第一章「Ⅹ 運命の輪」 二日目
【あらすじ】
舞台は現代日本のとある地方都市。
「原初の魔女」は自らの悲願を達成するために禁断の儀式に手を染める。彼女は自身の魔力と魔法を二十二枚のタロットカードに分割し、何も知らぬ少女達へと投げ渡した。カードを手にした少女は魔女となり、互いに殺し合う宿命を背負う。勝者が絶大な魔法の力を手にするバトルロイヤルが始まった。
【第一章】
タロットカード「Ⅹ 運命の輪」を手にした女子高生、日野崎麻衣の視点で物語は幕を開ける。
その翌日。
「お姉ちゃんっ!」
あたしは春ちゃんの叫び声で目を覚ました。
朝早くから騒々しい妹だ。あたしは騒音を避けるためにもぞもぞと布団に潜り込む。でも、春ちゃんはあたしの安眠を許してはくれなかった。どたどたと足音を立てながら部屋に入ってきて、容赦なく布団をひっぺがしてしまった。
「お姉ちゃんっ! コレ見てください、コレっ! すごいですよ、一等ですよっ!」
「……ナニが?」
「ナニが、じゃないですよっ。ちゃんと起きてこれ見てくださいっ!」
春ちゃんはあたしの体を無理矢理引きずり起こすと、肩を掴んでぶんぶん揺さぶってきた。寝起きの頭がシェイクされて意識がくるくる回る。
「あーうー。わかった。見るから、ちゃんと見るから……」
「これこれ、ここを見てくださいっ!」
今朝の春ちゃんはやけに興奮している。普段はどっちかというと大人しい子なのに、珍しいこともあるもんだ。よほどいいことでもあったんだろうか。
寝ぼけ眼をこすりながら手渡されたものに視線を落とす。それは今朝の朝刊だった。
「なになに。『世田谷区で一家三名殺害。また連続殺人犯の仕業か』ねえ。世の中物騒だこと。春ちゃんも夜道に気をつけなよ」
「そこじゃありません、お姉ちゃんっ。もっと先ですっ。春がちゃんとマークをつけておきましたから、そこを見てくださいっ」
あたしはバサバサと新聞を開いていく。なるほど、中ほどのページに赤ペンで丸がついているところがある。
「なになに。んー……これ、宝くじの当選結果?」
「そう、宝くじですっ! こないだお姉ちゃんと一緒に出かけたときに二人で買いましたよね? あれが一等だったんですっ!」
「……いっとう? 一等ってどれくらい?」
「三億円っ! 三億円ですっ! これだけあれば、春とお姉ちゃんで一生暮らしていけますっ!」
そう言うやいなや、春ちゃんは新聞を抱えたままのあたしに抱きついてきた。寝起きのあたしはその重みに負けて、ぱたっとベッドに倒れこんでしまう。それも気にせず、春ちゃんは仰向けのあたしに抱きつくように覆いかぶさってくる。
「これで……これで、ついに春の野望が達成されますっ。春は一生、お姉ちゃんのお世話だけして生きていけばいいんですよねっ!」
「ちょ、ちょっとストップ。ストップっ!」
あたしはベッドをタップして「参った」ってアピールするけど、春ちゃんはまったく気にしない。それどころか、あたしの胸に顔をうずめて頬擦りを始めた。
「ああ、夢だったんです。春とお姉ちゃんだけのモラトリアムライフ。毎日、食っちゃ寝食っちゃ寝で何もしないお姉ちゃんと、そんなお姉ちゃんを甲斐甲斐しく世話する春。お買い物のときだけ二人で一緒にお出掛けして、それ以外はずっと二人だけの閉ざされた世界。そんな世界が実現するんですっ。この三億円があればっ!」
「……いや、三億円じゃムリじゃないかな? そもそも家には父さんも母さんもいるし」
「大丈夫ですっ。春、倹約には自信がありますっ。最近はこっそり株もやってますから、これだけ元手があれば二人で暮らしていける分くらい稼いで見せますっ。父親と母親も……まあ、そのうちなんとかします」
「いやいや、そのうちなんとかってナニするつもりよ。いいからちょっと退きなさい。重いっつーの」
胸にすがり付く春ちゃんを力任せに引き剥がし、あたしはベッドの上で立ち上がった。
春ちゃんはというと、あたしの足元で新聞を抱きしめたまま悶え転がっている。
ミディアムツインの黒髪がクシャクシャになってるけど、どうやら嬉しさのあまり意識の外にあるらしい。この妹、果たしてどうしたものだろうか。
「神様、ありがとうございますっ。いつも一生懸命お姉ちゃんの世話をしている春のことをちゃんと見てくださっていたんですねっ」
そんな春ちゃんを見下ろしつつ、あたしは冷静に考えを巡らせていた。すっかり目が覚めた今なら、この現象が理解できる。他の誰にも理解できないはずのものが、あたしには理解できる。
運命魔法。自分に幸運を引き寄せ、不運を追い払う魔法。万物の運命、即ち因果律に強制的に割り込み、それを操作する魔法。魔女自身にもほとんどコントロールできない自然発生型魔法。どういうものかは理解していたはずだけど、聞くと見るとじゃ全然違う。
昨日あたしが車輪を回したのはほんのわずかな時間だった。その結果がこれだ。宝くじで一等が当たる確率なんて、数億分の一だろう。その数億分の一すら手元に引き寄せてしまうほどの強烈な幸運を、あたしは起こしてみせたのだ。
まさに魔法としか言いようが無い。
「……ま、いっか。誰が困るわけでもないしね」
「そうですっ。もらえるものはきっちりもらってくればいいんですっ。お姉ちゃん、安心してください。このことは父親にも母親にも言ってませんから。この三億円は、春とお姉ちゃんだけの秘密の財産ですっ」
「それはそれでどうかと思うんだけけど……」
というか、未成年って宝くじの購入とか賞金の受け取りとかできるんだっけ?
