第五章「ⅩⅩⅠ 世界」 十日目
【あらすじ】
舞台は現代日本のとある地方都市。
「原初の魔女」は自らの悲願を達成するために禁断の儀式に手を染める。彼女は自身の魔力と魔法を二十二枚のタロットカードに分割し、何も知らぬ少女達へと投げ渡した。カードを手にした少女は魔女となり、互いに殺し合う宿命を背負う。勝者が絶大な魔法の力を手にするバトルロイヤルが始まった。
【第一章】
タロットカード「Ⅹ 運命の輪」を手にした女子高生、日野崎麻衣の視点で物語は幕を開ける。
【第二章】
物語の中心はタロットカード「ⅩⅠ 力」を手にした千尋沙織へと移った。
熾烈を極める戦いの中、悲劇は連鎖する。
【第三章】
魔女のゲームは半ばを過ぎ、残る魔女は半数以下となった。
そんな中、「Ⅱ 女教皇」のカードを持つ中学生、緒方早月が暗躍する。
【第四章】
名も無き十三番目の魔女が動き出し、物語は終幕へと向かう。
【第五章】
ゲームエンド。勝者は1人。
欠けた満月が天頂を抜け、西の空へと傾いていく。
ついさっき日付が変わった。十日目にして、此度の魔女のゲームも終焉を迎えたのだ。
私の足元で愚か者が「ニャー」と鳴く。
名も無き魔女の姿は消え、そこに大量のカードが残される。私はしゃがみ込んでそのカードの山をささっと整えた。それらのカードを手に取り、一枚一枚じっくりと検分する。
愚か者からおおよその戦いのあらましは聞いている。それぞれのカードを持つ魔女がどういう運命をたどったのかを、私は知っている。
『 愚者』 愚かな魔女は道化。そのカードは最初から私の手の内にある。
『Ⅰ 魔術師』 正統たる魔女は、力の魔女によって殺された。
『Ⅱ 女教皇』 真理の魔女は、名も無き魔女によって殺された。
『Ⅲ 女帝』 豊穣の魔女は、私が殺した。
『Ⅳ 教皇』 慈悲の魔女は、力の魔女にによって殺された。
『Ⅴ 皇帝』 支配の魔女は、真理の魔女によって殺された。
『Ⅵ 恋人』 恋の魔女は、力の魔女によって殺された。
『Ⅶ 戦車』 征服の魔女は、真理の魔女によって殺された。
『Ⅷ 正義』 正義の魔女は、名も無き魔女によって殺された。
『Ⅸ 隠者』 秘匿の魔女は、私が殺した。
『ⅩⅠ 力』 力の魔女は、真理の魔女によって殺された。
『ⅩⅡ 吊るされ人』 試練の魔女は、支配の魔女によって殺された。
『ⅩⅢ 』 名も無き魔女は、私が殺した。
『ⅩⅣ 節制』 節制の魔女は、私が殺した。
『ⅩⅤ 悪魔』 堕落の魔女は、真理の魔女に殺された。
『ⅩⅥ 塔』 破滅の魔女も、力の魔女が殺された。
『ⅩⅦ 星』 星の魔女は、自らの運命を悲観して自ら命を絶った。
『ⅩⅧ 月』 月の魔女は、己を見失って自ら命を絶った。
『ⅩⅨ 太陽』 太陽の魔女は、力の魔女によって殺された。
『ⅩⅩ 審判』 審判の魔女は、真理の魔女によって殺された。
『ⅩⅩⅠ 世界』 世界の魔女は……私はまだ、生きている。
何ということは無い。
私には最初から愚か者によってすべての魔女の動きを察知していたのだ。存在を認識できなかったのは、もともとそういうモノである『名も無き魔女』だけ。それ以外の魔女の動向は私に筒抜けであった。
まあ、彼女たちが使う魔法はもともと私のものだ。他の魔女は私の力を借りているに過ぎない。
このゲームは私が勝つように最初から作られている。だから、こうして私が勝者になって生き残ったのは当然の結果だ。
これにて魔女のゲームは終了。あとはこれらのカードに封じ込められた魔女たちの魂と肉体を生け贄に捧げ、私の世界魔法を完成させるだけだ。
さらなる高みに上るために。
私を救わなかった神の存在を否定するために。
「ふはははははっ」
否が応にも胸が高鳴り、私は笑いを堪えられなかった。なんとか声は抑え込むが、顔のにやつきは止めることができない。
仕方あるまい。長年の悲願の成就が本当にすぐ目の前に見えているのだから。
「おやおや? 不思議なこともあるものだねえ」
