俺の名は・・・
たましい たましひ 1 【魂】
(1)人の肉体に宿り、生命を保ち、心の働きをつかさどると考えられているもの。肉体から離れても存在し、死後も不滅で祖霊を経て神霊になるとされる。霊魂。また、自然界の万物にやどり、霊的な働きをすると考えられているものを含めていう場合もある。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
「俺の名は建速須佐之男命。伊邪那岐と伊邪那美の息子だ。天照大神なんかや、月夜見尊なんかといった兄弟もいるが、あいつらは救いようのない人間(いや、神様か)にしか思えない。俺は姉貴たちとは違う。ダニエル・キイスに頼み込んで、多重人格にバラエティを求めようとしても姉貴たちのような人格は俺には必要ない。だってよ、いくら俺が荒くれ者だからといって、ただ姉貴に会いに行こうとしただけなのに、俺が高天原に攻めてきたと思い込んで武装するような姉貴だぜ。あ、もっとも、そんな臆病者の姉貴には天の岩屋がしっくりくるけどな。そう思わないか?」
スサノオはゆっくりと眼を開いていった。呪術師の陰謀によって目を覚ましたミイラが、財宝を求めている探検隊の背後から襲いかかろうとするときのようにとてもゆっくりと。久しぶりに目を覚ましたというのに何も見えなかった。スサノオの瞳の先は闇だった。完全なる闇。どんなに眼を大きく、目玉が飛び出るくらい大きく見開いても、ただ瞳が乾燥してしぱしぱしてしまうだけで、スサノオの瞳の先にある闇そのものは全く変わらない。スサノオは右手を掲げ、叫びたかった。
「電気を点けてくれ」
もちろんスサノオの指の先にはシーリングライトから伸びた紐は無く、かつてスサノオが天照大神を嘲弄し高天原を追放され、天照大神が岩屋に引きこもってしまった時のように、簡単には太陽は顔を見せてくれそうにない。
生まれ持っての破壊衝動に駆り立てられ、スサノオの血が沸いた。しかし、身体は動かせるものの、身体の全ての部位が粘度の高いタールピットの中を歩くように重い。ジョナサン・スウィフトの描いた小人の国で捕らえられた気分だ。
「目が覚めて、まだ時間が経っていないから、体が言うことを効かないみたいだな」
スサノオはそう納得すると、腰を下ろし、その闇をじっと見つめた。それにしても目を覚ましたのは一体何世紀ぶりのことなのだろうか。思い出そうとしても何も思い浮かばなかった。
「待つのは嫌いではない。だが、何もせずにじっとしているのはどうも性に合わん」
時間が経過しても一向に目が闇になれてこない。そもそも自分の顔に目が付いているのかすら疑わしい。その時、スサノオのアンテナが気配を受信する。武神としての誇りとも言うべき暴君の資質だ。スサノオは気配に向かって叫ぶ。
「お前は誰だ!」
「私の名はカーター・ディクスン。しがない推理小説家なんですよ。知ってます? 私の作品」
なんともいけ好かない声が返ってきた。
カーター・ディクスンもまた何も見えず困っていた。辺りをきょろきょろ見回しても何も見えず、手を大きく振り回しても何にも当たらない。座り込んで床に触れてみても、そこは平坦で小さな突起一つない。ただ感触が柔らかい。
暗闇の中、孤独感、不安、絶望、あらゆる負のイメージに駆られ、壁でもいいから何かがあって欲しいと思って歩き出した時に、カーターは大きな声で呼びかけられたのだ。
「『ユダの窓』とか知らないですか? 今の時代になっても結構有名な傑作と言われています。あら、ちょっと誇張しすぎてしまいましたか。ごめんなさい。もう過去の作家なんですよ。ははは」
自分を卑下すると見せかけ、カーターは大量の不可能犯罪を創作してきたように、持ち前の文筆力で推理していた。この声の主は誰なのか? この暗闇の中、カーターに対し呼びかけてきた男の声はなぜ足音も聞こえないのにも関わらず、カーターが近づいてきたことが分かったのだろうか? 様々な疑問がカーターの脳みそを駆けめぐっていた。
そこでカーターは一つ策を弄してみることにした。カーターはぴたりと歩みを止め、自分自身ですら何をしているのか分からない無我の境地に陥ることにした。東洋人が書いた書物を思い返し、ヨガ、瞑想、呼吸法を実践すると、一瞬にしてカーターは消失した。
「おいおい、おっさん」
すぐにスサノオの声が響いた。
「そんなところに突っ立ってないで、こっちに来たらどうだ。俺は口は悪いが、そんなにすぐにはあんたを喰ったりはしないぜ。ここが一体どこなのか、多少の弁護はさせてやるからよ。あんた、もちろん知ってるんだろ?」
その男のその口調は、カーターが描きたいと思う殺人鬼の口調だった。背筋をすっと寒気が走り、心の乱れがカーターを現実へと連れ戻してしまう。
男はカーターができる限り気配を消していたのにも関わらず、カーターがその場に佇んでいると口にした。つまり、相手はカーターとは異なりはっきり周囲が見えている。カーターはそう結論付けた。
圧倒的に不利な状況だ。自分は何も見えず、相手にははっきりと自分の姿が見えている。それしかない!