まあ、大喜びしている春ちゃんをへこませるのも可哀想なので、この場では言わないでおこう。もしダメそうなら、春ちゃんには内緒で大人の力を頼るとしよう。
妹には激甘のあたしだった。まあ、仕方ないよね。今この世で春ちゃんのことを守ろうと思ってるのはあたししかいないんだから。うちの妹は少なからず苦労しているのだ。
たとえシスコンと呼ばれようとも、あたしは春ちゃんの味方だからね。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい、お姉ちゃん。今日もなるべく早く帰ってきてねっ」
朝のちょっとした騒動のあと、あたしはいつも通りの朝を過ごした。
春ちゃんの作った朝食を食べ、春ちゃんに髪や化粧を整えてもらい、春ちゃんに見送られて家を出る。何事にもものぐさなあたしが生きていけるのはこの出来た妹のおかげである。ありがたや、ありがたや。お礼が三億円くらいで済むなら安いものだ。
朝の穏やかな光の下、通学路をのんびりと歩いて行く。あたしの通う葡萄ヶ丘高校までは徒歩二十分。
数多の高校の中で葡萄ヶ丘を選んだ理由はただひとつ。家から近いからだ。偏差値的にはもっと高い学校も狙えたんだけど、あたしはそういうのに全然興味ないから、全部無視して葡萄ヶ丘しか受けなかった。親にも中学校の先生にもいろいろ言われたけど、知ったこっちゃない。あたしの人生をあたしが決めるのは当たり前。他人にどうのこうの言われる筋合いなんて無い。
十分ほど歩くと、途端に道が上り坂に変わる。名前に丘が入っているだけあって、この葡萄ヶ丘高校は小高い山の山頂に位置しているのだ。自転車で登るには少々キツい坂道なので、ほとんどの生徒は最寄の駅からバスで通ってくる。あたしみたいに近所から徒歩通学しているのは少数派だ。
だから、朝の通学路には誰もいない。延々と坂道を歩いている間、あたしがすれ違うのは人間が詰め込まれた自動車だけだ。人間とすれ違うことはほとんどない。少なくとも、あたしと同じ葡萄ヶ丘の生徒には出会ったことはない。
余談だけど、うちの制服は結構目立つ。
男子は紫色の詰め襟で、女子は紫色のリボンのセーラー服。葡萄って名前が付いているからか、制服から通学鞄、体操服からスクール水着に至るまですべて紫色なのだ。意外とセンスは悪くないんだけど、人によってはこれだけでアウトだろう。場所も場所だし、この学校の偏差値が底辺を這う理由もわからなくもない。
毎日のこととはいえ、車の排気ガスに捲かれながら孤独に歩くのは結構気が滅入る。
ま、仕方ない。あたしは一人、キツい上り坂をてくてく歩いていく。
「やあ、早速魔法を使ってみたみたいだね、運命の魔女」
誰もいないはずの通学路で、あたしに語りかけてくる奴がいた。
「……その言い方、ちょっとヤなんだけど。名前で呼んでくれない?」
「君の名前は『運命の魔女』だよ。人間としての名前なんてもう忘れちゃった方がいいと思うな。君は人間じゃなくて魔女なんだから」
「人間であることを捨てた記憶はないんだけど」
「『運命の輪』に触れた時点で君はもう人間じゃない。生き物としては人間かもしれないけど、存在としては人間を遥かに超越してしまっているからね」
「……まあ、赤い血が流れるうちは人間だと思っておくわ」
「ふふ。君はホントに面白いね」
あたしは歩みを止め、くるりと振り向く。すると、すぐ後ろに昨日出会った黒猫がちょこんと座っていた。
「そういえば、あんたのことはなんて呼べばいいの? 昨日聞きそびれちゃった」
「うーん、ボクちゃんの敬愛するあの方はボクのことをいつも愚か者、って呼んでたかな」
「愚か者? なに、あんたいつもそんなにミスばっかりしてたの?」
「まさか。ボクちゃんほど優秀な助手はいないさ。現にこうしてこのゲームの司会進行を任されているくらいには、あの方の信用を得ていたさ。信頼はもらえてなかったけどね」
「信用と信頼ってどこが違うの?」
「それくらい辞書を引いて自分で調べるといいよ」
「とことん可愛くないわね、あんた」
「よく言われるよ」
あたしは再びくるりと向きを変え、通学路を歩み始める。後ろから黒猫がトテトテついてくる気配がするが、とりあえず相手にしないことにする。
後ろからやってきた通学バスが排気ガスを残してあたしを追い抜かしていく。
てくてく。
トテトテ。
てくてく。
トテトテ。
さらに一台、通学バスがあたしを追い抜かす。後ろをついてくる気配はまだ消えない。
「ねえ、あんた。なんでついてくんの?」
今度は振り向かずにたずねる。
「さっきも言ったけど、ボクちゃんの仕事はこのゲームの司会進行役さ。だからゲームに参加している魔女全員の動きをきちんと押さえとかないといけないわけだ。いつの間にかどこかで野垂れ死にされてたら困るからね」
「だったらあたしにだけくっついてたらダメじゃない? 魔女はたくさんいるわけだし」
「心配無用だよ。ボクちゃんはどこにでもいるしどこにもいない。だから……」
次の瞬間、あたしは思わず足を止めた。そして、おそるおそる後ろを振り返る。後ろを確認してから、また目を前に向ける。
「……なるほど、あんたって本当に気持ち悪いのね」
「「褒め言葉として受け取っておこっかな」」
あたしの前と後ろ、その両方に黒猫が座っていた。二匹の黒猫はまったく同じタイミングで同じ言葉を発する。
「「ほら、魔女には黒猫がつきものだろう? だから君が心配するまでもなく、すべての魔女にはボクちゃんが張りついて監視してるのさ。こうして体をいくつにも分けてね」」
「わかった。わかったから、前後で同時にしゃべらないで。気持ち悪いから」
「「うん、いいよ」」
