チャプター30
〜ルーヴェンライヒ邸 食堂〜
それは、朝食の席で起こった。
「お父様!」
エルザが、食事中だというのに突然立ち上がり、伯爵に話しかけた。それが何の話であるかを知っているエルリッヒは、気が気でなかった。
また、波乱の予感がする。
「何だ、食事の最中に。今日は客人もいるというのに、はしたないぞ?」
「それは、今しかないから……お父様はこの後お城に行かれてしまいますので……」
勢いよく立ち上がったが、伯爵にたしなめられると、すぐに勢いが消えてしまった。本人も、さすがに行儀が悪いという自覚があるのだろう。言いたいことを伝えていないせいもあり、座ることもできず、気恥ずかしそうにしている。
「う、うむ、そうであったな。しかし……いや、今日はよい。して、何か急な話でもあるのか?」
「はい! あ、あの……今度、エルリッヒさんの作った料理を食べてみたいのですが、機会を作ってはいただけないでしょうか……」
それは、精一杯の懇願だった。エルリッヒの仕入れに同行したいと願ったのに続き、まさに大冒険である。がしかし、こんな些細なことですら許可を取らねば自由にならないのだ。何不自由のない貴族のお嬢様は、一方では何一つも自由にならないがんじがらめの身の上だった。
そんな身上を意識しているのかどうか、伯爵は目を丸くしていた。
「な、何を申すのだ。そのようなこと……」
「まさか、この場に同席することを許可しておいて、まさかエルリッヒさんの作るお料理に異を唱えたりはしませんよね? わたくし、エルリッヒさんと出会ってから、一度でいいから庶民の食事を味わってみたいと思っていたんです! もちろん、その時は他の人のお料理ではなくて……」
ゆっくりと着席しながら、思いの丈を語る。それはもちろん今出されているような料理に不満があるわけではなくて、単なる好奇心や貴族としての上から目線でもなくて、エルリッヒが普段暮している世界に興味があるからこそだ。いずれどこかの大貴族に嫁いだり、有望な貴族の青年を婿養子に迎えたりするような未来が待っている。そうなってしまえば、今以上に身動きの取れない生活が待っていることだろう。こんなわがままが言えるのも、今のうちだけなのだ。
「し、しかしだな、そなたが勝手に出歩くわけにはいくまい。それに、あー、その……迷惑ではないのかね?」
「迷惑だなんてとんでもない! できれば、お付きの方々も一緒に食べてみてください。ちょっと、周りの常連さんの雰囲気に押されたり戸惑ったりはするかもしれませんけど。もちろん、毒は入れませんから、お毒味は不要ですよ!」
と、軽い冗談を挟みつつ伯爵の質問に答える。エルリッヒはエルリッヒで、初めて味わう貴族の朝食に舌鼓を打つのに精一杯だった。
朝からこんなにたくさんのメニューが出て、それもそんなに多いわけではなく、全体でまとまるようになってる。パンに至っては、小麦の質からまるで違うようだ。とはいえ、自分の舌には優劣をつけるものではなく、「どちらも美味しい」という感覚しかない。
普段からこんな料理を味わっているエルザに、庶民が口にしている料理も美味しいのだと、是非とも教えてあげたいところである。
「なんでしたら、今日のお昼時にでもいらしていただければ。私のことは送ってくださるって聞いてますから、二度手間になっちゃうかとは思うんですけど、何しろ仕込み作業は重要ですから」
腕まくりをする所作で「腕を振るいます」という意思を表明してみせる。メニューにもよるが、美味しい料理には仕込みが肝心だ。ここにいないオットー始め、お屋敷の料理人たちにはわかってもらえるだろう。
「そ、そうか。そ、それでだな、その送っていく時なんだが、私も同行させてもらいたいのだが、良いかね?」
「へ?」
唐突に、今度は伯爵がもじもじとした様子で同行を願い出てきた。護衛にしては厳重すぎる。つい、素っ頓狂な一言が出てしまった。
悪いことは何もないが、理由が気になるのは当然だった。
「あー、その、だな。昨日話してくれた、特製のフライパンとやらを是非見せてはもらえまいか。一度見なければ、陛下への報告もままならぬのでな……」