スサノオがカーターと同じように全く見えないのにもかかわらず、相手のちょっとした気配だけで、相手の存在を認識してしまう伝説の武神であるという結論には達しなかった。
カーターはゆっくりと声のした方に向かっていきながら、頭脳を働かせていた。もし私ならこの状況でどのようなストーリーを描くだろうか。ブギーマンやジェイソンのような明らかに言うことを聞かない殺人鬼と対峙して、主人公はどのように立ち回れば一番いい結果に辿り着くのだろうか。
闘う。
その結論をカーターはすぐに却下する。
「よく考えてみろ」
カーターは呟いた。
「カーター・ディクスンという推理小説家はまさしく殺人鬼の被害者にふさわしい職業と年齢と性別ではないか!? 私は殺人鬼の被害者となるべく、どこかで私を描いている作家の手下となったのだ」
空を見上げようと、首を傾けたが、首が動いたかすら分からなかった。カーターはもはや運命は死あるのみと感じとぼとぼと歩いた。出来るだけゆっくりと歩いた。時間をかければかけるほど、彼が生み出してきたトリックを思いついたときのように、あっと言わせるアイデアによって、危機的状況を回避できるかのように。
しかし、彼はそのように生きようと必死に振舞うことこそが、ホラー映画で一番死に易いパターンであることを知らなかったようだ。
「俺はいらいらしてんだよ! 早くこっちへ来い!」
ぞくっと心臓まで響く、声にカーターは次の足を浮かせたまま、地に付けることができなかった。
「地球は青かった――」
別の声がカーターの耳に届いた。
「僕の名はユーリイ・ガガーリン。宇宙飛行士なんだ。僕の乗った人工衛星ボストーク一号は一九六一年四月十二日、A―1ロケットによってバイコヌール宇宙基地から打ち上げられたんだ。そして、地球周回軌道に入り、地球の大気圏外を一時間五十分弱で一周した。凄いよね。世界で初めての宇宙飛行なんだよ」
ガガーリンにとって周囲に広がる暗闇は居心地がよかった。《地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった》と感じるのに必要なのは、宇宙へ出て自由落下をし続けることではなく、今目の前に広がっているような吸い込まれるくらいの暗闇の存在だった。この暗闇がなかったら、あの青い地球は映えない。もし、今空から一筋の光が差し込んだのならば、《宇宙に神はいなかった》ガガーリンもその存在を感じ取るのかもしれない。
「兄ちゃん、地球ってのは何のことなんだ?」
訛りがひどく、聞き取りにくい声がした。
「もしかして地球を知らないの? 地球は今君が立っている(座っているのかもしれないけれど)世界そのものさ。君の最終学歴は何なんだい?」
ガガーリンの呆れきった口調に、心底怯えきったのはカーターだった。スサノオに向かって火に油を注ぎこむような喋り方をするんじゃないと叫びたかった。
「地球、その世界そのものってのは、一体何なんだ。天地開闢というのを知らないか。世界の最初には天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神が生まれたんだぜ。最終学歴だと、笑わせるな。そんな言葉に当てはまるような存在じゃないんだがな、俺は」
ガガーリンはスサノオに向かって大きな声であざ笑いたかったが、本能がそれをやめさせていた。地球の重力を脱出する時、椅子に押し付けられるようなGを受けるように、何か危険な気配がガガーリンの体を後方に押し返そうとしていた。何もないはずなのに、近づけない。いや、近づいてはならない。
「その男に何を言っても無駄ですよ。古風な日本人みたいですから、科学の《か》の字も知らないような蛮人なのです。しかし、あなた、本当にガガーリンさん? 私はカーター・ディクスン」
「あなた、あの有名な推理小説家のカーター・ディクスンさん。ファンなんですよ、僕。ああ、『火刑法廷』を持ってくればよかった」
ガガーリンは握手をしようと声のした方に手を伸ばしてみたが、空振りに終わった。
「ああ、ようやく人に出会うことができて本当に嬉しいですよ」
