チャプター38
〜竜の紅玉亭 昼下がり〜
「い、いや〜、伯爵様にお越しいただくのはさすがに……」
もちろん来てはいけない、ということはない。来てくれるのなら大切な客だ。しかし、相手はあのルーヴェンライヒ伯爵だ。同じ騎士団でも平民出身の一般兵とは違う。
子供の頃から豪華な食事しかしたことがなさそうな人物だ。戦地でなら粗末な食事も経験したかもしれないが、魔王との戦いも他国との戦いもない時代、そんな経験はほとんどないだろう。
何しろ、貴族の子息は騎士団に入っても、基本的には前線に立つことはなく、安全な後方が多い。いずれ指揮官に入るようなコースが約束されているのだ。盗賊退治や獣退治にすら赴いた経験があるかどうか、あやしい。
「伯爵様のお口に合うかな。や、もちろんいつも精一杯美味しいものを作ろうと思って頑張ってます! でも、あの伯爵様ですから……」
「エルリッヒお嬢様、ご安心ください。旦那様は、若い頃から街場の酒場などにはよく出入りしておりましてな、領地の視察の折も、領内の安宿に泊まられております。むしろ、我らよりも庶民の食事や生活に慣れております」
「まぁ、そうだったのですね! わたくしが美味しく感じたのですから問題ないとは思っておりましたが、それなら全く問題なさそうですね!」
ハインツの言葉がただのフォローではないとすると、確かに懸念事項は一つ減る。もちろん伯爵がこのような場所にやってくること自体緊張の種なのだが、食事に抵抗がなければまだ大丈夫かもしれない。
自分にできることは、ただただ美味しい料理を作るだけなのだから。
「じゃ、じゃあ、そういうことなら……」
「はい!」
「もちろん、幾日か前にはご連絡させていただきますから、ご安心ください。我らが突然来られても、エルリッヒお嬢様もお困りでしょうから」
その気遣いは、とても嬉しかった。伯爵が来るからといって特別なことは何もないのだが、やはり気の持ちようがまるで違う。できるだけ、心構えの上で迎えたいのだ。
「ありがとうございます。それだけでも全然違います!」
「ハインツ……ありがとう。わたくし一人ではとてもその気遣いはできませんでしたから」
「フォッフォッフォ」
ニコニコとしているが、細めた目の先には優しさと同時に恐ろしい何かを感じる。これはもしかして、ルーヴェンライヒ伯爵家で一番の食わせ物かもしれない。
だが、それでも今は優しく気遣いのできる老紳士なのだ。
「それはそうとエルリッヒさん、エルリッヒさんはどうして料理の道を志したのですか?」 それに、どこでこれほどの実力を? わたくし、屋敷のコック以外の作る料理を口にする機会が少ないものですから、気になってしまって」
「んー、大したことじゃないんですよ。元の姿でいる時は、お料理なんて口にしません。あくまでドラゴンですから、もっと野趣あふれる狩りなんですね。エルザさんに語って聞かせられないくらいに。でも! いざ人間の世界に入ってみたら、お肉も野菜も少しでも美味しく食べようとあれこれ工夫してる。それに感動しちゃって! もちろん、味にも。何しろそれまではその辺の草花が野菜なんていうものとして食べられるものとそうでないものが分けられているだなんて知りませんでしたし、それをわざわざ栽培したり品種改良したりしてるなんてことも知りませんでしたから」
口に出すだけで、あの頃の感動が克明に思い出される。お金という概念すら知らなかったのに、近所のおばさんが甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
口から出まかせの「山奥の田舎から出てきた」という話を疑うこともなく信じてくれて、当時の現代社会のあれこれを教えてくれたのだ。今の自分があるのは彼女のおかげと言っても過言ではないし、その教えは今でもしっかりと日常生活の根底に活かされている。
あれから三百年あまり、おばさんの末裔はどこかで元気に過ごしているだろうか。
「……さん。エルリッヒさん。どうされましたか? 急にぼーっとなさって」
「え? あ、いえ、昔のことを思い出していたんです。本当に、いい人と巡り会えたなぁ、と。こことは違う、全然違う場所にある、全然別の国の人たちですけどね」
「数百年の時を生きてきた、と聞きましたが、いやはや、私よりもはるかに長生きされているとは、何度聞かされても信じられませんなぁ」