途端、目の前にいた黒猫はぐにゃりとその姿を歪めて、空中に溶け消えた。
「ひとつだけ聞いていい?」
「ボクちゃんに答えられることならなんでも」
「あんたたちは必ず魔女を監視している。ってことはつまり、アンタたちがいたらそのすぐそばに他の魔女がいるって考えていいってことよね」
「ご明察。魔女同士はすぐ近くで魔法を発動でもしない限り、お互いにその存在を知覚できたりはしない。でもボクちゃんがいるところには必ず魔女がいる。そういう意味では、ボクは魔女の目印とも言えるね」
「そう。やっぱりそうなのね」
「うん。しかしこの時点でそれに気付くなんて……運命の魔女、君は賢いね」
「別に。こんなこと誰でも気付くことよ。早いか遅いかだけ」
誰でも出来ることを最初にやるのはあたしの得意分野だ。そのあとで周りに追い抜かされるところまで含めての話だけど。よって、あたしは大器晩成って言葉から一番程遠い人間だ。とりあえず生きていく上ではあんまり役に立たないことは確か。
あたしは止めていた足をまた動かし始める。これ以上おしゃべりしていたら学校に遅刻してしまう。あたしは学校にはいつもギリギリに到着するように家を出ているから、今日は少しだけ急がないといけなさそうだ。
「とりあえず学校にいる間はしゃべりかけないでね。出来れば姿も隠してちょうだい」
「安心しなよ。ボクちゃんの姿は人間には見えないから。ボクちゃんを見つけられるのは君と同じ魔女だけさ」
「そう、それならいいわ」
さっきよりも足早に歩を進める。
もちろん遅刻したくないからだけど、実はもうひとつ理由があった。さっき通り過ぎた通学バス、その上に一匹の黒猫が座っているのが見えたのだ。それはつまり、学校にあたし以外の魔女がいるということ。その事実があたしの気を急かる。もし戦うことになったとしても、周りの誰かを巻き込むわけにはいかない。
あたしは偶然を呪いつつ、自分の幸運に祈った。
キーン、コーン、カンコーン。
放課後のチャイムが学校中に鳴り響いた。
三年A組の生徒達も、互いに帰りの挨拶を交わしながら教室をあとにしていく。部活に出る子もいれば、街に遊びに出る子もいる。中には家や塾で勉強に励む子もいるだろう。男女の分け隔てなく、授業のときよりずっと明るい表情をして教室を出て行く。
そんな一時の喧騒のあと、教室は打って変わったように静けさに包まれる。
その静けさの中、あたしは一人で机の上に突っ伏していた。
「うー、疲れた……」
あたしは疲れていた。原因は今朝バスの上で見た黒猫だ。あたし以外の魔女がこの学校にいる。もしかしたら、今すぐにでも戦いが始まるかもしれない。そんな緊張感のもとで一日を過ごしたものだから、心身ともに疲れ切ってしまったのだ。
杞憂ならそれでいい。でも、もし恐ろしい魔法を使う魔女が学校で暴れたら、きっと大惨事が起きる。それだけはなんとしても防ぎたいからこそ、あたしは一瞬も油断することなく気を張り続けたのだ。
黒猫がいないかどうか。常に周りを見張っていたら、他のクラスメイト諸君に妙な目で見られてしまった。まあ、あたしの奇行は今に始まったことではないので、特にツッコミを入れてくるような奴はいなかった。
いつもならそんなあたしにも何かと話しかけてくる友達が一人だけいる。でもそいつは今日はたまたま欠席していた。ある意味、運が良かったといえる。あの子がいたら、かなり不審がられていろいろ追及されていたに違いない。
幸いにして、今日一日あたしの後ろ以外で黒猫を見かけることは無かった。
そして今に至る。
あたしは両手を机の向こうに投げ出し、額をべったりと机につけて身を休めていた。
「気のせいだったのかなぁ……うーん」
「何がだい? 運命の魔女」
黒猫の声が聞こえた。独り言にツッコまれても迷惑なだけだ。
「……今のは独り言よ。いちいち割って入らないで」
「それは失礼。しかし、君は今すぐ顔を上げて前を見るべきだとは言っておくよ」
「前?」
言われた通り、顔を上げて前をみる。
あたしの机は教室の一番後ろの廊下際。授業中にこっそり出入りするには絶好の位置なのでありがたい。
そんなあたしの席の対角線上、教室前方の窓際の席。その机の上に、一匹の黒猫がちょこんと座っていた。反射的にあたしは自分の周りを素早く見回す。探す対象はすぐに見つかった。イスの右隣に、あたしの分の黒猫はちゃんと座っていた。
ということは、あの猫は……。
頭の中で警鐘が鳴る。
急激に血圧が上がり、頭の一部分が真っ赤に染まる感覚に襲われる。
まずい。この状況はまずい。
あたしは再び周囲を見渡して、もう一度他の生徒が誰もいないことを確認する。
そのまま席を立ち、教室の外に逃げ出そうとして……盛大に転んだ。
「痛っ!」
左足を机の脚にひっかけてしまったのだ。
べたん、と地面に叩きつけられる。反射的に両手の肘をついたので鼻は無事だったが、代わりにジーンとした痺れが両腕に広がる。
結構痛い。すり傷くらいにはなってるかもしれない。あたしは自分の鈍くささを呪ったが、次の瞬間、その考えは凍りつく。
転んだときに投げ出された通学鞄が、きれいに真っ二つになっていた。
あたしの目はハッキリとその瞬間を捉えていた。投げ出された鞄は地面を滑って教室の入り口へと達し、そこを通過した瞬間に真っ二つになったのだ。
上から降ってきた、ギロチンの刃によって。
もしあたしが転ばずに教室を出ていたら、きっとあの鞄みたいに真っ二つになっていたに違いない。そう考えると背筋がゾッとする。
……いくら諦めがいいからといって。
……いくら勝ち目がない戦いだからといって。
何も考える間もなく真っ二つはヤだ。
死に方くらいは自分で選びたい!