カーターの言葉に、スサノオは鼻を鳴らした。
「お前ら二人よりも遥かに老齢な俺が、お前らの知っていることを知らないとでも言うのか。初めての有人飛行を達成した男ガガーリンだと、笑わせるな。地球の重力を抜け出したわけではなく、ただ地球の軌道上を自由落下し続けただけではないか。それとも、そもそもあんたは宇宙には行ってないっていう捏造説はどうなんだ。俺はありうると思うがな。冷戦時代の軋轢ってやつだ」
捏造という言葉がガガーリンの脳裏に染み込んだ青い地球のイメージを最も汚す言葉だった。竜の逆鱗に触れる一言。ガガーリンの怒りが爆発する。
「君はなんてことを……」
どうやら、ガガーリンの怒りは不発に終わったようだ。スサノオの殺意を目の前にして。
「まぁ、アメリカもソビエトも色々な考えがあるようだけど、僕は確かに宇宙へ行った初めての人間なんだよ。猿を除けばね」
ぽんという音が響いた。
「この忌々しい空間は一体何なのじゃ」
最後に名探偵が登場する。
「わしの名はヘンリー・メリヴェール。名探偵じゃ。おっと、そこのご老人、言いたいことは分かっておる。頭のてっぺんから足のつま先まで完璧に分かりきっておるのじゃ」
架空の名探偵の登場にカーター・ディクスンは妙な意思疎通を感じた。自分が何も言わなくても相手には言いたい事が伝わっているという感覚に捕らわれた。挨拶の言葉を口にすることは不必要だった。
「わしがなぜここにいるのか。それは今ここにある難題を解決するため、そうとは思わないかね?」
スサノオが舌打ちをした。
「あんた、誰だ」
H・M卿はひどく落胆した。
「わしは誰じゃと。わしはヘンリー・メリヴェール。名探偵じゃ。おぬしは……」
H・M卿は突き出したお腹をぽんと叩いた。
「おぬしはスサノオじゃな」
名探偵の声は自信に満ちていた。
「どうして分かった。お前、俺のことが見えるのか?」
スサノオの声が少し震えていた。それを聞いて、カーターはこの状況の絶対的な支配者がスサノオだけではなくなったことを悟った。
「おぬしたち同様、わしには何も見えん。そもそもおぬしの姿が見えたところで、おぬしが誰なのかなんてわからないじゃろうて。そう。その通り。ぴったんこかんかんじゃ。わしはただ推理しただけなのじゃ。この匂い。ショーユの混じった匂いからこの地が日本であることが分かる。そして、おぬしの殺気。この日本におぬしほどの殺気を放つ男は数少ない。そして、おぬしの喋り方から、知能レベルは低いが、物事はよく分かっている人間だということが分かる。さらに極め付けがその偉そうな口ぶりじゃ。その常に自分が正しいというくらいの威張り方。これらの要素をカルノー図に当てはめれば、全ての要素を持った集合はほんの数人に絞りきれる。そして、残りは当てずっぽうじゃよ」
「当てずっぽうだなんて、名探偵がそんなんでいいんですか」
ぴしゃりと最後の一人まで推定できると思っていたガガーリンが肩透かしを食らった。
「この不可解な状況は別に殺人事件ってわけじゃないのじゃよ。もしここでわしが間違った人間の名前を口にしたところで、その人間がお縄にかかるわけでもあるまい。気軽に何人かの名前を言えば、それで解決じゃ。本当の推理は凶悪犯罪者を捕らえるときまでとっておくべきじゃないかね。それに今考えなければならないのは、なぜわしらがこの場所にいるのか。その疑問ではないかな」
「ああ。じじいの言うとおりだ。こんなせまっくるしい部屋から早く抜け出そうぜ。その名探偵の灰色の頭脳でこの状況を解明してくれ。そのために俺ができることなら、何でも手伝うぜ。そうだろ?」
スサノオが言うと、他の二人も肯いた。
「そうじゃ。この謎を解くためにわしはここへ呼び寄せられたのじゃ。考えてみたまえ。この《密室》という古典的なテーマに対して、《密室》を解明する以外にこの名探偵H・M卿が呼び寄せられることはなかろう」
「ギデオン・フェル博士……」
カーター・ディクスンはぼそりと呟いた。
「何かね、カーター君。言いたいことがあれば、いいたまえ」
H・M卿は辺りを見回した。