そうなのだ。軽く見積もってもハインツの四倍以上は生きている。寿命がまるで違うから、この数百年で姿がほとんど変わっていないことが大きいだろうと思った。
「どこからどう見ても、二十歳そこそこですものね、私」
「それだけではありませんよ。気の持ちようと言いますか物腰と言いますか、全てがお若く見えます」
「あの……本当はわたくしたちと同じ人間なのではありませんか? とてもではありませんが、信じられなくて……いえ、信じたいのです。街を救った竜のお姫様だなんて、本当にロマンがありますから。でも……」
エルザの気持ちはよくわかる。ぱっと見はどこにも『人ではない』痕跡がないのだから。それを信じさせようとすると、自然と人間関係だけが拠り所になってしまう。今朝のフライパンの実演も、証拠たりえない。いつかその目で真実に触れた時に拒絶さえされなければ、いっそ無理して信じてもらう必要はないのだが、それはそれで寂しい気がしていた。
何しろ、苦渋の決断で正体を明かしたのだから。
「エルザさんは、私のことを友達だと思ってくれますよね? それなら、それだけでいいのかもしれませんね。いつかエルザさんの前に本当の姿で降り立つことがあるかもしれませんけど、その時にまだ友達だと思ってくれたら嬉しいです」
「何を言うのです! そんなの、当たり前です! それよりも、本来の姿はわたくしたちなど簡単に葬り去ってしまうことのできるドラゴンで、しかも身分はお姫様。エルリッヒさんこそ、わたくしのことをまだ友達だと思ってくださいますか?」
これにはやられてしまった。まさか、エルザから同じようなことを言われようとは。だが、当然の如く、その回答は決まりきっていた。
不安そうにこちらを見つめるエルザ。優しくその手を取ると、小さく目を閉じて穏やかに首を振る。
「そんなの、答えるまでもありません。いつまでもお友達ですよ。ドラゴンが人より上位の生き物だと言われているとか、私が王女でエルザさんが貴族のお嬢様だとか、そんなこと、小さなことです。だってほら、伯爵様はゲオルグおじさんと仲良くなりましたよね? 身分や立場の差は超えられます。私は人の世界で暮らすようになって長いですけど、このかた一度も竜王族としての誇りを失ったことはありません。それでも、エルザさんのことは、大切な大切なお友達です! あ、でも、女の子の友達が少ない、というのは気にしないでくださいね。たまたま、たまたまですから!」
「ありがとうございます! それにしても、たまたまということは、過去にはもっとお友達がいたことも?」
またしても、過去の思い出が蘇る。だんだんと人の世界のあらましが身についてきた頃、エルリッヒはいつまで経っても歳をとらないことを怪しまれないため、暮らしていた町を出ることにした。たどり着いた最初の村で出会ったのは、小さい村の村娘たちで構成されたコミュニティだった。
閉鎖的なことの多い村社会で作られたそのコミュニティは、なお一層の閉鎖的な空気で満たされていたのだが、そもそも若い娘が訪れること自体があまりにも珍しく、この村での居住を願う娘として、意外なほどすんなりとそのコミュニティに迎え入れられた。
結局、村を出るまでの約十年間、娘たちの多くは結婚したり子供を設けたりしたが、それでもそのコミュニティの結束は少しも揺らいでいなかった。
村を出る時、涙ながらに見送られたのは今でもいい思い出だ。
「もちろんそうですよ。ほとんどはもう天国に行っていますけど、末裔がどこかで暮らしていたらいいなぁ、なんて思います」
「末裔。そう……なのですね」
命の長さが違うということがどういうことか、なんとなく理解できたような気がした。これは、エルザに限らず人間であればなかなかできない経験だ。
そして、それはいずれ自分も先に年老いて天寿を全うするということと、その時にもまだ、目の前のエルリッヒは若い娘の姿でいるに違いない、ということを想起させた。
「わたくしのことは、笑って見送ってくださいますか?」
「ちょ、ちょっと! やめてください! そういう話はなしにしましょう! それに、私がその時どこにいるのかもわからないんですから! それより、料理人としての修行の話を聞いてくださいよ!」
思わずしんみりとした空気になりそうだったので、つい話題を軌道修正しようとするのだった。
〜つづく〜