そんな私の歓喜に水を差すように愚か者が呟いた。ヤツは私がカードを一枚一枚検分している最中、その他の動きをじっと見詰めていた。
今思えば、ヤツの視線にはほんの少しだけ悪意が隠れていたように感じる。
「世界の魔女、もう一度カードの枚数を確認するべきだと思うよ」
「なに?」
「貴女は誰よりも強いけど、実はそこまで賢いわけじゃないよね。ミスは誰にでもあることだから仕方ないけど、もう少ししっかりしてもらわないと困るな」
釈然としないものを感じながら、私は手元のカードの枚数を数える。
『 愚者』
『Ⅰ 魔術師』
『Ⅱ 女教皇』
『Ⅲ 女帝』
『Ⅳ 教皇』
『Ⅴ 皇帝』
『Ⅵ 恋人』
『Ⅶ 戦車』
『Ⅷ 正義』
『Ⅸ 隠者』
『ⅩⅠ 力』
『ⅩⅡ 吊るされ人』
『ⅩⅢ 』
『ⅩⅣ 節制』
『ⅩⅤ 悪魔』
『ⅩⅥ 塔』
『ⅩⅦ 星』
『ⅩⅧ 月』
『ⅩⅨ 太陽』
『ⅩⅩ 審判』
『ⅩⅩⅠ 世界』
私の手元にあるカードは二十一枚。
タロットカードの大アルカナは、全部で二十二枚。
「……一枚足りない、だと」
「そう。一枚足りないんだ。君の手元には一枚だけ欠けているカードがある」
私は急いでカードの番号をチェックする。
抜けているカードは……『運命の輪』だ。
前回の魔女のゲームで私を勝者へと導いたあのカードが、今は私の手元に無かった。
だが、おかしい。私は確かに愚か者から聞いていたはずだ。
「運命の魔女は、力の魔女に殺されたはずだ。お前は確かに私にそう伝えたはずだ」
「うん、伝えたよ。運命の魔女は力の魔女に殺された。それは紛れも無い事実だ」
愚か者は私に対して絶対に嘘を吐くことが出来ない。前回のゲームの折、私はそういう契約を結ぶことでこの愚かな魔女の命を繋ぎ止めた。
力の魔女がカードを紛失したり、どこかに置き忘れる可能性はある。
だが、その場合には愚か者が速やかに回収するはずだ。常に魔女の後ろについて回り、その動きを監視するとともにカードの管理を行う。私が愚か者に与えた職能を、愚か者が反故に出来るわけがない。
なら、どうして。
どうして命を落とした魔女のカードが、私の手元にないのだ。
「……愚か者、貴様は何を隠している?」
「ボクちゃんは何も隠してないさ。まあ、カードの在り処についてはおおよその見当がついているけどね」
「言え。『運命の輪』はどこにある?」
「まあまあ、その前にちょっと聞きたいことがあるんだ」
「いいから言え。これは命令だ」
「何を言ってるんだい。ボクちゃんは貴女の与える職能には従うけれども、命令に絶対服従というわけではないよ。ボクちゃんは貴女に仕えてはいるけど、貴女の奴隷というわけじゃない」
「……ちっ」
思わず舌打ちをする。腹立たしいことこの上ない。コイツは道化だ。道化の言うことにいちいちケチを付けていたらは日が暮れてしまう。
「私に何を聞きたいのだ、愚か者」
「さっき君が殺した名も無き魔女。彼女が駆使する『代償魔法』って何だい?」
何を聞いてくるかと思えば、そんなことか。
「『代償魔法』は、文字通り何らかの対価を代償として支払うことで発動する魔法だ。支払った代償が大きければ大きいほど効果は強くなる。ただし、支払う代償は自分の所有物でなければならん。多くの場合、自身の持つ財産や肉体の一部が使われる」
私は苛立ちを抑えながら言葉を続ける。
「前回のゲーム……本来あるべき姿の魔女のゲームでは、城一つを持つ大貴族が使っていたな。散々手を焼かされた」
「随分とまあ変わった魔法だねえ。どうしてその魔法をあのカードに込めたんだい?」
「前回、その魔女が最後に発動した魔法のせいだ。その魔女は自身の肉体と魂を代償に、別の魔女一人の命を絶った。自らの死と引き換えに誰か一人の死を願う。まさにあのカードにぴったりだろう」
私は過去の記憶を掘り返しながら告げた。
そういえば、最期に敵の死を願うとは実にヤツらしかったな。
……感傷に浸るだなんて、私らしくもない。前回のゲームで死んだ魔女たちの力はすべて私の中で生きている。悲願の成就は彼女たちのおかげでもあると言えよう。
