94手目 引き抜き
夕暮れどきの、都ノ大学――すべての講義が終わって、教室は閑散としていた。
すっかり緑になった桜並木を、私は2階の窓からながめていた。
「裏見」
「……」
「おーい、裏見ぃ」
「……」
「裏見香子さーん」
「……」
ん? 名前を呼ばれた?
窓際からふりかえると、松平が立っていた。
「裏見、どうしたんだ、ボーッとして?」
私は、なんでもないと答えた。
ところが、松平はこれをかえって訝しみ、
「O阪でセクハラされたんじゃないだろうな?」
と、心配そうな顔でたずねた。
「さすがに、それはないわよ」
「さすがに、っていうのが微妙に気になるが……なんか心配事か?」
相談に乗るぞ、と松平は言った。
私は、すこしばかり逡巡した――松平なら信用できるわね。
「だれにも口外しないでちょうだい」
「俺がおしゃべりじゃないのは、高校のときから知ってるだろ」
「大谷さんと三宅先輩にも言っちゃダメよ」
松平の顔が引き締まった。そうとうシークレットなことだと察したらしい。
私は周囲にひとがいないことを確認してから、話を始めた。
すべてを聴き終えた松平は、要領を得ないというようすだった。
「申命館に、風切先輩と仲の悪い1年生がいる?」
んー、うまく伝わってない。私は訂正を入れる。
「仲が悪いのは事実なんだけど、過去に何かあったと思うの」
「どうして分かるんだ?」
私は、ここまで伏せていたキーワードを、おずおずと口にした。
「『負け犬』だって……そう言ってたのよ」
松平も、これには眉をひそめた。
「風切先輩のことを、か?」
私はうなずきかえした。松平はしばらく黙ってから、
「先輩が東京でそう自嘲したのを、どこかで聞きつけたんだろう」
と、あてずっぽうに推測した。私はこれに納得しなかった。
「それはないわ。宗像くんは、風切先輩の復帰を知らなかったもの」
風切先輩が自分のことを【負け犬】だと評したのは、4月の会合のときだ。大学将棋に復帰する文脈だった。負け犬というキーワードだけ伝わって、復帰した情報のほうが伝わらなかったとは考えにくい。普通は、後者のほうが噂になりやすいからだ。
という推理を披露したら、松平もさすがに折れた。
「だな……ってことは、復帰が寝耳に水だったわけか。つまり……」
「つまり、【負け犬】っていう台詞は、4月の会合が初めてじゃないってこと」
「それは飛躍してないか? ただの日本語だ。ニックネームならともかく、その宗像ってやつと風切先輩のあいだで、たまたま台詞が被ったのは、ありえるだろ?」
私は答えようがなかった。すべては、あのときの雰囲気なのだ。
「しかし、そっちも大変なことになってるとは思わなかったな」
まあ、大変なのか大変じゃないのかの判断が、そもそもつかないわけで……ん?
「そっちも、ってなに? こっちでなにかあったの?」
松平は、一段と声をひそめた。
「じつはな……風切先輩がストーカーされてるらしい」
えぇ? ストーカー?
「も、もしかして宗像くん……」
「いや、フレッシュ戦よりも前からだ。大会が終わったあとだって言ってた」
じゃあ、宗像くんは関係ないっぽい。
かと言って、問題が解決したことにもならない。
「だれに? どこで? 目的は?」
「全然分からん。風切先輩は、そのストーカーを一度も見てないらしい」
その発言を受けて、私の顔がくもる。松平は、あわてて弁解した。
「いや、もちろん俺も勘違いじゃないかと思ったんだが、本人はいたって……」
「裏見、松平」
うわぁ、びっくりした。教室の入り口をふりかえる。
スライド式のドアにもたれかかって、風切先輩がこちらを見ていた。
「俺の名前が聞こえたと思ったら、おまえらだったか」
み、耳が良すぎ。私は、なんと返したものか迷った。
とっさに松平がフォローを入れる。
「風切先輩、新入部員はどうやって集めるつもりなのかな、って話してました」
「おいおい、俺ひとりに任せる気なのか……」
「も、もちろん手伝いますよ」
風切先輩はドアがもどらないように肩でおさえて、腕組みをした。
「手伝う手伝わない以前に、全員でやらないとムリだぞ」
松平は、頭を掻いた。あまりうまくごまかせていない。
「そ、そうですね……ところで、なんで風切先輩がここに?」
たしかに、妥当な疑問。先輩が所属してる数学科は別棟にある。
「『数理経済学特講』を取ってるんだよ。他学部履修ってやつだ」
えぇ……すごい。単位が鬼で、だれも取ってないっていう噂の講義だ。
「おまえたちこそ、なにしてるんだ? 松平は工学部だろ?」
「え、あの……その……」
しどろもどろになる松平。風切先輩は、ハッとなった。
「わ、わりぃ、お楽しみの最中だったか」
「そ、そうですッ!」
どさくさにまぎれて勘違いさせるなぁ! 蹴りィ!