あたしは急いで立ち上がると、魔法発動の言葉を呟いた。
「スォード!」
ズシリとした重さとともに、あたしの右手に車輪が現れる。
迷っている暇はない。あたしはすぐさま車輪を回し始める。時を経ずに車輪はあたしの手を離れ、自動回転に移行する。あたしは空いた両手でスカートをパンパンと払い、周囲の気配を探る。
さっきあたしが転んだのはただの偶然か?
いや、違う。あれはあたしの魔法がもたらした幸運の結果だ。昨日回したときの幸運がまだ残っていたから、あたしは生き残れたのだ。
つまり、これはすでに魔法と魔法の戦いとなっているわけだ。魔女と魔女が己の存在を賭けて戦う、魔女のゲーム。あたしにとっての第一ラウンド開始といったところか。
「……運が良かったですね、日野崎先輩」
教室の反対側、あっちの黒猫のいるあたりから人の声がした。
でも姿は見えない。太陽の光は差し込んでいるのに、その姿がまったく見えない。
「……誰よ、あんた。姿くらい見せたらどうなの?」
「うふふ。そう怒らないでくださいな、先輩。いつもはあんなに気ままに過ごしていらっしゃいますのに……。そんな怖い顔なさることもあるんですね」
「そりゃ、いきなり殺されそうになればね。ヤでもこういう顔になるわ」
声のする方を向いて目を凝らすが、やはりその姿は見えない。
あたしのことを先輩と呼んでいるから下級生なんだろうけど、生憎とあたしの交友関係は極めて狭い。クラスメイトでも一度もしゃべったことの無い子の方が多いくらいだ。
そんなあたしだから、後輩には知り合いといえる知り合いなんていない。もっとも、あたしのことを一方的に知っている下級生は山ほどいるだろう。あたし、いろいろと有名人だし。どっちかと言うと悪い評判が多いと思うけど。
そう思っていたら、声の主の方からいろいろなあだ名を披露してくれた。
「『天才』日野崎麻衣」
「『高性能ナマケモノ』日野崎麻衣」
「『サボリのカリスマ』日野崎麻衣」
「『不良よりも不良っぽい』日野崎麻衣」
「『先生殺し』日野崎麻衣」
「『天は人に二物は与えても三物は与えなかった』日野崎麻衣」
うん、後半は聞いたこと無いぞ。先生殺しって何だ?
教育実習生をボロクソにやりこめて不登校にさせたことならあったけど、それが元ネタかなあ。そういうのを広めそうな奴に心当たりあるし。あたしは今日欠席している友達を恨んだ。
どっちにしても、こいつがあたしに対して抱いているイメージはだいたい分かった。
「……こんな風に、日野崎先輩の噂はかねがね耳にしておりますわ」
「そりゃどーも。会ったことのない後輩にまで名前が知られているなんて、あたしも随分と有名になったもんね」
「ひとつ訂正させていただくと、別に初めてではありませんわ。茶道部の活動のときに、一度だけかお会いしております」
コイツ、茶道部の後輩か。そういえばそんなものに所属していた気もする。もっとも、一年生の頃から通じて四、五回しか顔を出したことがない気がするけど。頭数が足りなくて廃部になりそうだから名前だけでも貸して欲しい。そう頼まれたから籍だけおいてあるだけだし。
「そうなんだ。さすがに声だけじゃ誰かわかんないけど」
「どうでしょう。もし私が姿を見せても、きっと先輩は私のことをご存知ないと思いますわ。私が先輩にお会いしたことがあるのは一度だけですし、それも茶会の席でのことですから、覚えていらっしゃらなくて当然ですわ」
会話を続けながら気配を探る。声の反響具合からして、どうやらあの黒猫のすぐそばにいるらしいことはわかった。だが、それ以外にはまったくわからない。
これでは動きようがない。まずい状況が続いている。
「で、なんであんたは隠れてんのさ。せっかくだから教室に入ってきたらどうなの?」
「あら、先輩ともあろう方が何をおっしゃいますか。私はずっと先輩の目の前におりましてよ。お気づきにならないんですの?」
知っている。今のはカマをかけただけ。とりあえずあたしの予想が当たっていたことは分かった。あとはどうやってその化けの皮を明かすかだ。
「今朝バスに乗ってたのはあんたなの?」
「あら、先輩もお気づきになってたんですのね。私もバスの中から先輩の姿をお見かけしたときに気付きましたの。黒い猫を連れた先輩の姿を拝見した瞬間、思わず胸が高鳴りましたわ」
「胸が高鳴る? その心は?」
「それは……」
声の気配が少しだけ変わった。今まではのほほんとしていた感じの声だったんだけど、急に張りが出てきた。今まで抑えていた気持ちを外に出そうとする。そんな感情の震えを感じる。
「それは、ですね。『あの』日野崎先輩を、私が、私がこの手で殺せるからですわっ!」
穏やかな声が雄叫びへと反転する。タタタッと足音が近付いてくる。
あたしはその声に押され、とっさに一歩後ずさった。
それと同時にガキンッという音がして、あたしの席が斜めに割れた。
割れ方はさっきのギロチンと違う。左上から斜めに切断面が走っている。
手に携えた武器。つまりこれはスォードによる攻撃か。机の脚までは切り口が達していないところを見ると、獲物の長さはそんなに長くなさそう。でも、そんなにゆっくり観察している暇はない。
あたしは身を翻して、教室の窓側に走り寄る。ここは二階だし、窓から飛び降りて逃げよう。そう思ったんだけど……一瞬の躊躇のあと、あたしは手近なイスを掴んで窓を殴りつけた。