好敵手には敬意を払わねばならん。
「さあ、そろそろいいだろう。私は貴様のくだらない質問に答えてやったぞ。次は貴様が手札を明かす番だ。愚か者、『運命の輪』のカードはどこにある?」
「あ、そうだ。あと一つだけ聞いていいかな?」
「断る」
「えー、あと一つだけだからさ。それだけ聞いたら、カードの在り処はちゃんと教えるからさ?」
「……言ってみろ」
いい加減にしろと言いたいところだが、あと一つだけ聞いてやることにする。これ以上結論を遅らせるようなら、無理矢理にでも吐かせるだけだ。愚か者は奴隷ではないが、私の支配下にあることは確かだ。ヤツは私に対して、絶対に嘘がつけない。
「『代償魔法』ってのはさ。代償さえ支払えばどんな奇跡だって起こせるのかい?」
「理論上はそうだろう。だが、奇跡を起こすにはそれ相応の対価が必要となる。たとえば私の長年の願いを叶えようと思ったら、その代償は何千世紀生きようとも決して支払えるものではない。費用対効果が悪すぎるのだよ、この魔法は」
「じゃあさ。たとえばの話だけど、もし人間一人を生き返らせようと思ったら、どの程度の対価が必要となるのかな?」
「死者の復活か。その願いを叶えるにはまず死者の肉体を再生し、その上で冥府からその者の魂を呼び戻さねばならん。しかもその肉体と魂を結びつけるには膨大な魔力が必要になる。そうだな。ざっと一万人程度の生け贄を屠り、その上で魔女自身の魂と肉体を捧げれば可能かもしれんな。大した規模の魔法になるぞ」
「ふーん。でもそれは肉体も魂もすでに滅んでいる人間の話だよね? もし仮に、肉体も魂も死んですぐの状態で保存されているとしたらどうかな?」
「そんな都合の良い状況があるわけがなかろう。だが、もしあったとしたら話は早い。魔女が自身の魂と肉体を捧げればそれでこと足りるだろう。なにせ、すぐそこにある物体を繋いで修理するだけだからな」
この愚か者が何が言いたいのか、私にはさっぱり分からん。
死者の再生だと?
そんな戯言を耳にするのは久々だ。まさか、この愚か者は自分の生にまだ執着しているというのか。馬鹿馬鹿しい。
「さあ、話は終わりだ。貴様の手札を明かせ、愚か者」
「実はね。カードを持っていたのは、さっき君が殺した名も無き魔女なんだよ」
「それならここに落ちているはずだろう。なぜこの場所に無いのだ」
「それはね。彼女は君が殺したわけじゃないからさ」
「何を馬鹿なことを。手応えは確かにあった。私のレイピアはヤツの心臓を貫き、死に至らしめた。貴様も見ていたであろう」
「いやいや、君は気付かなかったのかもしれないけど、僕は気付いたよ。彼女はね、死の間際に一つの魔法を発動していたことを」
「魔法の発動? 何を対価に何を願ったと言うのだ。あの状況であの魔女に何が出来たというのだ。あやつに私への深い憎しみがあれば私を殺すくらいはできただろう。だが生憎とあやつの目にはそんな光は宿っていなかった。あんな壊れかけが何を願うというのだ」
「うーん、ヒントは出してるんだけどな。君がこのゲームを見守る傍観者だとしたら、とっくに気付いていたはずだよ」
「もったいぶらずに話せ。名も無き魔女は、死の間際に何を願った? 『運命の輪』はどこに隠されている? さあ、話せ。愚か者」
「それは彼女に聞くといいよ」
愚か者はふと、神社の門に目をやった。
私もつられてそちらに目を向け、そこに一人の女が立っていることに気付いた。襟とリボン、それにスカートが紫色のセーラー服。後ろで一つにまとめられた茶色に近い黒髪は、駿馬の尾を思わせる。切れ長の瞳は、どんな人間でも見透かせそうな強い光を放っている。
「こんばんは、いい夜ね」
女は門をくぐったところで、場違いな挨拶を私に投げかけてきた。その足元には、一匹の黒猫を伴っている。愚か者め。やはり私に何かを隠していたな。
私はその女のキッと見据え、その正体を問う。
「貴様、何者だ」
