チャプター32
〜ルーヴェンライヒ邸 食堂〜
魔法の力にまつわる談義が終わると、そろそろいい時間のようで、いち早く食事を終えた伯爵が、身支度を整えるべく席を立った。
「もうそんな時間ですか。それじゃ、私も支度しないといけませんね」
と言いつつ、身支度はほとんど不要な状態のエルリッヒが続いて席を立った。残るエルザはいつもゆっくりなようで、この日もまだ少し残っていた。
普段ならそのままのんびりと食べていればいいのだが、この日ばかりは違う。エルリッヒを送る馬車に同行するため、みんなと歩調を合わせなければならない。
「あ、お待ちください! はむっ!」
多少行儀が悪かろうと、残すほどの罪ではないと残った朝食を掻き込み、それをジュースで流し込む。そして、エルリッヒの後を追った。
「エルザさん! エルザさんはどうされますか? その格好でついてきてくださるのか、それとも、ドレスに着替えちゃうのか。この後、お昼に食事に来てくださるんでしたら、このままの方がいいと思いますけど……」
「やっぱりそうなのですね。それでしたら、今日ばかりはこの服装でいることにします。いつもの姿に戻るのは、その後でも十分ですから。お父様も同行するからには、怒られてしまうかもしれませんけれど」
口ではそう言いつつも、エルザの表情は明るい。きっと、動きやすい服装をすること自体ほとんど経験がなく、よしんばそれで怒られたとしても、それすらも大冒険と同じなのだろう。
目が輝いている以上、何も言うことはなかったし、侍女たちに見立ててもらった服装であれば、間違いはない。
「怒られちゃっても、いいんですか?」
「う〜……今日だけは! 今日だけは、わたくしも元気で参ります!」
それは、エルザの小さな決意表明だった。
〜エルザの部屋〜
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
「はい」
伯爵が身支度を整える間、二人はエルザの部屋に戻り、二人きりの時間を惜しんでいた。何しろ二人とも身支度という身支度はほとんど済ませた状態で仕入れに向かっており、ほとんど変更する必要がない。時間ギリギリまで、他愛もない話に花を咲かせていた。
「それにしても、仕入れの代金を出してもらっちゃって、良かったんですか?」
「それはもう、父の決めたことですから。わたくしを同行させる迷惑料だと思って欲しいだなんて、失礼しちゃいますけど。でも、今までお金を使うということを見たことすらなかったのですから、帰りの時にしていただいたお話共々、とてもいい経験になりました」
のんびりと座っていたベッドから立ち上がり、ドアに向かう最中、そんな話をしてみた。仕入れの代金の肩がわりについては、迷惑料というのはあくまで名目で、訳も分からぬまま呼び出したことへのお詫びの意味や、無理矢理同行したエルザにとっては社会勉強にもなるので、それに対する謝礼のような意味合いがあったのだろう。いずれにせよありがいことだったが、気の引ける思いがしないでもなかった。
エルザはこのあたりの感覚がわかるだろうか。などと気にしてみるも、元来住む世界が違いすぎて、接点の一つもなかったであろう相手のこと、そこまで理解できなくても良いのかもしれない。
本人も言っているように、貴族という、わかりやすくお金持ちの家に生まれはしたが、むしろ普段お金を使う機会などない。まして、銀貨や銅貨はおろか、金貨すら目にする機会も手にする機会もないだろう。だから、エルリッヒが直接銀貨で代金を支払う様は、『貨幣経済』という概念を学ぶ、またとない機会になったのだ。
もちろん、勉強というよりも、楽しいひと時としての思い出の方が強く残っているのだろうが、それでも、何かの折には今朝のひと時が役に立つかもしれない。
それだけで、エルリッヒにとっては十分だった。
「それと、また香水を分けてもらって、本当ありがとうございました! 普段、ああいうお洒落なものとは無縁の生活をしているので……女の子失格でしょうか」