パリン、という音とともに窓ガラスは割れた。さらに上から落ちてきたギロチンによってイスも真っ二つに割れた。イスの破片は窓の外側へと落下していった。
「逃げようと思っても無駄ですわ、先輩。この教室はすでに私の作り出した幻によって包み込まれていますわ。何人たりとも、ここから逃げ出すことは叶いませんわ」
「みたいね」
まったくもって望まざる状況だ。襲われたのがあたしじゃなかったらパニックになって即死だったと思う。本当に容赦ない。
あたしは手に持っていたイスの残骸を投げ捨て、敵がいるであろう方へと向き直る。
「でも幻ってことはそう見えてるだけなんだろうね。別に逃げようと思えば逃げられるってことかな?」
「でしたら試してみてくださいませ。私の幻惑魔法はただのまやかしではありませんわ。あたしのイメージを現実世界に侵食させてしまうのが私の魔法。ですから、幻といえども先輩の体を切り刻むくらいはできますわ」
声の位置は変わらない。さっきあたしが立っていたあたりからしている。あたしを追いかけて殺しに来ないのはすでに勝った気でいるからだろう。
わざわざ自分の魔法の名前までしゃべってくれるとは親切極まりない話だ。
今こいつは「幻惑魔法」と言った。
自分のイメージを現実世界に侵食させられるとかなんとか言っている。もし本当だとしたら厄介なことこの上ない。なにせ、こいつの思ったことが現実に反映されるのだから。こいつの姿が見えないのも、きっとその応用だろう。
「さあ、先輩。どうさないさますか。逃げ出そうとしたら真っ二つ。このまま教室にいても真っ二つですわ」
その声とともに、ガキンッという音が響く。あたしの席の隣の机が割れた。
またさっきと同じ切り口。キレイな切断面が入る。左上から入っているところを見るに、相手は右利きか。
こんなときでもあたしの頭は普段通りちゃんと働いてくれている。
よしよし、少しずつ化けの皮が剥がれてきたぞ。
「どうなさいますか、先輩。今なら土下座して命乞いすれば、助けてあげなくもないですわよ? 涙を流して地に頭をこすりつければ、私も慈悲の心を持つかもしれませんわ」
声の主はなにやら調子に乗っているようで、その後もガキン、ガキンと次々と教室内の机を割っていく。一つ一つ丁寧に割っているところを見ると、刀とか剣とかの類じゃないな、あの武器。さしずめ、鋏とか鎌とかそういった使いにくい刃物だろう。
……やれやれ、だ。
さすがにこれ以上教室を破壊されてはたまらない。あたしの机はすでにバラバラにされてしまってる。明日からどうやって授業を受けろと言うのだ。
迷惑極まりない話である。
それにもうひとつ、もうひとつ呆れる理由がある。こんな雑魚が、あたしの死に場所であっていいはずがない。あたしは戦いの途上で死ぬ。それは間違いない。
でも、死に場所を選ぶのはあたしの権利だ。
こんな自分の魔法についてペラペラしゃべり、無意味に自分の力を見せびらかすような馬鹿相手に死ぬなんて。そんなの、まっぴらごめんだ。
「さあさあ、どうなさいますか、先輩。それとも、もう軽口を叩くような余裕もありませんの? あの日野崎麻衣先輩とあろう方が?」
「……飽きた」
「……は? 今……なんと?」
「飽きたって言ったのよ。いい加減あんたみたいな雑魚に付き合うのにも飽きたの。だから、そろそろ終わりにするね」
「……ご自身の立場がわかっていないようですわね、先輩。教室の外に出たらギロチンで真っ二つ。教室の中にいても私の鋏で真っ二つ。反撃しようにも私の姿は見えない。こんな状況でよくもまあそんな強がりが言えたものですわね」
ガキン、ガキン、とさらに次々と机が割られていく。
ふーん、やっぱり鋏なのね。
自分でそれを言ってどうするんだろう。やっぱりどうしようもない馬鹿だ。本当に終わらせてやろう。
そう思い、あたしは口を開く。敵を倒すために、隠し持っていた切り札を場へと送り込む。
「相沢由香里」
「…………え?」
「あんたの名前。あんた、一年B組の相沢由香里よね?」
「な、なんでソレを……」
「なんでも何も、あんた自分で言ってたじゃないの。『茶道部で一緒に茶席に出たことがある』ってさ。あたしと一緒に出たことがある一年生なんて、ほんの数人しかいないし。あとは声とか雰囲気とかでだいたい判別できるわ」
「で、でも、私はあのとき座っていただけですわ。先輩に名乗ったわけでも、何をしたわけでもありませんし。先輩が私のことを知ってるはずありません!」
かすかに震える声から、こいつが激しく動揺しているのが伝わってくる。
まあ、本当はもっと前から気付いてたんだけどね、こいつの正体には。
あたしは人付き合いをあまり好まないというだけで、別に他人に興味がないというわけじゃない。一度会ったことのある人間ならだいたい顔は覚えるし、名前も人並みには覚えていられる。
だから茶席で一緒になった一年生のことくらい、全員覚えている。とはいっても、顔ならともかく声まで記憶するのは困難だ。人間の声を完璧に聞き分けられるほど、あたしの耳は良くない。あたしがこいつの正体に気付けたのには、別の理由がある。
あたしの数少ない友達の一人に、やたらとゴシップ好きの子がいる。まあ、いわゆるひとつの事情通ってやつだ。そいつが前にこの相沢由香里のことを話していたのを思い出したのだ。
なんでも、もともと相沢由香里は野球部のマネージャーをしていて、そこのキャプテンの某にホレたんだそうだ。で、告白したけれども振られてしまったと。