女は無表情でこちらに歩み寄ってきて、境内の中ほどで足を止めた。建屋を背中にする私との距離はおよそ五メートル。これ以上近付くようなら、誰であろうと容赦しない。問答無用で手を下してやろう。
「……スォード」
女がぼそっと呟くと、その傍らに一つの車輪が出現した。黒に近い茶色の車輪。誰の手も触れていないのに、宙でくるりくるりと回転している。
数百年前、私が魔女になったときに最初に触れたモノ。
『運命の魔女』シンデレラをゲームの勝者へと導いたモノ。
それを手にする一人の魔女が、最後の最後に私の前に立ちはだかるとは。
「運命とは皮肉なものだな」
「どうだろうね。運命は常に定まった結果しかもたらさない。あたしはそう思ってるんだけど……違う?」
いいや、それは正しい。
なぜなら、それは私が誰よりも良く理解していたことだからだ。
「私は『世界の魔女』シンデレラ。貴様は?」
「あたしは『運命の魔女』日野崎麻衣。よろしくね、シンデレラちゃん」
「運命の魔女は死んだはずだ。……貴様はなぜここに立っている?」
「あー、うん。あたし、一度死んでるよ。やたらと強いお姉さんにボコボコにされてね。いや、あの人はホントに強かったなあ」
「なら、なぜ貴様はここにいる」
「春ちゃんがね、あたしを呼んだんだ。一人じゃ寂しいって。だから戻って来ちゃった。でも、春ちゃんが先にいなくなっちゃったから結局意味無かったかな。あの子、そういうところ抜けてるのよ」
「……何の話だ?」
「あたしのかわいい妹の話よ。生きるのが下手で、でもいつも一生懸命がんばっている、あたしの自慢の妹の話。あなた、中学生? 春ちゃんのこと、紹介したげよっか」
まったく会話が噛み合わない。こやつが何を言おうとしているのか、私にはまったく理解できない。私は魔女。ヤツも魔女。魔女と魔女が向き合った以上、そこには戦いしか存在しない。
だというのに、この緊張感の無さ。コイツはいったい何者だ?
「さーて、じゃあそろそろ始めよっか」
「……何を始めるつもりだ、運命の魔女」
「何って……決まってるじゃない。魔女と魔女が向かい合ってすることは一つしかない。あんたがそう仕組んだんじゃんか」
この女は、本当に何の気概もなく、こう宣言した。
「さあ、殺し合いを始めよっか」
相手の宣戦布告ととも私は動いた。
『運命魔法』の恐ろしさは私が誰よりも知っている。この世界は例えるなら極上のペルシャ絨緞のようなものだ。無限にも等しいの運命の糸によって編まれた美しい文様の絨緞。その幾千幾万幾億本の糸の中から、自分にとって都合の良い糸だけを選び抜き、それだけを引き抜くのが『運命魔法』といえる。
ゲームを始める前に私が考えた対処策は二つだ。
一つは、その魔女自身が運命に逆らうように差し向けること。実際、運命の魔女はそれで一度命を落としている。人間として正しい行動は魔女がすべきことと矛盾する。
もう一つは「完全な死の運命」を作り出すこと。絨緞のどの糸を引き抜こうが、必ず死に至るような絶対の運命。そんな運命を用意してやれば、どれだけ因果をいじくろうが関係ない。死という運命からは逃れられまい。
前者のような心理的駆け引きは私の得意とするところではない。
だから、私は後者を選ぶ。
すっと右手を振るう。それを合図に女の周囲の空間が球状に切り取られ、世界から完全に隔離される。
空間を切り離すということは、外の光も一切通さなくするということだ。月明かりに照らされた神社の境内に、漆黒の球体が出現する。漆黒の球体は足元の石畳の一部までを飲み込み、わずかに収縮を繰り返している。
その中心にあの女はいる。
「何も見えぬ暗闇の中でわけも分からず息絶えるがいい」
私がぐっと右手を握りこむと同時に、その黒い球体はどんどん小さく萎んでいき、一秒も経たないうちに球体はビー球ほどの大きさにまで圧縮された。残ったのは球面状に抉れた地面と、宙に浮かぶ黒いビー球だけ。
今のこの状況であの女が生き残る可能性はさすがに存在しまい。百パーセントの確率で相手を死に至らしめることができるのであれば、運命魔法とて恐るに足りない。
