、久しぶりに口を開いた。そうか、ハインツは直接その頃を知っている人間から話を聞くことができた世代か。
『大変』という言葉の意味は、まさしく魔物の侵攻があったのではという心配だろう。しかし、エルリッヒの穏やかな表情は崩れない。
「その辺は大丈夫です。狙ったわけじゃありませんけど、山奥の村なんで、魔物もほとんど来なく。いても弱い魔物ばっかりでしたから、村のみんな総出で退治しましたよ。それに、どんな小さな田舎の村にも大体一人は村を守る戦士がいましたしね」
「まぁ!」
「そうでしたか。それは何よりでございましたな」
まるであの頃を知っているかのようなハインツの語り口に、不思議な感覚を覚えた。
(まさか、まさかね)
そう、自分に言い聞かせるのだった。
〜つづく〜