これだけならそこで終了なんだけど、その後にそのキャプテンをあたしが振ったものだから、相沢由香里はあたしのことを相当恨んでいたらしい。夜道に気をつけなよ、と友達に注意されたことを覚えている。
ちなみに、あたしは自分が振った男の顔と名前なんていちいち覚えちゃいない。入学以来、二十人くらいは振ってるもんだから仕方ない。モテる女は薄情なのだ。
さて、この話には続きがある。その後、居心地が悪くなって野球部のマネージャーを辞めた相沢由香里は、情緒不安定に陥ってしまった。茶道部に入部したものの、人間関係のトラブルを起こしてすぐに退部している。あたしとニアミスしたのはその直前だったのだろう。挙句の果てにそのまま気を病んでしまい、現在は高校生では珍しい保健室通学をしているとのことだ。我が友がどこからこんな情報をつかんでくるのかは不思議でならない。
それはともかくとして、ここまでくれば誰でもわかる話だ。あたしの目の前にいる魔女の正体は、その相沢由香里で間違いない。授業時間中にあたしに見つからなかったのも当然と言えば当然だ。保健室から一歩も外に出ていないのだから。
恋の逆恨みで襲い掛かってくるとは、随分とまあ器の小さい奴だ。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
姿の見えない謎の魔女の正体は、嫉妬に狂った下級生でしたとさ。なんてつまらないオチ。
相手は動揺してるし、ここで一気に叩き潰してしまうとしよう。
「というよりさ、相沢由香里ちゃん。あんた、さっき姿が見えないとかなんとか言ってるけどさ。あんたの姿、今はあたしに丸見えなんだけど?」
「……そ、そんなはずがありませんわっ! 私の魔法は完璧。誰にも……誰にも私の姿を見ることはできないはずですわっ!」
「いやいや、でも見えてるし。つーか、見えてなきゃ最初の攻撃避けらんないじゃん」
「そ、そ、そんなことは有り得ませんわ。私は…私は完璧ですのっ!」
もちろんハッタリである。
あたしには相沢由香里の姿は影も形も見えてはいない。こいつの言う通り、その魔法は完璧なんだろう。完璧じゃないのは、魔法を使う本人の方だ。
「だから丸見えなんだってば。まあまあ、気にしないでよ。ほら、裸の王様みたいなもんだと思えばいいじゃん。その場合、あたしが賢い少年役で、あんたが間抜けな王様役ってことでオッケーかな?」
「は、はだかの、はだかのおうさま、ですって?」
相変わらず姿は見えないけど、これくらいはわかる。
きっと今、相沢由香里は怒りに肩を震わせているに違いない。
「……ぶっ殺すっ!」
ダダダダッという足音とともにイスや机がガタガタ動いていく。いくら姿が見えなくても、これでは位置がモロバレだ。さっきまでは慎重に動いていただろうに、焦って周りが見えなくなっているようだ。
あたしは自分の隣に浮かぶ車輪に目を遣る。ずっと回り続けていた車輪は少しずつその速度を上げ、いまや自動車のタイヤのような高速回転を見せている。
回り出した運命は誰にも止められない。
「よいしょっと」
あたしは近くにあったイスを両手でつかみ上げた。そして一歩だけ左に動き、目の前の空間に向かって無造作にイスを振り下ろした。
ガキンッという金属音と、バキッという鈍い音が同時に響く。
「ギャーッ!」
手応えあり。全然女の子っぽくない悲鳴が教室に響いた。
感触から察するに、あたしの振るったイスは相手の顔面を直撃したらしい。歯の二、三本くらい折れちゃったかもしんない。相手の姿は見えないのは幸いだ。
あたし、そういうスプラッターなの苦手なんだよね。
そっと隣を見ると、さっきまであたしがいた位置の後ろにあった机が、相手の鋏によってザックリ割られてしまっていた。危ない危ない。動かなかったらあたしがああなっていたのか。
「なんで? なんでなの? なんで見えるのっ?」
机が一つ、ガタンと音を立てた。声の出る位置から察するに、おそらく机に手を突いて立ち上がったようだ。だいぶ錯乱しているのか、声が震えている。
「だから丸見えなんだって。さっきから言ってるじゃん」
くどいようだが、これはハッタリである。相手はあたしが攻撃を見切ってかわしたとでも思っているんだろうけど、そんな器用な真似は運動音痴のあたしには出来ない。
今の一挙動の理屈はひどく簡単だ。
あたしはなんとなく安全そうな方向に避けて、なんとなく相手のいそうな場所めがけてイスを振り下ろしたのだ。そうしたら、偶然あたしは相手の攻撃を避けられて、偶然イスが相手の顔面を直撃しただけ。本当にそれだけに過ぎない。
つまり、あたしは運が良かっただけで見事な立ち回りを見せたというわけだ。まあ、数億分の一の確率で宝くじの一等を当てるのと比べれば、この程度の運命操作なんて実にたやすい。
あたしは何も考えなくていい。運命に身を任せていれば、すべてがうまくいく。
それが運命魔法。
『運命の輪』のカードによってあたしが得た魔法。
「……許さないわ。絶対に……絶対に許さないっ!」
相沢由香里は低く呟く。同時に手を突いていたであろう机がガタンと倒れた。
「あんたに許される筋合いなんてないし?」
あたしはなんとなく右に避ける。そして、また適当に正面にイスを振り下ろす。
バキッ。
再び鈍い音が教室に響き、何か重たい物がドサッと地面に崩れ落ちる音がした。感触的に、今のは背中に当たった気がする。もしかしたら肋骨とか折っちゃったかもしれない。