「もしかしてお父様、昨日から気になっていらしたのですか? あれだけ喧伝されれば、気にならない方がおかしいですから、わからなくもないのですが……」
国王への報告も口実にすぎないということはないのだろうが、興味がある、という理由の方が大きいのだろう。興味を持ってもらえたことはとても嬉しい。それで、たとえおまけ程度でも国王への報告に花が添えられるのであれば、まさに一石二鳥だ。
「いいですよ。というか、伯爵様がそんな遠慮をしなくても。ただ同行するとだけ宣言されれば、それでいいと思いますよ? この街で暮らしている限り、私はしがない食堂の主なんですから。王様は本気か冗談か、王族扱いしてくれますけど」
「そ、そうか。では、この後の帰宅の折には同行させてもらおう。そして、その特製のフライパンとやらを見せてもらおう。これで良いな?」
やはりどこか恥ずかしそうな伯爵に、にっこり笑って笑顔で頷く。
「では、そのようにいたす故、よろしく頼む」
「お任せください」
国内でも有数の大貴族の当主を前に、一歩も物怖じしていない。やはり、エルリッヒはただの小娘ではないのだと実感させられる。
それは、生来の立場や身分からくるものか、遥か彼方より生き続けている経験からくるものか、いずれにせよ、そのような人知を超えた相手が今、目の前にいる。
目の前で、緊張することもなくテーブルの上の食事を美味しそうに食べている。料理人としての研鑽とは言っているが、肝の座り方は並大抵ではない。
「食事中に話を続けて相済まぬが、エルリッヒよ、そなたは長く生きているというが、本当か?」
「そうですよ。乙女の秘密に関わることなので、詳しい年月までは明かしませんが」
またこの話題か、と思わなくもなかったが、伯爵が興味を持つのも無理はない。信用できない相手ではないので、答えられる範囲は快く答えてあげなくては。
それはきっと、自分のためにもなることだ。
「魔王がいた時代を体験しているとのことだが、その頃の騎士団や戦士について、何か知っていること、覚えていることがあれば教えてはくれまいか」
「あー、なるほど、そうですねぇ、ちょっと思い出してみるので待ってくださいね」
考えながら、お皿の上のサラダを空にする。野菜を咀嚼しながら虚空を見つめ、記憶を百年ちょっと遡らせた。徐々に、当時の記憶が蘇ってくる。
「えーっと、あの頃は今より強力な魔物や魔族、それに巨大な猛獣なんかもいたので、今より屈強な戦士が多かったように記憶してます。身の丈ほどもある剣や斧を振るう人もいましたし、何か細かい傷が全身に入った人なんかもいたりして。それと、あの頃の人たちは魔法が使える人もいっぱいいましたから、魔法を専門に使って、攻撃や回復をする人なんかもいましたね。戦士の人たちはさほどの魔力はなかったみたいなので、初級魔法で牽制しつつ攻撃をするような人ばっかりでしたけど」
「なんと! 魔法! そうであったな。私もオババ殿、いや祖母……エルザの曽祖母から、その辺りのことはたまに聞かされていた。魔王が倒されて、急に魔法の力が失われた、と。して、そなたはどんな魔法を使ったのだ?」
パンに美味しいいちごジャムを塗りながら、明快な声色で回答を続けていく。あくまでも、食事を疎かにはしないのがエルリッヒの流儀だ。
「私ですか? 私は魔法の力はさっぱりでした。ま、元の姿に戻りさえすれば、炎を吐いたり雷を落としたり吹雪を起こしたり、やりたい放題できますから。攻撃だけなら、ある意味魔法の力よりも万能でしたよ。っと、それは、今も同じですけどね」
さらりと語ってのけた話は、やはり常識の外側にあって、とても興味深かった。伯爵の、騎士としての性質がそうさせるのだろう。時間を忘れて質問したいという気持ちに駆られていった。
「そ、そうか! そなたはそのような力が!」
「言っておきますけど、今この姿では、基本的に使用できませんからね」
それもまた、一つの回答だった。
しかし、伯爵の興味はこの程度では途切れたりしなかった。
〜つづく〜