92手目 迷惑防止条例
「やっぱ、こういう大舞台は攻めだよなぁ」
宗像くんは、まかないのお茶を飲みほした。6筋に手をかける。
パシリ
攻めた。藤堂さんの予想どおり。
「これでいけるんですか? 駒が足りてなくないです?」
私の質問に、返事はすぐに返ってきた。
「採算はある。6五同歩に8六歩〜9五歩か8六歩〜7五歩だ」
「9五歩? ……8六歩、同歩、9五歩、同歩、同香、8五歩の継ぎ歩ですか? それは、9二香成、8三飛、8五歩、同桂、8七歩、7七桂成、同桂で収まってるような……それとも、9五歩、同歩、7五歩、同歩、8六歩、同歩、9五香、同香、8五歩、9二香成、8三飛、8五歩、同桂、8七歩、7七桂成で、同桂は7六歩があるから同金を強要するとか?」
「そこまでむずかしく考えなくていい。9五歩、同歩、8六飛だ」
【参考図】
飛車捨て? ……あ、そっか、同飛に6六角があるのか。
4八の金が浮いてるんだ。
「俺なら、この順は選ばんがな。9五歩のところで7五歩だ。以下、同歩と取るか、それとも6七銀、8六飛、同銀、6六角を甘受するかは先手の選択肢になる。同じように飛車を捨てているが、俺はこっちのほうがいいと思う」
ふむふむ、どちらにせよ8六飛車の捨てはあるのか。
「馬ができて後手がいいんですか?」
「悪くない。4八角成が桂当たりだから、2四歩の反撃は間に合わんだろう」
宗像くんが一本取ったかたちかもしれない。
けど、氷室くん本人はいたって平静だった。
「なるほどねぇ、あいかわらず恭二は鋭い」
「おまえがトロいのさ」
「だけど、将棋は交互にしかさせないからね。6五同歩」
8六歩、同歩、9五歩。
「9五歩より7五歩のほうが、わずかにいいと思うよ」
氷室くんの形勢判断に、宗像くんはプイッとそっぽを向いた。
「どっちを選ぶのかは俺の勝手だ」
「そうだね。いずれにせよ、8六飛は許容しない」
パシリ
むりやり止めた。
「氷室らしい手だ。攻防に利いている」
藤堂さんは、氷室くんのこともよく知っているらしい。実際のところ、氷室くんのガチンコ対局って、観たことないのよね。風切先輩のときは不戦勝だったし、男子の個人戦は女子とかぶっていたから観ていない。
「時間を使わせるため、ですか?」
「それもあるが、宗像の研究を警戒したのかもしれん」
「ふたりは付き合いが長いとか?」
藤堂さんは、さあ、とだけ答えた。
「この会話のようすなら、そう判断するしかないと思うが」
それは、そうなんだけど――なんか変なのよね。どこでつながりがあったのかしら。
将棋がきっかけの可能性は、一番高い。でも、そこで気になるのが、宗像くんの将棋界デビューはつい最近だってことだ。高校強豪、中学強豪だったら、調べればすぐに分かるし、藤堂さんもそんな見落としはしないだろう。
「京介は消極的だなぁ。ギャラリーもあきれてる」
「将棋にギャラリーは関係ないよ」
「金のとれない将棋はダメだぜ。5四歩」
攻めを継続した。藤堂さんは眉間にしわを寄せる。
「これはそうとう怖いぞ。攻めを呼び込んでいる」
「4五歩か2四歩と反撃したいですね」
「2四歩は同歩、2三歩、同金、2五歩、5五歩か。4五歩は7五歩と反撃するスキがありそうだ。しかし、そこで2四歩を絡められるとむずかしくなる」
「むずかしくなる、というのは?」
「パターンが多い。例えば、2三歩、同金は入れなくてもいいかもしれないし、2五歩に8五歩と置かれるか7五歩と突き返されたとき、対応が難解だ。一例としてあげるなら、現局面から4五歩、8五歩あるいは7五歩で……後者のほうがあるか。7五歩、2四歩、同歩、2三歩、同金、2五歩、7六歩」
【参考図】
「これはどちらがいいとも言えないな」
「2五歩がそこまで痛くない感じですね……後手のほうを持ちたいような……」
「氷室のやつ、ひねり過ぎたな」
どうだろう。藤堂さんは8六飛をやたらと推すけど、これも成立するとは限らない。例えば、4五歩に7五歩の即突きなら、同角と取ってしまえばいいし、8五歩〜8六歩と伸ばしてきたら、8四歩と遮断する手もある。なんか身内びいきな気がするのよね。それくらいの大一番ということなのかもしれない。
パシリ
そっちかぁ……4五歩じゃなくて2筋をストレートに行った。
宗像くんは背筋を伸ばし、おおげさに驚いて見せた。
「へぇ、それが東京流ってやつ?」
「ははは、将棋に関西風も関東風もないよ」
「じゃ、同歩」
2三歩、同金、2五歩、8五歩、2四歩、同金、4五歩、8六歩、8四歩。
私が考えていた順になった。
「端を詰める。9六歩」
うわッ、むずかしい局面が続く。
ノータイムの応酬のすえ、ここで氷室くんは手を止めた。
「恭二としては端が気になる、と……9七歩成は許容していい感じかな」
「攻めるってか?」
宗像くんは後頭部に手をまわして、椅子をうしろに傾けた。
索間さんとぶつかりそうになる。
「さあ、京介、どうする?」
「どうするもなにも、攻めるしかないよね。歩切れなんだし」
氷室くんの言う通りだ。先手は端を受ける歩がない。
4四歩に同銀と取ってくれればいいけど……ん? 取るしかなさそう?