わざわざ冥府の門を開いて現世に戻ってきた運命の魔女には申し訳ないが、その程度のロマンチズムに付き合うほど私はお人好しではない。
最後に、宙に浮かぶビー玉を地面へと落とす。数万分の一に圧縮された空間は、ペキッという音を立てて割れた。
その瞬間、ドンッという爆発音とともに周囲を強烈な衝撃波が襲う。圧縮された空気が一気に放出されたのだ。私の全身にも強い風が吹きつける。私は目を瞑り、足を踏ん張って衝撃に耐える。
風はすぐに止んだ。あたりを再び静寂が包み込む。
「さすがだね。今のが世界の魔女の本気かい。いやはや、素晴らしい魔法の冴えだよ」
「ふん。愚か者め、いまさら思い知ったのか。普段使用する空間跳躍など『世界魔法』のごく一端に過ぎんよ。およそこの世界に存在する限り、私の魔法から逃れることは誰であろうともかなわない」
この魔法は私が編み出したものではない。前回のゲームによって私が新たに手中に収めた二十一の魔法の一つ。だが、今では他のどの魔法よりも使いこなしている魔法だ。
すべては悲願の成就のため。私は長い時間をかけてこの魔法を進化させてきたのだ。
どんな魔女が相手でも、世界の魔女は決して遅れを取らない。
私にはそれだけの自信があった。
その自信はしかし、目を開けた瞬間に粉々に打ち砕かれた。
「あー、びっくりした」
「……っ!?」
私は驚愕に声を挙げそうになり、すんでのところで堪えた。あの女が、何事も無かったように抉り取られた地面の上に立っていた。
有り得ない。絶対に有り得ない。
あの状況からどうやって逃げ出したと言うのか!
「あははははははははははははははははは」
私の後ろで愚か者が笑っていた。ひどく癇に障る笑いだ。
「あはははは。なるほどなるほど。最終的にはそこまで至るわけだ。なるほどなるほど。ねえ、世界の魔女。貴女の魔法も実に素晴らしかったけど、彼女はそんな貴女よりずっとすごいことをやってのけたよ。しかも意図せずやっているあたり、本当に恐れ入る」
「とりあえず黙れ。耳障りだ」
愚か者の笑い方がクックックッというくぐもったものに変わる。
その間も私は前の女から目を逸らさない。
どうやって……どうやって今の攻撃から逃れた?
「んじゃ、あたしもいこっかな」
女が傍らの車輪に右手を当てた。
車輪はそれに応えるように、徐々に速度を上げていく。
「こういう使い方もあるんだね、コレ。こないだは気付かなかったよ」
女が車輪から手を離し、その手で握りこぶしを作る。そのまま私の方へ力強く一歩踏み込み、拳を前へと突き出した。
「そりゃっ!」
高速回転する車輪が唸りを上げて私の方へと飛んで来た。
空気との摩擦で燃え上がった車輪は、コンマ二秒ほどで私の目の前に到達する。
問題ない。私はこの世界を自在に渡り歩く世界の魔女。何の構えもなくとも、ほんの少し思うだけで空間を移動できる。
移動先は女の五メートルほど後方。相手からはちょうど死角になる位置。当然、女は右腕を突き出したままの体勢のままだ。
一歩遅れて、ドーンッという爆音が神社に響き渡る。避けた車輪が何かそのあたりの構造物にぶつかったのだろう。
私は再び空間を握りつぶそうと右手を振りかぶった。
ザクッ。
その右手に強い衝撃が走った。
「うぐっ」
目を落とすと、私の右手に白いモノが突き刺さっていた。
これは真っ白な……石の破片?
わけも分からないまま、私は再び移動する。同じところに留まるほど愚かではない。今度は相手の左方向、石畳の横に敷き詰められたジャリの上へと移動する。
後ろには真っ白に塗られた塀。敵への距離はさっきより少しだけ遠い。
今起きたことを確認しようと顔を上げ、私は状況を理解する。
さきほどの爆音で破壊されたのは、石畳の参道の端にある石製の構造物だった。私の記憶によれば確か「トウロウ」という名前だったはずだ。私を狙った車輪は私の代わりにその後ろにあったトウロウを粉々に破壊した。トウロウの破片は周囲に飛び散り、その欠片の一つがたまたま私の右腕に突き刺さったのだ。
たまたま?
