朽縄家の月曜日
「ただいまー」
玄関から声を投げる女性がひとり。靴がスルリと脱げないようで、舌打ちをさながら雀の鳴き声のように連打しながら足を振り回している。
<One shot>というロゴが目立つロングTシャツにジーンズ姿で、ぶつけた踵をさする彼女の名前は安心院 麗華、最近寝つきが悪い事が悩みの女子大生である。
「ねーちゃ。遅かった」
ソファで軟体動物を思わせる奇妙な姿勢でぐだっと伸びている少年の名前は安心院 秀一郎。麗華の弟にして秀一郎の姉の弟である。曰くこの体勢が一番落ち着くらしい。より正確に描写するのであれば、ナチスのマーク「ハーケンクロイツ」に近い体勢であると言える。
「んーちょっとね」
リビングにやってきた麗華は鞄を放るとソファにどかっと腰を下ろした。
小柄でスタイルの良い、見た目も麗しい妖精のような彼女が何の気兼ねもなく尻をついた所でその重さなど林檎2つ分程度のものではあるのだが、残念ながらハーケンクロイツの左端にして大事な自身の右手が挟まれた秀一郎本人はそうは思えなかったようで、苦悶の表情を浮かべながら唸っている。
「楽しいコトしてたのよ」
「何、それ」
「あんたにはちょっとまだ早い遊びかもねぇ」
意味深な表情でニタリと笑って見せる姉に、秀一郎は首を捻る。
「結構熱くなっちゃってねぇ」
「それって」
「興奮の連続で――」
「セック――」
弟が発しようとした単語を、慌てて麗華は遮った。
その言葉は麗華が弟に想起させたかったものではあったが、わざわざ自分の言葉を最後まで聞く前に口に出してくるとは想定していなかった。
「ちょっ、バカッ!」
「え?」
「思わせぶりに言ってみただけよ! なんで愚直に食いつくのよ」
「雑誌にあった見出しと、同じこと言ってる」
「あぁ……あんたにしては察しが良いと思ったわ」
ハァと一息こぼし、麗華はまだ湯気の出ている弟のマグカップに手を伸ばした。
辺りにはセイロンのまろやかな匂いが漂っている。
こんなくだらないやり取りも、日常のかけがえのない一コマである。
「ママー!! ねーちゃがセ――」
「違っ! 違うから! 麻雀だから!」
不意を突く形の一撃であったが、さりとて全ての言葉を言い切る前に姉の鋭い手刀が煌めいた。
スパン!という高らかな音がリビングに響き、束の間の沈黙が訪れる。
秀一郎は引っぱたかれた頭を押さえながら、いつの間にか自分の紅茶を奪った姉を横目で見ていた。
「麻雀かぁ。それなら俺もやったことある」
「あら、そうなの」
へぇ、意外。と呟きズズッと紅茶を啜った彼女は、落ち着きを取り戻すとソファに深く凭れかかり腕を背もたれに回した。
澄ました顔で優雅なリラックスを演出する彼女だが、残念ながら次の瞬間には口の中のものを吹き出すことになる。
「セックスも」
ブフッ。ケホケホッ。ケッホ!! オェプ。ゲホ。ン"ン"ッ!
慌ててティッシュを数枚取り、二人がかりでガラステーブルにまき散らしたものを拭きとる。ごめんごめんっと口にする姉と、いいよ別にと気にする素振りを見せない弟の、仲睦まじい姉弟の様子がそこにはあった。
秀一郎が赤茶に湿ったティッシュをゴミ箱に投げ入れるのを見届けると、姉は再び先の耳にした言葉を思い出し驚愕に打ち震えた。
「え!? ええ!!?」
「ねーちゃはどこでしてたの? 雀荘?」
「待って、え? 待って。え?」
もはや麗華の頭に麻雀の話はなく、脳内は嵐に荒れる海原のような混乱と動揺の渦に巻き込まれていた。
「誰と?! ねぇ! 知らないんだけど! 何であんたの方が早…いや、ていうか、ええっ! あんたが!?」
尋常じゃない勢いでまくし立てる姉に観念したのか、弟は目を瞑ると天を仰ぎゆっくりと記憶を辿りながらポツリポツリと事の経緯を話し始めた。
それを目を見開いて聞き入る姉の姿は、さながら高位の僧侶の言葉を拝聴する信者のようだった。
「クラスの、いじめてくる女子」
「はあっ?!」
「最初、ちょっかいばっかだった」
「はあ」
「途中から悪戯じゃなくて、やたら、構ってくるようになった」
「ああっ?」
「気付いたら、世話を焼いてくれるようになった」
「はあ。母性本能、か……我が弟ながらやるわね」
「それから、家呼ばれて遊んだりした」
「へえ! その子も中々攻めるわね」
「それで、えっと、それで」
「なし崩し的に事に至ったと」
「で、あっちゃのねーちゃとした」
「!?」
「おわり」
「はぁ!? あっちゃ? ねーちゃん?」