「カーター君も異論はないようじゃな。さて、わしたちは無作為にこの場に集められたわけではない。わしらには共通点がある。まずそれから話し始めよう」
こほんとH・M卿は軽く咳払いをする。
「まず一つは有名人であるということ。歴史上の人物や架空の人物などといった枠にとらわれず、わしらはまず有名人である。それがまず一つ目じゃ。そして、もう一つの共通点。これがこの謎の真相に導く最も重要な共通点じゃ。分かるかな?」
「俺に向かって、質問をするんじゃねえ。その答えを言うためにあんたはこの場にいるんだろう? 名探偵さんよ」
「はてはて、困ったものじゃ。さっきは手伝うと言ったくせに、わしの目の前にいる荒くれ者とは推理を楽しむという時間を共有できそうにないようじゃな。その共通点とは、わしたちが密室の外側にいる人物であること。それも密室をじっくりと眺めることの出来る距離にいる人物であること」
H・M卿は一呼吸置いた。
「スサノオには天岩戸という密室に閉じこもった姉がいる。カーター・ディクスンは小説という密室を描く作家である。ユーリイ・ガガーリンは地球という密室とそれを初めて外から眺めた人物である。そして、わしは密室殺人を解決する名探偵である。つまり、わしらにはまず有名人であり、かつ、密室と身近に接しており、その外側から密室を眺めているという共通点がある」
「なるほどな。納得したぜ、ヘンリー・メリヴェール」
「ギデオ……」
カーター・ディクスンが尻すぼみに呟いた。
「さて」
か細いカーターの声を掻き消すようにH・M卿は言った。
「そもそもわしらはすでにこの世には実存しない存在。そのわしらを呼び寄せたモノ、仮にそれをホストと呼ぶことにしよう。そのホストはなぜわしらを呼び寄せたのか。わしらの共通点が分かれば、その答えはいとも簡単じゃ。密室の外側への憧れを抱くホスト。それはおそらく密室の中に閉じ込められた自分自身を外に出して欲しいという願望を具現化しようとし、わしら四人を呼び寄せてしまった」
「そのホストというのは?」
ガガーリンの質問に、H・M卿は首を振った。
「それ以上はまだ分からん。土に埋め殺された男かもしれんし、鳥篭に閉じ込められ続けているカナリヤかもしれん。その答えを見つけ出すにはもう少し時間が必要なのじゃ」
「その答え。H・M卿らしくないのではないですか?」
カーター・ディクスンが口を開いた。
「今のあなたはスサノオに対する恐怖心で、答えを急ぎすぎてしまったように思えるのです」
「何を言うのじゃ。わしを描いているおぬしが、わしの性格を一番よく知っているはずではないか」
カーターは大きくため息をついた。
「この際、なぜギデオン・フェル博士じゃなかったのかという疑問は置いておきましょう。わたしがディクスン・カーではないのと同様に。そして、架空の名探偵であるあなたはあくまでも私の描いた名探偵ではなく、ホストが呼び寄せた名探偵であることを忘れてはいけません」
私の描く名探偵はもっと聡明な頭脳を持っているはずだとカーターは思った。カーターはさらに続ける。
「名探偵というものは答えが確定するまで、その結論に至る推理の過程も全て秘密にする。完璧な解が求まっていないのにもかかわらず、その中途半端な推理を披露してしまったあなたはこの特異な状況下で少し混乱しているように思えるのです」
「もっと大きな声で喋ってくれ」
カーターはスサノオの言葉に動じなかった。
「ええ。できるかぎり大きな声で喋っているつもりですとも。私たちの四人の共通点を明示したあなたの推理は正しいと思います。だけれども、外に出して欲しいという願望が私たちを呼び寄せたという結論に達する前に、もう一つの共通点を明らかにしなければなりません」
「わしが分からなかった共通点があるのかな」
H・M卿はお腹をさすった。