いや、そんなはずがない。車輪に巻き込まれて吹き飛んだ小さな破片が私の腕にぶつかる可能性なぞ、ごくごく低いものだ。普通なら考慮するにすら値しない極めて低い可能性に過ぎない。
だが、今私の前にいる相手は運命の魔女。森羅万象の流転を司る魔女の前では、刹那ほどの確率でも確固として存在する。
私は今度は左腕を振るう。この行為自体に意味はない。魔法を発動する際にアクションを取るのはただの合図だ。腕の左右などどうでも良い。
再び目の前に黒い球体が出現した。
先ほどよりもさらに大きく空間を切り取った。私の目の前まで迫るその球体は、境内の面積の軽く十分の一程度は飲み込んでいる。地面を深く抉り取ったせいで電線でも切ってしまったのか、街灯がパチッと消える。神社の中も外も一斉に暗闇が包み込む。
暗闇の中にあっても漆黒の球体はなお黒く見え、その存在をはっきりと誇示していた。
先ほどの攻撃をこの女がどうやって避けたのかはわからない。わからないが、私に出来る最善の策がこれであるのも間違いない。最善の手は常に己の手の中にある。そう思わねば前には進めない。
私は左手をギュッと握りこむと同時に、大きく上へと振り上げた。
先ほどのように時間をかけたりはしない。あっという間に漆黒の球体が圧縮され、ビー球ほどの大きさまで縮んだ。
「これでどうだっ!」
この規模の空間圧縮から逃れることなど、天地が逆転しようとも有り得ない!
私はビー玉に走り寄り、右手に構えたレイピアの先端でその黒い塊を貫いた。凄まじい爆音が真っ暗闇の神社に鳴り響く。莫大な量の空気が圧縮され、そして放たれた。周囲のすべてのモノがその衝撃波に吹き飛ばされる。
局地的な暴風は、神社のすべてを破壊し尽くした。
この街の中心にある由緒正しい神社は、一瞬にして神社は廃墟と化した。トウロウは根っこから引き抜かれ、建物や塀へと衝突する。塀の上の瓦はすべて吹き飛び、神社の外の何かにぶつかって軽い衝突音を立てる。
それなりに歴史のあるだろう木造建築の本殿はありとあらゆる装飾を破壊され、壁から屋根まで塀の外へと何もかもが吹き飛んだ。
境内の中心には深さ十メートルほどもある半球状の大穴が空き、その底には破裂した水道管から溢れる水が溜まっていく。コポコポという水音が場違いに響く。
私はぜえぜえと肩で息をしながら、その深い穴の底を見る。
「あー、もう。びしょ濡れじゃない」
しかし、この女は穴の底で平然と立っていた。
水のシャワーに打たれて全身ずぶ濡れになっているが、どこかに傷を負っている様子は無い。まったくの無傷だ。
そんな馬鹿な!
「ちょっとあんた、どうしてくれんのよ。これじゃあ、制服クリーニングに出さないといけないじゃない。めんどくさいなあ、もう」
女はこっちを恨めしそうに睨みつけながら、まったく場違いなセリフを吐いた。
「……っ!」
私は穴の傍をじりじりと離れ、本殿の前まで後退した。さっきまでここにあった賽銭箱はもう存在しない。暴風に巻かれて吹き飛び、本殿にぶつかって粉砕されてしまった。
「なんなんだ。コイツは一体なんなんだ!」
まったく理解が出来ない。あれだけの衝撃の中、どうやって生き残るのだ。いや、百歩譲って生きているのは良いとしても、傷一つ負わないのは何故だ。私とて自らの体を世界から切り離さなければタダでは済まないはずなのに。
頭がおかしくなりそうだ。
ズキズキとした痛みに、右手に石の破片が刺さっていたことを思い出す。目をやると、白いパーカーの袖は真っ赤に染まっていた。左手で破片を引き抜く。流れる血の勢いが早くなる。ポタポタと地面に垂れる血に、私は戦慄を隠せない。
「貴女が手傷を負うなんて珍しい。いったいいつ以来だろうね。少なくともここ百年くらいは見たことないかな」
「うるさい、黙れ。私にしゃべりかけるな」
久々に感じる痛みという感覚に、私は恐怖を覚える。長らく存在すら忘れていた宝物を部屋の隅から発見した気分だ。昔大切にしていたはずなのに捨ててしまったモノ。それが今になって自分に刃として突き刺さる。
戦いに、そして痛みに高揚感を感じていたのははるか昔のことだ。私はあまりにも長い間、戦いから身を離し過ぎていたようだ。今になって初めて、私はその事実に気付いた。