「いたたた……ストレートに入った……」
「おまえらはどういう仲なんだ……先に部室へ行くぞ」
「私も行きますッ!」
まったく、油断も隙もない。私たちは3人でサークル棟へ移動した。
ドアを開けると、三宅先輩と大谷さんが将棋を指していた。
それを観戦する穂積さんという構図。
三宅先輩は1手指して、チェスクロを押しながら、
「裏見、O阪はどうだった?」
と、フレッシュ戦の結果を訊いてきた。
「3−2で東日本の勝ちです」
私自身も勝ったことを伝えた。みんな喜んでくれた。
「記事が楽しみだな。来月号の『将棋ワールド』は保存用も買っとくぞ」
と三宅先輩。いえいえ、照れます。
「ところで、風切、例のやつは解決したのか?」
三宅先輩の質問に、風切先輩は大きくタメ息をついた。
テーブルにひじを置いて、目をつむる。
「あれは俺の個人的問題だ。とりあえず、部員集めのミーティングをしよう」
風切先輩は、対局が終わってからでいいぞ、と言った。けど、三宅先輩たちは「序盤だから」という理由でチェスクロをストップさせた。それぞれ椅子に腰かける。
「司会は?」
「三宅でいい。部長だからな」
「分かった」
三宅先輩はコホンと咳払いをした。
「前回の団体戦、お疲れさま。無事昇級ということで、大変喜ばしいことだと思う」
急に堅苦しい挨拶。これは、しゃべることが決まってないパターンですね、はい。
「えー、で、これから部員を追加で集めたいわけだが……いいアイデアは、あるか?」
私たちは、お互いに顔を見合わせた。
「三宅、おまえノープランなのか?」
風切先輩のつっこみ。
「ノープランってわけじゃない。ただ、いろいろ動いてみたが、条件に合うやつが見つからないんだ」
三宅先輩は、入部の条件を確認した。
ひとつ、1年生か2年生であること、ひとつ、将棋をマジメにやること。
かなり緩めている。棋力の要件はない。
「どうも気軽に入ったり辞めたり休んだりできないのがイヤらしい」
三宅先輩は、これまで声をかけてきた人の反応から推測した、と付け加えた。
風切先輩は椅子にもたれかかって、
「2番目の条件はゆずれないからな。王座戦を目指さないなら俺が辞める」
と言い切った。
「待て待て、外すとは言ってないだろ」
みんな、落ち着いて。
「まだ時間はあります。学年暦だと8月初旬から9月半ばまで休みですよね?」
私の発言に、三宅先輩はじっとりとしたまなざしを向けてきた。
なんですか。セクハラですか。
「1年生だから分からないと思うが……夏休みの大学に人はいないぞ」
風切先輩も、となりでうんうんとうなずいていた。
「え……だれも?」
「テストが終わったら来なくなるやつが大半だ。逆に、来るやつは資格試験を目指しているか部活だから、そういう学生に声をかけるのはムリがある」
うわッ、たしか団体戦が終わったあとの打ち上げで、そういう話をしてた気がする。
「ってことは、もう時間がないじゃないですか。ひとりも新規がいないんですよ?」
「はーい、意見がありまーす」
おっと、ここで穂積さんが挙手。三宅先輩も意外に思ったらしい。
「なんだ? いいアイデアでもあるのか?」
「ほかの部から取って来ませんか?」
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…………………
………………
「穂積、本気で言ってるのか?」
三宅先輩は、怪訝そうなまなざしを向けた。
「本気ですよ。大学生なんて、サークル活動しないって決めてる子と、最初からヤル気のある子にだいたい二分されるじゃないですか。全国大会までついていくぜ、みたいなひとは、もうどっかのサークルに入ってると思うんですけど」
三宅先輩は口もとに手をあてて、じっと窓の外を見た。
「……その手は考えてなかったが、一理あるな」
でしょ、という感じで、穂積さんは椅子のうえにあぐらを組んだ。
「ずばり、他のサークルに入ったけど違和感をおぼえてる子、これですよ」
ふぅむ、穂積さん、なかなかやるわね。
「しかし、引き抜きはむずかしいうえに、だれが将棋を指せるか分からないのがなぁ」
「大丈夫です、部長。目星もつけておきました。1年生です」
「マジか?」
「ほんとですッ! 今から勧誘に行きましょうッ!」
穂積さん、大活躍じゃないですか。
私たちはそろって、その学生に会いに向かった。
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「ここ、当たり当たりで打つ意味あった?」
「2子取れるからね。こっちに整形して切りを残す手も考えたよ」
こ、これは……囲碁ッ!?