チャプター37
〜竜の紅玉亭〜
エルリッヒが料理を作っている間、エルザはじっとその後ろ姿を見つめていた。炎のような赤毛を左右に揺らしながら、軽々とあのフライパンを振るい、時には鍋をかき混ぜ、小皿で味を確認する。
時折、汲み置きの水を口に含んで、また火の前に立つ。そして、出来上がった料理を皿に取り分ける。あれはきっと先に頼んだお客さんの料理だろう。早く自分の番が来て欲しい。
料理を配膳するときは、お客さんと軽口を交わしながらも間違えることなく正しいテーブルに料理を運ぶ。
(はぁ、素敵だわ……)
屋敷では、オットーが料理を作る様を見ることはないし、料理を運ぶ間、楽しく会話をすることもない。会話といえば料理の説明を受けるときくらいだ。オットーの人柄を知ったのは、つい昨日のことなのだ。彼もこの屋敷では20年は支えているから、生まれる前からいるというのに。
自分では料理など全くできないし、きっとこの先も料理に携わることなどないだろう。だからか、余計に厨房に立つエルリッヒが輝いて見えた。
「お嬢様、いいでしょう? エルちゃんの料理姿」
「俺たちも、ああしてる後ろ姿を見てると元気が出るんだ! なんかな、見てるだけですっごく楽しそうに料理してるだろ? この辺りの連中は、みんなエルちゃんのことが大好きなんだ!」
「まぁ、そうでしたか! それでは、わたくしと同じですね!」
みんなはすっかり意気投合している。エルリッヒがみんなをつないでいるのだ。そうなれば、この場の空気に戸惑うこともなければ、みんなが困らせることもないだろう。
なんとなく気配でもそれが伝わってきて、とても嬉しいエルリッヒだった。
「それにしても、お嬢様はどこのお貴族様なんですかい?」
「そうだ、その辺が気になってたんですよ! いろいろ教えてもらってもいいですか?」
「いろいろ教えてもらったところで、俺たちにゃさっぱりだろうけどな!」
大きな笑いに包まれる中、エルザが持ち前の上品な笑顔で頷く。質問されることもまた交流であり、楽しい時間になるのに違いない。それが今の心持ちだった。
普段接する機会の一切ない貴族のご令嬢に微笑まれたとあって、男女を問わず客たちは沸き立つ。
「じゃあさじゃあさ! お嬢様はどこのお屋敷のご出身なんですかい?」
「あー! 一番乗りずるいぞ!」
「まあまあみなさん落ち着いてください。順番にお答えしますから。わたくしはルーヴェンライヒ伯爵家の者です」
「おお〜! なるほど聞いてもわからない! じゃあ、どうしてエルちゃんと知り合ったの? エルちゃんだって、貴族の娘さんとなんて知り合う機会はないよね」
その質問に、出会いの物語を思い出してしまった。本当に、なんと運命的な出会いだっただろうか。それを思うと、本当に感謝である。
「実は、わたくしの父とこの通りに住んでおられる職人のゲオルグさまが旧知の中で、ゲオルグさまのことを尋ねて来られた折に知り合いました。今にして思えば、本当に運命です!」
「ん? ゲオルグ? ゲオルグって、まさか隣の?」
「まさかぁ! あのオヤジがそんな立派な人と知り合いなんてありえねーって」
「でも、それなら誰なんだ? この通りに他にゲオルグなんておっさんいたか?」
「ゲオルグって言ったら、隣のゲオルグおじさんしかいないでしょ? はい、お待ちどう」
話を遮るように、エルリッヒが料理を運んできた。香ばしい匂いと共に立ち上る湯気が、周囲の驚きを隠していく。
「はい、冷めないうちに召し上がれ。エルザさんとハインツさんのは、もう少し待っててくださいね。順番なので」
「いえいえ、楽しい時間を過ごしていますから、待ち時間なんて全然苦になりません! それより、なぜみなさんこのように驚かれているのですか? ゲオルグさまも、ご立派な方ですのに」