「スサノオの姉である天照大神が閉じこもった天岩戸はただ閉め切っていただけであって、天宇受賣命のストリップに興味を抱いた天照大神自身が開けてしまった。そして、H・M卿という名探偵が必死に取り組む密室という不可能犯罪も名探偵の推理が終わってしまえば、それは結局密室でもなんでもない。ただの人間の勘違いであるとか、どこかからか侵入できたとか、機械トリックで鍵を掛けられたとか、そんなオチが待っている。そう考えると、残った私とガガーリンさんについてもこう考えられます。確かに地球と宇宙を密室の内と外に喩えることはできるけれど、そもそも地球なんてものを密室に喩えても喩えなくてもいい。私は小説という隔離された世界を文字として描いているけれど、それはただの紙とインクでしかない。つまりもう一つの共通点とは、私たちの共通点は密室だと思っていたけど、そもそも密室なんかなかったということ。不可能犯罪だとか密室だとか新刊の帯やあらすじに書いてあったとしても、その言葉は所詮は嘘っぱち。ただの客寄せにすぎない」
「では、密室ではないという事実から導き出される答えは一体何なんですか」
ガガーリンもまた何かを掴みかけていたが、パズルのピースははまりそうではまらなかった。
「偽物の密室を外から眺める四人を呼び寄せたホスト。私にはホストが開いた扉を開いていないと思い込んだ人間をあざ笑っているように思えるのですよ。今、この状況が、《密室》であるのかどうか。それが分かれば、この空間を解き明かす答えを導くことができるかもしれない」
「この状況が《密室》かどうかか。よし、俺が調べてやろう」
スサノオはゆっくりと動き出した。全身に錘が付いているように動きが鈍いが、それでも動けないわけではない。手を正面に突き出しながら、スサノオは前進した。何かが手に触れた。壁だ。
「壁があるぜ」
ゴムでできているように柔らかい壁だ。力を込めはじめると、軽い反発力を増やしながら、壁が押し出されていく。当たり一面の壁が柔らかい。その壁に触れながら、スサノオは天井を目指していく。つま先立ちしたところで、手が天井に触れた。やはり押すと、天井は凹んだ。
壁に手を当てながら、今度は左側に回った。何の突起もなく、スサノオは部屋を一周していた。歩測で計算したが、部屋は正確な正方形の形、天井も床も考えれば、この空間は正確な立方体だ。しかし、どこにもドアも出口も見当たらない。
「ヴィンチェンゾ・ナタリってわけか? 有名な作家さんよ、この部屋は完全な密室のように思えるぜ」
スサノオの言葉を受けて、喋り始めたのは作家ではなく、宇宙飛行士だった。
「不完全な密室と係わり合いのある人間が、完全な密室の中に閉じ込められてしまっている」
ガガーリンは呟いた。
「宇宙へ旅立ったとき、僕は一人っきり。月に行くわけでもなく、宇宙で生活をするわけでもなく、ただ宇宙を回るという目的のために宇宙へ旅立ちました。でも今は、僕たちは四人、この空間に幽閉されています。そう。僕だけ閉じ込められているわけじゃなくって、この部屋には四人もいるんです。その意味を僕は考えていました」
「複数人いる意味?」
「ええ。僕はメリヴェール卿の推理から密室への強い執着心を持った人間がホストであることが分かりました。そして、カーターさんの推理から僕たちが不完全な密室と係わり合いを持っている人間だということに気づかされました。そして、スサノオさんはこの空間が完全なる密室だということを調べ上げた。そして、僕はホストが複数人も呼び寄せる必要性に着眼し、ある一つの結論に達したんです」
その瞬間、暗闇の中、ガガーリンの目にははっきりと青い地球が浮かんでいたに違いない。ガガーリンは気配を消し、ゆっくりと何者かの背後に忍び寄っていった。ガガーリンは手にした太いロープをその人間の首に巻くと、一気に縛り上げた。
「推理小説家、名探偵、荒くれ者、宇宙飛行士。僕は最も犯人でなさそうな人間なんです。だから、僕が犯人でなくっちゃいけない」
「な……なにを、している!?」
第一の犠牲者となったH・M卿の喉から声がこぼれた。H・M卿は手を背中に伸ばそうとしたが、余計に付いた脂肪が邪魔をして、ガガーリンに触れることができない。
