チャプター35
〜コッペパン通り 竜の紅玉亭〜
しまった。この後エルザが来ることを伝え忘れた。また、豪華な馬車でやってくるだろう。もしかしたら、一旦着替えて豪華なドレスに着替えてくるかもしれない。
どの要素を取っても、目立つことこの上ない。また、大騒ぎになるだろうか。
「う〜ん……どうしたものかなぁ」
できれば、エルザには普段通りの雰囲気で楽しんで、味わってほしい。みんなの衆目を浴びるようでは、気を使ってしまうかもしれない。そうならないためには、どうしたものか。
「とりあえず、みんなに一言伝えておくかなぁ」
あれこれ考えてみたが、シンプルな手段を取るのが一番良さそうだった。まずは、きっちり仕込みを済ませていつも通りの料理を作れるように準備を整えなくては。せっかく来てくれるのだ、お店の雰囲気はもちろん、料理の味がまず大切だ。オットーの作る料理とは全く別のメニューだが、「美味しい」という気持ちだけは決して負けるわけにはいかない。
「よしっ、やるか!」
威勢良く腕まくりをして、朝の仕込みに取り掛かった。
〜竜の紅玉亭 昼〜
「エルちゃ〜ん、食べに来たよ〜」
気の抜けたような声色でやってきたこの日最初の客は、通りの住人ディオだった。見知った顔に、ふっとエルリッヒの表情が和らぐ。
「ディオさん! いらっしゃい! はい、どうぞ」
適当な席に座ったディオに水を出すと、厨房には戻らずしゃがみこんで話しかけた。
「ね、ディオさん」
「何? 何か大事な話でもあるの?」
それがどんな話でも、ディオの心は少しばかり浮き立つ。通りの看板娘の名は伊達ではない。茹だった鍋が蒸気を奏でる。
「うん。すっごい大事な話があって。さっき、うちの前に立派な馬車が停まってたの、知ってる?」
「あぁ、あれね。僕はその場にはいなかったけど、みんなが噂話してるのは聞こえてきたからね。で、それが何か?」
とりあえず、まだ誰も来ていない。これはやはり、今のうちに手を打てということだろう。早速話を続けた。
「うん。そこにいたお嬢様がね? エルザさんっていうんだけど、今日この後ここに来るんだ」
「嘘っ! それって、貴族のお嬢様だよね。なんでそんな人がこんなところに? そもそも、さっきここにいたらしいのだって……」
その驚きは当然だった。そもそも、誰一人としてここに貴族の客が来るなどということは想定していない。こんなことを言われたところで、戸惑うばかりだ。
だからこその説明だ。少しでも望んだ通りになればいいが。
「うん、今朝のことはまた機会があったらみんなに話すよ。それで、大事なのはここからなんだけど、エルザさんがここに来ても、できるだけ普段通りにしてて欲しいんだ。少しでも普段通りのお店を体験して欲しいから。どうかな、お願いしてもいいかな」
「自信はないけど、やってみるよ」
それがディオの出した精一杯の回答だった。それはそうだろう。いきなりこんなことを頼まれても、ジロジロ見てしまうかもしれないし、質問攻めにしてしまうかもしれない。考えれば考えるほど、自信を失っていくのだった。
「できるだけ頑張ってくれればいいからね。それと、後から来たお客さんにも伝言して欲しいんだ。この後、誰が来るかわかんないし、エルザさんもいつ来るか決めてないから。でも、この後忙しくなるから一人一人に伝えてられないでしょ? だから、そこをお願いしたいんだ。もちろん、次からはみんなで伝えていってくれればいいから」
「そ、そっか、僕から次の人に伝えて、そのまた次の人には、僕が伝える必要もないのか。うん、それならなんとかなりそうだ。とりあえず、伝えるだけは伝えるよ」
ディオの言葉はとても弱々しい感じもするけど、それでもしっかりと伝言役を任されてくれた。それだけで十分だ。
「ありがとうね。それじゃ、何を食べる? 注文が決まったら呼んでね」
「お、そうだった。それじゃあ……」
そうして、ドキドキの昼営業は始まった。
〜数十分後〜
店内はいつもの賑わいを見せていた。繁盛している、と実感できて、とても嬉しい。みんなが楽しんでくれていることはもちろん嬉しいし、自分の生計が成り立つことも嬉しい。
日々、この実感があることこそが原動力の一つだった。
(でも!)