まあ、仕方ない。あたしは避けなかったら死んでたわけだし、骨の一本や二本は我慢してもらおう。他人に怪我をさせたのは生まれて初めてだ。ちょっと心が痛い。
足元で声にならない呻きが聞こえる。結構いいところに入ったのか、相沢由香里に起き上がってくる気配は無い。だいぶ打たれ弱い。あたしも人のこと言えないけど。
「クソっ!」
下品な叫びとともに、相沢由香里があたしの足元から這って離れていく。地面の上を見えないものが這っていく様子はなかなか滑稽だ。塵の跡とか埃の舞い方とかで、どこにいるのかが丸わかりである。
「クソッ、クソッ、クソッ!」
相沢由香里は叫びを上げながら立ち上がった。あたしとの距離はおよそ五メートルってとこだ。見えない敵にもだいぶ慣れてきた。ハッタリではなく、相手の挙動がおおよそ読めるようになってきている。
やっぱり天才だわ、あたし。
「日野崎麻衣がまた私の邪魔をするのっ? どうして? どうして私の邪魔をするの? 私のことがそんなに嫌いなのっ? 憎いのっ?」
血を吐きそうな叫びを上げる相沢由香里。
その言葉に、あたしも誠意をもって返事をする。
「全然。あんたのことなんてどうでもいいし。あたし、もう帰っていいかな?」
……。
……。
しばしの沈黙のあと、相沢由香里が言葉を発した。
「オマエは殺す。……絶対に殺すっ!」
カキン、カキン、カキン、カキン……。
頭上で連続して金属音が鳴った。カキン、という音が何十回と鳴り続ける。
見上げると、教室の天井のすべてをギロチンの刃が埋め尽くしていた。刃はあらゆるところで重なり合い、まるで密林に生い茂る葉っぱのような有様になっていた。
本来なら恐ろしいであろうその光景に、あたしはむしろ哀れみを覚えた。魔女として、人知を超えた存在としての力を与えられながら、この程度とは。
相沢由香里。話を聞いた限り、あんたが手に入れた魔法はすごい力を持ってるよ。自分のイメージを現実に反映させる魔法なんて、考えただけで恐ろしいじゃない。ある意味、どんな妄想だって現実のものにしちゃえるわけだからさ。
それなのに、一本でダメならたくさん用意すればいい。そんな発想しかできないの?
「あははは。これなら逃げ場なんてないでしょ? あなたはここで死ぬのっ! あたしの手によって殺されるのよっ!」
相沢由香里は高らかに笑う。
あたしはその有り様を憐れみをもって見つめる。
まあ、確かにこれは避けられそうにない。どんな運の良い奴でも、これだけの数の刃が振り注いだら逃げ場所なんてないだろう。でも、それは裏を返せばこういうことだ。
「これじゃ、あんたも逃げ場所無いじゃない。死ぬ気?」
「わ、私が死ぬよりも、日野崎麻衣、オマエが死ぬ方が先よっ!」
どうやら、相沢由香里は自爆覚悟のようだ。なんて可哀想な子だろう。
相沢由香里は最後の一言を放つ。
「死ねっ!」
天井を埋め尽くす無数のギロチンの刃が一斉に落下する。
ガキーン、と一際大きな金属音が教室に鳴り響いた。その刃は教室中のすべてのもの――机、イス、教卓、教壇、ロッカー、ゴミ箱、掃除用具入れ、黒板、掲示板、数多の生徒の私物――をすべて切り裂き、真っ二つにした。
無論、その命令を下した相沢由香里も例外ではなく。彼女がいたであろう場所には、真っ赤な血溜まりが広がっていた。
「……それでも姿は見えないんだ。どんだけ姿を隠したいのよ、あんた」
相沢由香里という人間が、あらん限りのイメージで作り出した刃の雨。
でも、残念ながらそれはあたしに届くことはなった。
あたしの頭上にはゆっくり回転する車輪が傘のように位置していた。こんなギロチンの刃ごときでは、あたしのスォードには傷ひとつ付けられない。相沢由香里の最期の攻撃に対して、あたしは自らの魔法を使うことすらなく対処したのだった。
「安心して、相沢由香里。あたしも近いうちに死ぬから。でも、あたしの死に場所はここじゃないってだけよ」
相沢由香里は死んだ。
日野崎麻衣は生き残った。
それだけの話。
こうして、あたしにとっての魔女のゲームの第一ラウンドは終わった。
さて、と。春ちゃんがあたしの帰りを待ってるし、帰ろっかな。
ピンポーン。
あたしがインターホンを鳴らすと、鳴り終わらないうちに玄関のドアが開いた。
「お帰り、お姉ちゃんっ!」
「ただいま、春ちゃん」
あたしの帰りをワンピースにエプロン姿の春ちゃんが出迎えてくれた。両手にミトンを付けているところを見るに、夕食を作っている最中みたいだ。
「お姉ちゃん、今日はいつもよりちょっと帰り遅かっですね。何かありましたか?」
「んー、まあ。あったような無かったような?」
あたしは玄関へと上がり、靴を脱ぎ捨てながら曖昧に返事をする。
まさか学校で他の魔女と殺し合いをしてきました、なんて答えることはできない。でも適当なウソも思いつかないので、中途半端な返事で誤魔化す。
「もしかしてお友達と一緒だったりしました? ええっと……小金井さん、でしたっけ?お姉ちゃんのお友達の人。あの人と一緒だったとか?」
「んーん。今日、小金井は学校休んでたよ。どーしたんだろーね。風邪とか引くような子じゃないから、ちょい心配かも。まあ、明日は元気に来るんじゃないのかな」
「そうなんですか?」
「うん。まあ本当に何もなかったから気にしないで。アレだ。道でかわいい黒猫を見つけたから、じゃれて遊んであげてただけよ」