「藤堂さん、これって4四歩で後手崩壊してませんか?」
「俺もその筋を読んでるが……すぐには崩れないと思うな」
私は脳内で将棋盤を動かした。まず4四歩、同銀直、4五歩と抑える。これに5三銀は、5四歩と突き出すのが激痛。というのも、5四同銀は2四飛に同銀と取れないからだ。
【参考図】
王手放置になる。だから、4五歩に5五銀と出たい――ただ、これも危ない。5五同銀と素直に取って、同歩、同角が似たような局面になるからだ。
「やっぱり先手好調じゃないですか?」
「具体的には?」
私は、さっき読んだ順を答えた。
「それは5五角に8四飛と出たい」
「え? 2四飛で?」
「2三歩、2七飛、8七銀、7九玉、7八銀成、同玉、8七歩成がある」
【参考図】
「これは先手が良くないだろう」
あれ……たしかに。2四飛が思ったよりも痛くない。
しかも、2九飛と深く引いたら、7八銀成、同玉、5六角が王手飛車になってしまう。
「俺としては、どこかで8六銀と取っておきたい」
「安全策ですね。氷室くんは、そうするかも」
パシリ
おっとっと、指した。
……なるほど、これもひとつの解決だ。銀挟みになっている。
「ふぅむ、レベルが高くて読みきれんのぉ」
いきなり右サイドから声が――土御門先輩だった。
この登場には、藤堂さんが眉をひそめた。
「ふん、あいかわらず変わったかっこうをしてるな。そろそろ文明開化しろ」
「なぁにが文明開化じゃ。女子大生と見ればホイホイ声をかけよってからに」
おまいう。
「土御門は、形勢が互角だと思っているのか?」
「ここから5五歩、4五歩、5六歩、4四歩の取り合いが本線じゃ。先手としては、6六の角を動かす必要はない。飛車に走られてしまうからの」
ん……たしかに、藤堂さんにつられて逃げる順を読んだけど、今の順が自然だ。そのために8四歩で飛車先を止めているようなものだから。となると、全体的に読み直さないといけないわね。
ところが、藤堂さんは納得しなかった。
「それならそれで好都合だ。8七銀と放り込めばいい」
「2八歩、同飛、8七銀、同金、同歩成、同玉、6九角は、7八銀とがっちり受けて、9七金、同香、同歩成、同桂、同香成、同玉のときに詰まん。7八角成で詰めろをかけるくらいしかないが、ここで後手玉が詰めば勝ちじゃ」
【参考図】
「一直線か。西日本勝利への道だ」
えぇ、その言い回しは、どうなの。かっこ悪い。
土御門先輩は、扇子をひらいてパタパタやった。反論、反論。
「ならば外野も賭けるぞい。氷室が勝ったら、藤堂、そのメガネを割れ」
「し、新調したばかりなんだが……」
「んー? 西日本が勝つんじゃろう? 確信があるんじゃろう?」
土御門先輩、激しい追い込み。
「くッ……分かった。割ってやろう」
これには私がびっくりして、
「そ、そんなに差があるんですか?」
とたずねてしまった。藤堂さんは、例の皮肉めいた笑みを浮かべて、
「恭二が指す以上、相手がプロ棋士でもない限り勝ち確のギャンブルだ」
と答えた。信頼しすぎィ!
「土御門の罰ゲームはなんだ? 俺だけペナルティということはあるまい?」
「もちろんじゃ。わしは香子ちゃんに踏んでもらうぞい」
は?×100
「しかも、ハイヒールでごふぅッ!?」
速水先輩の右ストレートが決まった。
「『公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例』、通称『東京都迷惑防止条例』第5条第1項、何人も、正当な理由なく、人を著しく羞恥させ、又は人に不安を覚えさせるような行為であって、次に掲げるものをしてはならない。人に対し、公共の場所又は公共の乗物において、卑わいな言動をすること。土御門公人、有罪」
「ひとを殴るのも犯罪じゃぞ……」
「このバカはほっといて、藤堂、私と賭けをしましょう」
「ほぉ……なにを賭ける?」
「私が負けたら、罰ゲームで日本酒を一升あける、ってのはどう?」
……………………
……………………
…………………
………………あのさぁ。藤堂さんも、眉毛をぴくぴく。
「おまえは酒が飲みたいだけだろ」
「バレた?」
ダメだ、東日本の2年生。西日本の大学に編入しようかしら。
あきれる私のよこで、速水先輩は腕組みをした。
「とにかく、氷室くんを舐めてもらっちゃ困るわね」
「それはこっちのセリフだ。さっきの土御門の順が詰むかどうか調べるか?」
火花が散る――と同時に、次の一手が指された。