今日は違っていた。その実感は二の次で、エルザの来訪がいつなのか、ずっとドキドキしていた。営業中にこんなに落ち着かないのは、一体いつぶりだろうか。
普段通り振る舞っているつもりだけど、果たしてきちんといつも通りに振る舞えているだろうか。みんなに、そして何よりエルザに怪しまれないだろうか。そんなことが気になって仕方がない。
今の所、料理だけは間違い無く作れているはずなのだが。
「エルちゃ〜ん。ビールお代わり〜!」
「はーい! って、マクシムさん昼間から飲みすぎじゃないの? 午後のお仕事に差し支えるよ?」
幸い、みんなには事情は伝わっているし、今の所普段通りに接してくれているから、みんなとコミュニケーションを取っている間は普段通りでいられる。
「いいんだよ! ちょっとくらいお酒が入ってる方が、仕事もはかどるんだってば!」
「そんなこと言って〜、また親方に怒られても知らないよ? 私は売上が増えて嬉しいけどさ。はい、ご所望のビールですよ。とっても美味しいはずだから!」
「そっかー、エルちゃんはお酒飲まないんだっけ。こいつはビール大好きだからなー。俺はスープお代わり! 今日のはまた一段と美味しい気がするよ。いつもと同じ、野菜とスパイスのスープ、だっけ? なのに、不思議なもんだ」
いつもと何かを変えたわけではないが、いつも以上に気合が入ってしまったのは事実だ。もしかしたら、それが味に出ているのかもしれない。それは喜ぶべきことなのかどうなのか、いまいち判断できなかったが。
とりあえず、美味しいと言われるのは嬉しいことだ。器を下げ、お代わりを注ぐ。
「はい、どうぞ。いつも通りの美味しいスープですよー」
そうしてスープを出すと、再び厨房に戻って注文された炒め物を作り始める。シンプルだが、これがとても美味しい。途端にいい匂いが立ち込める。
そして、フライパンの様子を見ながら、スープの入った鍋に用意しておいた野菜を足す。
「よーし、炒め物出来上がりっと! えーと、これはどのテーブルだったかな? そだそだ、リヒターのおじさんのところだ。はーい、お待ちどうさま〜」
いつも通りの目の回るような忙しさにあって、いつも以上にそわそわしていて、今の所ミスがないのは不思議でならなかった。きっと、体が覚えてくれているのだろう。
「お、ありがとう! んん〜、実に美味しそうだ!」
再び厨房に戻ろうとくるりと向きを変えると、あることに気づいた。
「あれ? みんな、帰ってない?」
先ほどから、席を立つ客が一人もいない。普段なら、もっとローテーションは早いはずだ。それが、今日に限ってはみんな何かしらのお代わりを頼み、席に居座ろうとしていた。
これはもしや……
「怪しい」
きっと、エルザのことが気になるのだろう。普段なら相席をしないような人まで、相席でもいいからと座っている。おかげで満員に近いくらいの大入りだが、これで大丈夫なのかと問われると、やはり怪しい。
「みんな〜! もしかして、気になってるんじゃないの?」
露骨な声かけをしてやった。もしかしたら、これで何人かは帰ってくれるかもしれない。開き直ってしまう可能性もあったが、真偽だけははっきりさせておきたかった。
「ばれたか」
どこからか、そんな声がした。
「じゃあ、エルザさんのことが気になってる人、怒らないから手を上げて!」
すると、今度は全員が勢い良く手を上げた。やはりか。
「そんなことだろうと思ったよ。まったく……」
呆れ顔をしたその時だった。
「ごめんください……」
遠慮がちな声とともに、扉が小さく開いた。
〜つづく〜