嘘は言ってない。たぶん。
「えっと……そう、ですか。別に何もなかったならいいんですけど……ちゃんと時間通りに帰ってきてくださいね。お夕飯の支度もありますし。それに春、お姉ちゃんのこと心配しちゃいますから」
「春ちゃんは過保護だねえ」
「もう、からかわないでください、お姉ちゃん。あ、ちなみにお夕飯はもうできてますよ。今日はお姉ちゃんの大好きな肉じゃがです」
春ちゃんはちょこんと座り込んで、あたしが脱ぎ捨てた靴を揃えてくれた。
「んじゃ、あたし上で着替えてくるね。すぐに降りるから、支度待ってて」
「はい、わかりました。支度して待ってますね、お姉ちゃん」
あたしは階段をドタドタと駆け上がり、二階にある自分の部屋へと入った。鞄を床に投げ捨て、一度大きく深呼吸する。
「ふぅ、焦った焦った。……バレてないよね?」
説明できないものは説明できないから仕方ない。それに、万が一にでも春ちゃんを巻き込むようなことがあってはならない。なんとか隠し通さないと。
「バレてないって、何がですか?」
ドキンっと胸が鳴った。おそるおそる後ろを振り向くと、そこにはいつの間にか春ちゃんが立っていた。そういえば、ドアを閉めていなかった。それにしても何の気配もしなかったぞ、今。
「ど、どしたの、春ちゃん? 夕飯の支度じゃなかったの?」
「えっと、お姉ちゃんのブラウス、クリーニング屋さんから持って帰ってきてたの忘れてたんです。だから今持って来たんですけど……」
「あ、うん。ありがとね、春ちゃん。クローゼットに掛けといて」
「はい、わかりました。そうします」
春ちゃんはクローゼットを開け、そこに手に持っていたブラウスをしまう。
あたしはというと、若干ビクビクしながらも制服を脱いで部屋着に着替える。部屋着は春ちゃんがベッドの上に畳んで置いておいてくれたものだ。あたしはものぐさなので、ともすれば制服のままでベッドに寝転がってしまう。それを知っている春ちゃんが、いつも用意してくれているのだ。ありがたい話である。
チラッとクローゼットの方に目をやる。春ちゃんはクローゼットの前に立ち、じーっとこちらを見ていた。
うっ、まずい。さっきの言葉、やっぱり聞かれてたのかもしれない。
さてさて、どう説明したものか。春ちゃん、あたしの帰りがちょっとでも遅くなると、結構本気で心配してくるんだよね。どうやってごまかそう。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん? な、何かな?」
「ホントに何も隠し事してませんよね? 春に隠し事なんてしませんよね?」
「……うん、一応」
春ちゃんの視線に耐えかねて、また適当な答えを返す。一応ってつけたからウソはついてないはず。あたし的にはそういう判定にしておく。
「わかりました。お姉ちゃんがそう言うのなら、そういうことにしておきますね。でも、もし何か困ったことがあったら、ちゃんと春に相談してくださいね?」
バレバレだった。あたしがたった今脱ぎ捨てたばかりの制服を拾い集めながら、春ちゃんは優しくそう言ってくれた。
あたしのウソに気付きつつも、無理矢理聞き出そうとはしない。それでいて、あたしのことを心から心配してくれている。なんて出来た妹だろう。いつも思うけど、あたしにはもったいないくらい、本当にいい子だ。
「と、とりあえずご飯にしよっか! あたし、お腹空いちゃった」
「はい、わかりました。春はこれ片付けちゃいますから、先に下に降りててください」
「うん、よろしくっ」
あたしはそれだけ言い残して、すたこらさっさとその場を退散する。
これがあたしの日常。春ちゃんとあたし、二人だけの日常生活はだいたいいつもこんな感じだ。たまに父さんと母さんが加わるけど、基本的には姉妹二人で水入らずの楽しい生活を送っている。妹の尻に敷かれているのは気にしたら負けね。
でも、あたしは知っている。あたしの命はそんなに長くはないことを。
あたしは望んでもいないのに魔女なんてものにされてしまった。そして、血で血を洗う戦争の中へと叩き込まれてしまった。その中で生き残ることはあたしには出来ない。それは運命だから受け入れるしかない。抗ってもムダだから、こればかりは仕方がない。
ただ、もしそのときが来たときには、こう願わずにはいられないと思う。
あたしが帰ってこないことが春ちゃんに伝わりますように、って。
もしあたしが帰ってこなかったら、あの子はいつまでも玄関の前で待ち続けるにちがいない。今日みたいに。夕飯の準備なんて全部終わってるのに、エプロンとミトンを付けたままで待っているのだ。あたしが気兼ねしないでいいように。ちょうど通りかかったところだと見せかけるために。
それを思うとちょっとだけツラい。どうしようもないロクデナシなあたしだけど、その程度の気遣いくらいはしたい。
だから、あたしは自分の死に場所くらいは選びたい。
春ちゃんのために。
いやはや、とことんシスコンだね、あたしってば。
※『ⅩⅧ 月』
魔女…相沢由香里。十六歳。
ワンド…「幻惑魔法」 自身の空想の産物を具現化する。
ペンタクル…「不可視の外套」 自身の姿を見えなくする。光学機器にも映らない。
スォード…「首断ち鋏」 中世に作られた罪人処刑用の大きな鋏。
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