「よっこいしょっと」
そんな掛け声とともに、穴の端に手が掛かった。女が地獄の淵から上がって来ようとしている。私は思わず一歩、二歩と後ずさる。
「あ」
足元に落ちていたトウロウの破片につまづいた。よろける体をなんとか食い止めようとするが、支えきれずに倒れる。思わず手を突いた。
「痛っ」
地面に突いた左手に、落ちていた釘のようなものが刺さった。たったそれだけの痛みですら、今の私を動揺させるには十分過ぎた。急いで引き抜くと、そこからも鮮血がツツッと流れ出てくる。
世界を跳び越えることに慣れた私は、暗闇で足元に気を遣うことすら忘れていたのだ。
はるか昔、苛烈な魔女のゲームを紙一重で潜り抜けてきた私はどこに行ってしまったのだろう。今ここにいるのは、身の丈に合わぬ野心を抱いて自滅しようとしている一人の愚か者だ。
「あははははあははははは。いいザマだねえ、世界の魔女」
いつの間にか足元に愚か者がいた。暗闇に中でも目立つ金色の目を光らせ、音も立てずに這い寄ってくる。
「昔の貴女ならこんなザマにはなってなかっただろうさ。随分と平和ボケしたものだね」
「黙れ、黙れ、黙れっ!」
私は叫んでいた。あまりにもの痛みに感情を抑え切れなかったのだ。
「なんなんだ、コイツはっ! いったい何をしているんだっ!」
「やれやれ。本当にボケてしまったんだね、貴女は。生き残ることに夢中だった昔の貴女なら、この程度のカラクリはとっくに見抜いていただろうに」
「愚か者、貴様は分かっているのかっ。なら今教えろ。すぐに教えろっ!」
「いいけど、聞いたところでどうこう出来る問題じゃないと思うよ。今の貴女では絶対に対処できないから」
「うるさい、うるさい、うるさいっ。早く教えろっ!」
愚か者は平坦な声で告げた。
「あの子は何もしてないよ。ただ立っていただけだ」
「真面目に答えろ。これは命令だ」
「だから、あの子はただ真っ直ぐ立ってただけだよ。別に何もしちゃいない」
「ふざけるなっ!」
私は黒猫の首を掴もうとして右手を伸ばし、地面に転がっていたトウロウの破片に手をぶつけた。暗くて見えなかったのだ。
鈍い痛み。手を物にぶつけただけ。それはこんなに痛いものだったか?
人間離れした魔女であった私は、人間らしい痛みに違和感を感じる。
「世界には隙間がある」
そんな私を嘲笑うように愚か者は目を細め、言葉を紡いでいく。
「世界はキレイな一枚板じゃない。たくさんの因果の糸が折り重なって出来た絨緞みたいなものだ。どれだけ糸の目を細かくしようとも、その穴を完全に塞ぐことなんて出来やしない。どんなに完璧に覆ったつもりでも、目に見えないほど小さな綻びはありとあらゆるところに存在している」
「そんなことは分かっている。だが、今はそんな概念的な話はしていない。ヤツが何をどうやったところで、絨緞の目の隙間を抜けることなんて出来るわけがないっ!」
「それが出来るんだよ、彼女には」
ふと愚か者は私から視線を逸らし、左の方へと光る目を向けた。釣られて私も左側へと振り向く。
そこにはヤツが、運命の魔女が立っていた。土に爪を立てて登ってきたからだろう、両の手と服は泥だらけになっていた。
その泥だらけの姿を、私はなぜだかとても懐かしく思った。
運命の魔女の隣では、くるくると車輪が回っている。さっきまでは何も思わなかったそれにも、今は強い郷愁を覚える。
なんだろう、この気持ちは。
頭がうまく働かない。何かが頭の中を揺り動かす。
「世界の魔女、貴女が出来ないことをなぜ彼女が出来るかた教えてあげよう」
呆然とする私の隣で、愚か者がゆっくりと語りかけてくる。
「彼女にあって貴女に欠けてるモノ。それは何がなんでも生き残ろうとする強い意志だ。絶対にゲームに勝利しようとする必要な強い意志を、貴女は忘れてしまっていたのさ」
生き残ろうとする強い意志、か。
確かに今の私にはそんなものは欠片もない。人間の頃、もしくはまだ弱々しい魔女の頃には持っていたその意志を、私はいつしか忘れ去ってしまっていた。時の彼方に置き忘れてきてしまった。
