日常の終わり、そして……
好きなように書きました。
桐島闘真は、数メートル先までしか見えない霧の中を高校に向かって歩いていた。左右には田んぼや畑が微かに見える人気のない一本道だ。霧が出ていなかったら山々に囲まれ、きれいな川が流れているのが見えただろう。
濃い霧が陽の光を完全に遮断し、朝なのに薄暗い。今の肌寒い時期に朝から霧が出ることは珍しくもない。霧が出るといつもの風景が別の物に見え、霧の向こうから何かが出てくるのではないかと期待してしまう。
傘をぶらぶらと振りながら歩く。午後から雨が降ると昨日天気予報で言っていたので、一応持ってきたのだ。憂鬱になる通学路も非日常感を演出する霧によって気分が良い。鼻歌でも歌おうかと思ったが、霧の向こうからぼんやりと影が浮き出てきたのでやめた。
距離が縮まってくると影の正体がわかる。ロングコートを着た中年の男だ。左端によって、右手に持つ傘を握り直す。つい癖で相手の目線と手元をさり気なく確認してしまう。
通り魔に刺されるかもしれないから相手の挙動を確認する癖がある。このことを友達に話したら、お腹を抱えて笑われた。
男は前を見たまま、右手をコートのポケットに入れ、左手に鞄を持っている。
少し顔を伏せて、目だけを動かして男の右手に見入る。男との距離が縮まり、一歩踏み出し、手を伸ばせば触れられる距離で、男がポケットから手を出した――
その手には、薄暗い中でも存在感を放ち、微かに光るナイフが握られていた。
「――――――――ッ!?」
もしもの事を考えて密かに警戒をしていたが、まさか本当に通り魔に襲われ目を見開いて驚愕する。
驚く冬真に構わず、男は素早く踏み込んできてナイフを振るってくる。首元目掛けて迫るナイフを咄嗟に右手を振り上げ、傘で弾いた。初撃を何とか防いだが安心することなく、後ろに跳んで距離をとり、牽制するように傘を正眼に構える。
「………………」
男は追撃しないで、こちらの様子を窺っているのか動かない。能面のような表情で、その眼からは何の感情も読み取れない。どうやら、ただの通り魔ではないようだ。
今まさに自分の命が危機に晒されている異常な状況だというのに、自然と唇の端が笑みの形になる。死への恐怖よりも命のやり取りという非日常に対する興奮の方が上回っている。
同じような事を繰り返す退屈な毎日には決して存在しない、刺激的なこの状況を楽しんですらいる。
しかし、頭は冷静に目の前の男を倒す方法を考えている。持っているのは傘と中身がほぼ空の高校の鞄だけだ。鞄を盾に使ったら、貫通するかもしれない。教科書やノートが入っていたら大丈夫だったろうが、残念ながら今は机の中にある。
こちらに有利な点があるとしたら、得物のリーチだけだ。男のナイフは刃渡り十センチくらい、傘は七十センチある。決定打はナイフの方が高いが当たらなければどうということはない。
傘は耐久度が低く曲がったりするので、殴ったところで行動不能にさせるほどのダメージは与えられない。やるなら、殴るより突きだな。喉を突ければたぶん終わるだろうが、流石に動く相手の急所を正確に突けるほどの技量はない。だから、的の大きな胸部を狙う。
男は様子見をやめて、何の前振れもなく突撃してくる。初撃はまだ本気ではなかったのか、
目にも止まらぬ速さに一瞬その姿を見失い、次の瞬間には既に懐に踏み込まれていた。
「ちぃ――――ッ」
傘の間合いの内側で迎撃は間に合わないので、鞄を盾にする。ナイフが鞄に刺さり、あっさり貫通して刃を覗かせる。ナイフが刺さると同時に鞄を投げ捨てるようにして、後ろに跳んでいたので無傷で済んだ。
闘真の額に汗が浮かぶ。これはまずいなあ。想定より随分と動きが速い、速すぎる。こいつ、何者だ? 普通の人間ではないのは確かだが、なんだろう。この男、変だ。こんな事をする奴が普通ではないのは当たり前だが、そういうのではない。何か異質だ。
傘を両手で構え、男の挙動を見逃さないよう集中する。二度目だから見失うことはなかったが、それでも目で追うのがやっとだ。ナイフを傘で防ぐことに成功する。しかし、喜んでいる暇はない。
男は息もつかさぬほどの連撃で攻め立ててくる。その動きに技術などなく、ただ身体能力にものをいわせた単純なものだが、速すぎてナイフに全神経を集中して防ぐのがやっとだった。少しでも集中を切らせば、次の瞬間には、血を流し倒れているのが容易に想像できる。
男は顔色一つ変えることなく、淡々と攻撃を続けてくる。疲れなど微塵も感じさせぬ様子にいつまでも防いでばかりではジリ貧だ。集中力も体力も長くはもたないが、何より何度もナイフと激突している傘が刻まれ、曲がり武器として用をなさなくなるのが先だろう。傘がもっている内に現状を打破しないといけない。多少のリスクは冒してでも、攻めに転じるしかない。
下から斬り上げてくる斬撃に合わせ、後ろへ大きく飛び距離をとる。傘を上段に構え、左足を前に出し待ち構える。男はすぐに飛び掛かってきて、ナイフを右上から左下へと軌跡を描くように振るってくるのに合わせて、冬真も傘を全力で振り下ろす。
「はっ――――!」
男の攻撃を受け続けたことで、目が慣れたこともあり、運良く傘の先端は男の指を強打する。その衝撃で手からナイフを叩き落とすことに成功する。すぐさま傘を振り上げながら、金具を押し、傘を開きながら男に向かって投げる。ボロボロの傘でも男の視界を一瞬遮り、動きを阻害することができる。
地面に落ちたナイフに飛びついて拾い上げ、男に向き直る。男は傘を振り払って闘真を無機質な目で見ている。そこに武器を奪われ、無手になって焦る様子はない。まるで、その程度気にするまでもないと言われているようで面白くない。
でも、これで決定打を与えることができる。ナイフを握りしめ男に向かって駆けて、薙ぎ払うように斬りつける。それを男は大きく後ろに跳び下がって避けた。闘真はその様を見て、笑みを浮かべる。
「避けたな。……つまり、これはお前にとっても脅威になるってことか」
ナイフを男に突き付けて言うが、男は相変わらず何も語ることはない。闘真は構わず、接近すると隙が小さくなるよう小振りに振るうが、今度は反撃をしてきた。男は右拳を握ると殴りかかってくる。半身になって躱し、カウンターでその腕を斬りつける。刃はコートを裂き、肉を浅く斬る。
闘真が男に小さいが初めて与えた傷だが、そこで奇妙な事に気付く。斬りつけた所から血が出ていない。ナイフにも血が付いていない。浅いとはいえ、ちゃんと斬った感触が手に残っている。傷口を見ると、黒い煙が微かに出ている……?