チャプター36
〜竜の紅玉亭〜
おとなしい声で遠慮がちに入ってきたのは、ほかならぬエルザだった。後ろには、ハインツも付き添っている。ようやく、ようやくのひと時である。
「あの……」
「エルザさん、いらっしゃい! 待ってましたよ! ハインツさんも、ようこそ!」
「はい。本日はお邪魔いたします」
調理中のフライパンや鍋を火から離すと、戸惑いがちなエルザの元に駆け寄った。幸い、貴族らしい華美な服装はしていない。目立つだけでなく、食事をするのに邪魔にもなるから、一安心だ。
「とりあえず、そこの席に座ってください。後でメニューを持ってきますから、少し待っててくださいね」
「は、はい!」
「それでは、失礼して。お嬢様、どうぞ」
ハインツは優雅な所作で椅子を引き、エルザを座らせる。
「おお〜!!」
「すげ〜!!」
早速注目の的になっているが、さすがに普段通りと言っても限界があったということだろう。しかし、まずはハインツの振る舞いに注目が集まることで、エルザへの視線が緩和されたことは良かった。
「あの、執事さん、あんたもお貴族様なんですかい?」
「そうだそうだ。俺たちゃそんな風に椅子を引いて女の子を座らせるなて、とてもできねぇよ!」
「ほっほっほ、私が貴族だなどと、恐れ多いことにございます」
「えっ、じゃあ俺たちと同じご身分なんで?」
「へぇ〜。とてもそうは見えねぇけどなぁ」
「このハインツは、お爺様の代から我が家に支えてくれているのです。若いころから我が家の勝手を知っている、生き字引なんですよ」
エルザが話に割って入る。てっきり店の雰囲気や周りの客たちの熱気に戸惑っているかと思ったが、これなら意外と早くとけ込めるかもしれない。
何しろ庶民と貴族では住む世界が違う。こうして触れ合う機会があるだけでも珍しいことなのに、あっさり馴染んでいるのは、エルザの時々みせる活発な一面があってこそだろう。
本当に、普段のおとなしい様子からは想像もできない。
「はぁ〜。世の中にはこんな人もいるんだねぇ」
「ありがとうございます。先々代の旦那様に拾われてより数十年、ずっとお仕えしてまいりました。その経験が、息づいているのでございましょう」
「本当、俺たちとはえらい違いだ」
「はいはい。あんまり二人を困らせないようにね。野菜炒めお待ちどう! それから、はい、こちらがメニューです。ここから選んでくださいね。今お水も持ってきますから」
「ありがとうございます!」
入り口近くのテーブルに野菜炒めの乗った大皿を置くと、もう片方の手に持っていたメニューを手渡す。それを、まるで貴重な書物でも眺めるように見ていた。
このようなものを見ること自体初めての、新鮮な体験なのだろう。
「見ていると、名前だけではわからないお料理もありますね。どれが美味しいのでしょう……」
「全部だ!」
「どれも美味しいから好きなの選んでくだせぇ!」
呼ばれてもいないのに、近くのテーブルに座っていた二人が身を乗り出してきた。テーブルの上には、空になった酒瓶が横たわっている。
強く止めたりはしないから、昼間から酒を飲む客もそれなりにいる。こればかりは仕方のないことだった。せめて、迷惑をかけなければいいのだが。
「そ、そうですか? じゃあ、ハインツ、どうしましょう……」
「そうですなぁ。私が選んで差し上げても良いのですが、せっかくの機会ですから、お嬢様がお一人で決められると良いでしょう。もう少し、考えられてはどうですかな?」
仮にも平民のハインツは、書かれているメニューの大半について、それが料理が何であるかを知っていた。だが、だからこそ何も言わず、エルザの自主性に任せようとした。そう、これはまさに『せっかくの機会』なのである。
普段貴族社会から、そして屋敷から出ることすらほとんどない生活を送っているエルザにとって、このような経験をすることは、もしかしたら二度とないかもしれない。