「あの子にはそれがある。いや、実は最初は持ってなくてあっさり殺されちゃったんだけどね。それが一度復活してみたらまるで別人だ。何があの子をそこまで変えたのかはわからないけど、とにかく今のあの子はどんなに身を削ってでも生き残ろうとするだろう」
私もそうだった。
食べ物も、着る物も、住む所も無かった頃、私は生き残ることに無我夢中だった。
人間を止めて魔女になったあとも、教会の連中や他の魔女たち相手に生き残ろうと必死になって戦い抜いてきた。その結果、今の私はここにいる。
昔の出来事が次々と頭をよぎる。私は果たして何をしてきたのだろうか。
「……逃げないの?」
いつの間にか女が私の目の前に立っていた。空の頂点から滑り落ちた月を背景に、地面に座り込んだ私を見下ろしてくる。
その傍らにあるのは、回転する車輪。
私が人間として最後に触れたモノ。
魔女として最初に握ったモノ。
消えようとする私の命を繋ぎ止め、そして導いたこの車輪を、どうして私は手放してしまったのだろうか。後悔は遅きに過ぎた。
神を殺すなどという野心を抱いた瞬間から、私の死は決まっていたのかもしれない。
「そう、もういいのね」
女は右手を車輪に当て、その回転を止めた。
そのままぐっと握りこみ、ゆっくりと振りかぶる。
「あたしね。別に自分は死んでもいいやって思ってたの」
「……?」
私は顔を上げ、女の顔を見た。
月明かりだけの暗闇の下、女のその両目の中で涙が光っていた。。
「どうせあたしは生き残れないだろうって、最初からそう思ってた。それならせめて死に場所くらいは選びたいなって勝手に思ってた」
女の目から涙がこぼあれた。
それに釣られて、なぜだか私の目からも涙が溜まってきた。
「春ちゃんがあたし無しでは生きていけないってわかってたのに、あたしはそれでもいいやって思ってた。ヒドいよね、あたし。本当にヒドい」
一人の魔女の独白は続く。
「なのにね、春ちゃんは何を望んだと思う? 春ちゃんは最期まで、あたしのことを考えていてくれた。あたしの笑顔が見たい。ただそれだけを思って、あたしのことをよみがえらせた。魔法の対価として支払われた魂は、二度と輪廻の輪に戻ることはない。それを理解していた上で、それでもあたしのことを思ってくれた」
女はぐいっと右手の袖で涙をぬぐった。頬に泥が付いたのを気にも留めず、運命の魔女は話を続ける。
「だから、あたしは決めたの。たとえ運命が何をもたらしたとしても、絶対に生き残ることを諦めない。そう決めたんだ。絶対に助からない運命なんてものがあったとしても、あたしはそれに逆らってやるって決めたの。他の誰でもない、春ちゃんのために」
春ちゃん。
それが誰のことなのかは私にはまったくわからない。でも、他人を思うことで人間は力を自分の領域を越えた力を発揮できるということは思い出した。
昔、私にもそういうことがあった。
でもそれは……本当に遠い昔の話だ。
「私が死んだとき、貴様は私のすべてを手に入れる。その圧倒的な力を手にして、貴様はいったい何を望む」
私の最後の問いに、女はきっぱりとこう答えた。
「生きること。とりあえずはそれだけよ」
「そうか」
私は短く言葉を返す。
あれだけの規模の魔法を使った私にはもう魔力はほとんど残されていない。空間を跳ぶこともできやしない。ここから逃げることはかなわない。
それなら、こうするまでだ。
私はゆっくりと右手を上げ、運命の魔女を指差す。
「貴様の手にかかって死ぬなぞごめんだ」
私は左手を自らの心臓の上二当て、最後の魔法を発動した。
空に浮かぶのは、わずかに欠けた月。
そういえば、私が魔女になった晩も同じ月が上っていた気がする。
はるか昔、私は灰をかぶった一人のみじめな子供だった。
いつも腹を空かせ、暴力に怯え、ただただ神の救済を願い続ける憐れな子羊だった。
だが、神は私を救いなどしなかった。死の淵に立たされた私を迎えに来たのは、神ではなく悪魔だった。私は悪魔と契約を結び、神を呪った。
あの瞬間から幾百年の時を経た。
後悔はしていない。ただ、ほんのちょっとだけ悲しいだけだ。
「貴様の行く末、冥府から拝ませてもらおうぞ、『運命の魔女』よ」
運命は残酷だ。だからこそ面白い。
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