こういう時、得てして身内や近隣の人間からの評価は低い。だが、一介の職人に過ぎないゲオルグが貴族様と親しいとなれば、その評価は変わるだろう。もちろん、信じる信じないは自由だが、何しろエルリッヒとエルザが揃って太鼓判を押すのだ、疑う余地はないだろう。
「あ、あのおっちゃん、そんなにすごかったんだ……」
「全く、失礼なこと言って。本人の耳に入ったらどうするのさ。おじさん、立派な人だよ?」
それだけを言い残し、エルリッヒは厨房へと戻る。
ゲオルグの人となりについてはみんなもよく知っているところだが、それが逆効果になってしまっていた。だからこそ、この驚き顔を見るのもなかなかに楽しくはあるのだが。
厨房では、いよいよエルザの注文に取り掛かる版がやってきた。先ほど入れた気合も、まだまだ残っている。
「それじゃ、行きますか!」
再びフライパンを手に、元気に食材を投入した。
「はい、お待ちどうさま。冷めないうちにどうぞ」
ようやく、エルザたちのテーブルにも料理が運ばれてきた。名前から中身が想像できない中で注文したが、シュニッツェルカウフェンという料理は、揚げ物のようだった。
「ありがとうございます! それであの……言いにくいのですが、見たところ、ナイフとフォークが足りないようですが……」
「お嬢様、一般の方々は、お皿ごとにナイフとフォークを変えたりはしないのでございます。この一揃えだけで食事をいたします」
まるで社会勉強とでも言うように、ハインツがフォローを入れてくれる。そういえば、『テーブルマナー』という奴には外側の食器から使う、というものがあったっけ。
立派なマナーもいいが、あまりお上品に徹していては、大衆食堂の料理は味わいきれないのではないだろうか。ハインツの説明が指し示すように、あくまでも一般家庭で出るような料理が中心なのだから。
「そうなのですか……庶民の方は一揃えのものだけで……わかりました! そういうことでしたら庶民のマナーをしっかりと身につけます! ハインツ、頼みましたよ! いろいろ教えてください!」
「はい、お嬢様。ではまず最初に、肩の力をお抜きください」
ハインツらしいやり方で、『庶民の流儀』をレクチャーしていく。その様子の面白さについ見入ってしまいそうになるが、厨房をあけるわけにはいかないのが常。後ろ髪を引かれながら戻るのだった。
「みんな、変な横やりは入れないようにね?」
「わーってるって」
「お嬢様がいいって言ってくれたんだよ」
「ありがたやありがたや」
みんなの様子がとても友好的何で、安心して厨房に戻ることができる。エルザに小さく手を振ると、再び厨房に戻った。注文はまだまだあるのだ。
「感想、気になるなぁ」
柄にもなくどきどきする。が、今は目の前の料理に集中しよう。それが間違いなく大切なことだ。そうして、再び目の前の食材と向き合った。
「おりゃー!!」
店内に、野菜を切る音が響き渡った。
〜1時間後〜
午後の営業を終え、店内は静けさを取り戻していた。
「エルザさん、今日は来てくれてありがとうございました。伯爵様にもよろしくお伝えくださいね」
ようやくゆっくり話ができると、店内に残ってもらったエルザとハインツに、先ずはとばかりにお礼をする。ようやくゆっくり話ができると、エルザはとても楽しそうだ。
「こちらこそ、とっても美味しかったです! 他のメニューも、ぜひ食べてみたいです!」
「ありがとうございます! またぜひいらしてください! 伯爵様がお許しになれば、ですけどね」
「ホッホッホ、その時は、私も助勢いたしましょう」
ハインツも味方につければ、途端に勝率も上がるというものだ。
「それでは、今度は父と共に伺いますね」
「はい! って、えぇ〜!!! それは緊張しすぎます!」
思わず、大きく叫んでしまうのだった。
〜つづく〜