開眼した弟は、事はすべて話した!と言わんばかりに満面の笑みを浮かべると、次はねーちゃんの番!とワクワクした様子で姉の方へ顔を向けた。
当の姉はというと脳の処理が追いつかないようで、しばらく目を閉じ耳を塞ぎ蹲っていた。そしてたっぷりと30秒が経過した後、一人でに何度か頷き始めた。耳を寄せれば「もういい。もういい、置いとこう。ちょっと置いとこう。うん。無理。あたし分かんない。」などとブツブツ呪詛のように呟いているのが分かる。
よし!という声と共に顔を上げた彼女の口元は、しかしながら引き攣り、その表情には諦めの念が張り付いているようにも見えた。
「ねーちゃ、大丈夫?」
「ええ。ええ、大丈夫よ」
麗華は思考も心も切り替える事にしたようだった。
「ねーちゃ、俺も麻雀やりたい! どこでしたの!」
「知らない大学の空き教室」
「ええ……それだめなんじゃ」
「って言っても名前くらいは知ってるけど。友達がそこの子だからいいの。あたしは誘われただけだし」
麗華は未だ震えの残る手でマグカップへと手を伸ばし、少しばかり冷めた温い液体を喉へと流し込んだ。
「ふーん。ねーちゃ勝ったの?」
「中断したわ。次の講義の生徒たちも来てたみたいだし」
「そりゃそうだ」
「すごい変な目で見られたのよ。道具一式とか……みんな色々担いでたしね」
「ふーん」
「まぁでも、あのままやってたらきっとあたしが勝ってたわね」
「ほんと? ねーちゃすぐ表情に出るから弱そうだよ」
「で、出ないわよ。最後は役満リーチしてたんだから!」
「そこで他の人が来たから、中断したの?」
「あたしが緊張のあまり意識を失ったから中断した……らしいわ」
「ええ……迷惑な話だ」
「それでお開きにしようと片付け始めた頃合いに生徒たちが入って来て、あたしもろとも担いで教室を出たんだって」
「ねーちゃ、迷惑じゃん」
「教室出る時には目が覚めたからセーフ」
「ダメでしょ」
「にしても、またしたいわね。7階だったから窓から見える景色も悪くなかったし、良い環境だったわ」
「迷惑なヤツ」
メーワクメーワクうるさいわね!と肘でどつく麗華も多少は思う所があるのだろう、「迷惑、ね」と呟くとスマホを取り出し、誰かにメッセージを送っているようだった。
「ところでその…あんたはどこでやったの?ホテルとか入れたの?」
スマホをパタンとテーブルに置いた麗華は、改めてその話題に触れた。
両足を抱え、膝の間に顔を埋めているのは彼女なりの防御態勢なのだろう。どんな話が耳に入ってこようとも、動揺しないように。
「知らない大学の空き教室」
「お前えええええええええ!!!」
獣の咆哮のような怒声。
弟は右腕で今にも食ってかかりそうな姉の頭を押さえつけている。
「うるさいよねーちゃ……あっちゃのねーちゃが通ってるって言ってた」
「あっちゃって誰よ……。ていうかそれ、どこの大学?」
「来た?」
「?」
「勝った?」
「?」
「違うな…見た。見た!」
「『三田』ね。なんでカエサルの言葉で覚えてんのよ」
「違った、田町」
「一緒だろーが」
「の、えっと……低能?」
「慶〇」
「それだ!」
「……のどこよ」
「門の所から入って」
「うん」
「正面のキラキラした建物」
「全面ガラス張りのトコね」
「うん」
「それで?」
「上の方の階」
「……テラスがある?」
「うん」
「……自販機もあって?」
「そう! そこの階段近くの教室」
「……」
ばたりと麗華は倒れた。
手に持っていたマグカップは麗華の手を離れ、奇跡的にテーブルの上に大した重力加速度を受ける事もなく着地した。
「あんたの方が……迷惑じゃん……」
その言葉を最後に、麗華は白目を剥いて意識を失った。
「ん、ねーちゃ? ねーちゃ!」
頬をぺちぺちするも、起きる様子のない姉に、弟はいつものやつだと脊髄反射的に理解する。
「また寝ちゃった……」
もはや"手慣れた"のレベルを超え、呼吸同様の不随意運動と化した動きで姉を抱きかかえると、秀一郎は姉の部屋へと歩き出した。
「あーあ、またしたいな」
誰ともなく、秀一郎はぼやいた。
「熱くて、昂る――」
意識の抜けた姉をベッドに降ろし、じっとその顔を見つめる。
「……なんだっけ。ロンとかチーとかパンとかするやつ」
ツッコミを入れる人物はロストしている。
バタンと扉が閉まり、秀一郎は首を傾げながらリビングへと戻っていった。
彼が姉と、"あーちゃ"と、"あーちゃのねーちゃ"と卓を囲んで麻雀をするのはまた、別のお話。
中国語知ってます。東西南北と1~9までの数字が分かります。