よしんばそのような機会があったとしても、父であるルーヴェンライヒ伯爵の付き添いで領地の視察に赴いたときくらいだろう。むしろこの街での自由の方が少ないのだ。
「はい、お水をどうぞ。時間はまだありますから、じっくり選んでくださいね?」
「はい! しかと選ばせてもらいます!」
エルザは、庶民にとってはなんてことのない食堂のメニューを、ありがたそうに読んでいた。メニューの中身を想像するだけでなく、「これがエルリッヒの字か」「この表紙の装飾は誰が考えたのだろうか」「このメニューに使われている紙はどのようなものなのだろうか」など、その全てが気になって仕方ないといった様子だった。
そして、一通り端から端まで読み終えると、出された水をくいと喉に流し込んだ。
「!!」
木製の簡素なコップに注がれたそれは、確かに水なのだが、何かが違っていた。
「まぁ! あの、エルリッヒさん!」
と、声をかけたところでその姿はもうない。辺りを見回すと、厨房に戻ってフライパンを振るっていた。何かお肉のようなものを焼いているのが斜め後ろから見える。
(あれは、もしかして今朝方お父様がチャレンジしたフライパンでしょうか……やっぱりエルリッヒさんはすごいお方なんですね……)
厨房には幾つかのフライパンが見えた。が、他のフライパンは明らかに使われた形跡が少なく、今使われている漆黒のフライパンばかりを使っていることが見て取れた。それだけ、大切で使い勝手の良いものなのだろう。そして、間違い無く、あれは例のフライパンだった。
自分では重すぎて持ち上げることが叶わず、騎士団の一員たるルーヴェンライヒ伯爵ですらわずかに持ち上げるのが精一杯だったそれを、片手で軽々と振るっていた。
みんなはあのフライパンがすごいものだと知っているのだろうか。この疑問はそこはかとなく湧いてくる。どう見ても、誰も気にしていないようではあるのだが。
「はっ! いけません。いつの間にか思考がそれてしまいました。エルリッヒさーん!」
「おーい、お嬢様がお呼びだよ〜!」
「エルちゃんのご指名だってさ〜!」
幾人かに呼びかけられ、ようやく気付いた。普段あまり訪れない若い娘の声は、どうしても店内の喧騒に埋もれてしまうようだ。
火を弱め、フライパンから目を離してもいい状態にすると、再びエルザの元へ向かった。
「ご注文は決まりましたか?」
「あ、いえ、まだ悩んでいるところです。それよりも、このお水があまりにも美味しくて。どのようなものなのでしょうか。もしかして、何か特別な調味料でも入っているのでしょうか」
ちらり、とテーブルの上のコップで揺らめく水に視線を落とした。
「はい。私の愛情がこもっています! というのは冗談として、ただの水ですよ? このような場所で飲むから、美味しく感じられるのかもしれませんね。ただ、もしかしたら、この辺りの井戸は、お屋敷で使っている井戸とは違う水脈かもしれませんけど」
「まあ! それでは、ほとんどがわたくしの気のせいということにはなりませんか? それでこんなに美味しく感じるだなんて、不思議なものですね!」
全くその通りだ。でも、そういうことがあるのが食の世界なのである。
「それじゃあ、注文をしますね。えーっと、この、シュニッツェルカウフェンというのと、サラダを一品頼みたいのですが、どれがいいでしょう」
「エルリッヒお嬢様は、私はこちらのヴィーナークーヒェンと、リープクラートを。エルザお嬢様、サラダは頼みましたのでご安心ください」
「えーっと、注文を繰り返しますね? シュニッツェルカウフェンとヴィーナークーヒェン、それにリープクラートですね。お待ちくださいね」
二人からの注文を受けると、嬉々として厨房に戻っていった。みんなにはもちろんのこと、二人にも、美味しい思いをしてもらわなくては!
「よーし、やるぞー!」
腕まくりの仕草をしつつ、気合い十分とばかりに叫んだ。
〜つづく〜