「密室殺人事件というものは所詮密室なんかじゃないんだって、そう言ったのはカーターさんのはずですよ。不完全な密室に関係のある人間が、完全な密室でやらなくてはいけないことは、完全な密室殺人なんですよ! 僕たちは不完全な密室という呪うべき立場におかれていた。それを完璧に払拭するためには、僕自身の汚点を消し去らなくていけないんです」
「狂っている……くはっ」
カーターが吐き捨てようとすると、スサノオがその強靭な両腕でカーターの首を締め上げ始めていた。
「ああ、俺たちは狂っている。それはガガーリンだけじゃなくって、俺もお前も全員に当てはまることだ。それくらい分かっていただろう。俺も好き勝手にやらせてもらうぜ。ガガーリンの意見に乗った。俺もこの密室の中で殺人を犯し、自分の欠けていた何かを取り戻す」
H・M卿は意識が薄れていくのを感じていた。それは恐怖ではなく、安らぎをもたらした。密室殺人を犯して、密室を補完するのであれば、殺人者である必要はない。完全なる密室の中で殺された被害者もまた、完全なる密室をまっとうできる。
いや、そもそも、初めからH・M卿にも分かっていたのだ。この物語がホストの気まぐれにすぎないことを。完全な密室だろうが、不完全な密室だろうが、関係ない。もしホストが一人っきりで密室に閉じ込められているのであれば、そのホストにできることはただ妄想することだけ。ただそれだけだ。
だが、最後にH・M卿にも予想できないことが起こった。
世界が大きく揺れた。
* * * * * * * * * * * * * * * *
ガシャンという音を聞いた赤瀬川次郎は慌てて、その音の聞こえてきた部屋へ飛び込んでいった。床一面に割れたガラスの破片が飛び散っていた。それは壁際に置かれた洋服ダンスの上に置かれたガラスのケースだ。
ガラスケースはいつからそこに置かれていたのか分からないが、赤瀬川が物心付いたときにはすでに埃にまみれていた。赤瀬川の父親の話によると、赤瀬川の曾お爺ちゃんにあたる人物がヨーロッパへ新婚旅行に行ったときに買ってきたものらしい。
その話を裏付けるように、ケースの中には年代物のテディ・ベアが入っている。曾お爺ちゃんがこの世を去ってしまい、ふと気づくと、誰もこのケースの価値を知ることはなく、ただ邪魔者扱いされて、洋服ダンスの上に置かれていたのだった。
そもそも邪魔者扱いされた原因はこの立方体のケースは六面全てが嵌め殺しになっているためだと赤瀬川は思っている。豚の貯金箱を金槌で割るように、ガラス自体を割らなければ、テディ・ベアを取り出せないのだが、曾お爺ちゃんの形見とも言うべきケースを誰が割ることができただろう。
たまに何かに睨まれた気配を感じて、赤瀬川は辺りを見渡して最後に行き着くところが、この埃まみれの密室に閉じ込められたテディ・ベアだった。長い年月が経つと人形に魂が宿るというが、もし仮にこのテディ・ベアに魂が宿ったとしても、こんな汚らしいガラスケースの中だったら、何にも面白くないと思い、いつも赤瀬川は哀れみを感じていた。た赤瀬川が半世紀近くもこんなちっぽけなケースに入れられていたら、発狂して自殺をしてしまうにちがいない。
割れたガラスの上にそのテディ・ベアは転がっていた。開かずのケースに入っていたため、日に焼けているものの新品同様に綺麗だ。よく見ると、ほつれた糸が偶然起こったにしてはおかしな様子で、テディ・ベアの首に巻きついている。しかし、赤瀬川にはその糸よりも、自分まで微笑んでしまいそうな幸せそうな顔が気になっていた。
「にゃあ」
と、赤瀬川の足元で飼い猫の三毛猫シャーロックが鳴いた。シャーロックはマッチ箱と戯れていたようだ。シャーロックが右手で器用にマッチ箱を転がすと、大きな音と共に家が揺れた。まるでマッチ箱の動きに合わせて、屋敷全体が脈動しているようだ。
「あっ」
赤瀬川の見ている目の前で、転がったテディ・ベアが大きな揺れによって飛び跳ね、うまい具合に床に座った。膝を伸ばし、少し項垂れた感じで、今まで自分自身を閉じ込めていたガラスの破片の上に座っている。
「空気がうまい」
そう声が聞こえてきたが、赤瀬川が辺りを見渡しても、マッチ箱と戯れる三毛猫シャーロックとガラスの破片の上に座った熊のぬいぐるみしかいなかった。