「それは大げさですよ。それに、私たちは着飾ることも仕事の一つですが、エルリッヒさんたち庶民の皆さんは、なかなかドレスのような装束を身にまとう機会がないと聞いています。ですから、香水をつける必要性も、少ないのですよね? それが普通であれば、恥ずかしがることはありませんよ。大切なのは、服装や香水といったもので飾り立てることではないのですから。ドレスは心で着る、という教えと同じです。心根やちょっとした所作振る舞いが重要なんだと、わたくしは考えています」
優しいけれど力強い言葉が、背中を押してくれた。
「エルザさん……」
貴族の娘にとっての教養は、歌や楽器、簡単な国の歴史など、貴族社会で華々しく飾ったり貴族の青年に見初められるためのものが中心だと思ったが、少なくともエルザについてはそれだけではないらしい。
これだけしっかりとした考えの女性観を持っているというのは、意外だった。もちろん、貴族令嬢の全員がそうではないだろうし、エルザだけがここまでしっかりした価値観で生きているわけでもないだろう。だが、こうして目の前の友人がそうであるということは、本当に嬉しかった。
「さ、本当にそろそろ行かないとお父様をお待たせしてしまいますね」
「そうですね。行きましょうか」
二人は手をつないだまま部屋を出る。足取りは軽かった。
〜中央通り 馬車内〜
ガラガラと馬車に揺られながら、コッペパン通へと向かう。伯爵とエルザとエルリッヒが乗る馬車と、朝仕入れた食材を乗せた馬車と、なんと二台での行軍である。コッペパン通りに豪華な馬車が二台も同時に乗り付けるなんて、まずありえない。
基本的に、地域住民や観光客が徒歩で行き来する街道なのだ。
「馬車一台でもみんな驚くだろうけど、それが二台ですから、大注目だと思います!」
「ふふ、皆さんの驚いた顔が楽しみですね!」
「それは、近隣住民の迷惑になるのではないか? もしそうならば、ちと心苦しいのだが……」
伯爵は気遣う様子を見せてくれたが、娘二人は楽しそうな表情だ。通りのみんなにとっても、これは迷惑でもなんでもなく、『なんだかわくわくする出来事』なのだ。
基本的に、コッペパン通りの住人は気のいい連中だ。馬車がやってきたくらいで迷惑に思って怒り出すということはない。それに、事情も事情なので、なおさらだ。それをわかっているからこそ、気にする素振りすら見せない。
「そんな大げさな。大丈夫ですって。だーれも気にしませんから」
「そ、そうか? ならば良いのだが」
馬車が中央通りを南下する中、街行く人々の姿が自然と目に飛び込んでくる。誰もが皆、自分を生きているような感じで、まさに自由気ままなこの街の住人、といった風情だった。彼らは各々職場に向かったり散歩をしたり、目的があるのだろう。
通り過ぎる馬車のことも、まるで気にしない人もいれば、とても興味深げに見ている人もいる。
「……私たちは、この者たちを守らねばならん」
「そうですね。私にとっても、守りたい人たちです。さすがに見ず知らずの人たちですけどね」
なんとなく、『国を守る。人を守る』ということについて、考えさせられるような気がした。国王の誘いこそ断ったが、その漠然とした思いに一切揺らぎはない。騎士団とも、思いは同じである。
「陛下がそなたを国防の要にしようと言い出した折には、御前会議が開かれたのだ」
「ご、御前会議?」
「それって、王様が直々に皆さんを集めて重大事項を決定する会議ですよね? 前に家庭教師に教えてもらいました」
そうまでして。という思いが去来する。それは、自分のことを買ってくれているありがたさと、大げさに物事を動かそうとする国王の人柄の面白さと、畏れ多さと、それらが複雑に混ざり合ったような気持ちだった。
「……王様らしいですね」
「ああ。手を焼かされることも多いが、我らを含め、国民全体にとっては良い陛下だ。さて、そろそろコッペパン通りに入る頃かな?」
馬車は左折し、中央通りを離れてコッペパン通りに入っていった。もう直ぐ到着である。伯爵は、『いよいよフライパンに触れる』と、浮き足立つ思いでいっぱいだった。
それはまさに、新しい武器を見に行く戦士のような心持ちである。
〜つづく〜