89手目 背水の陣
うぐぅ……食事が喉をとおらない。悶絶する。
「なに? こんどは香子がダイエットしてるの?」
火村さんは、トマトジュースをチューチューしながら、そうたずねた。
ちがうがな。なんでそういう解釈になるかな。
「ごめんね。男性陣が不甲斐なくて」
矢追くんは、もうしわけなさそうな顔をした。
ここはデイナビの近くにあるファミレス。
4回戦を前にして、腹ごしらえというわけだ。
私のまえには、ラザニアが置かれていた。けど、スプーンは進んでいない。
「こりゃこりゃ、だれが戦犯などと言うことはないぞ。安心せい」
土御門先輩は、パタパタと扇子で顔をあおいだ。
あなたは指してないから気楽でしょ。速水先輩はなにも言わないし、どうも当事者と保護者のあいだで温度差があるようだ。まあ、火村さんみたいに当事者で気にしてないのもいるけど。
「山城くんって、どういう棋風なんですか?」
私は思い切ってたずねてみた。土御門先輩は、すこしばかり口をつぐんだ。
「背水の陣じゃから、さすがに教えんといかんな……居飛車党で、矢倉を得意にするタイプじゃ。見た目のとおり、正統派で定跡を重んじておる」
「矢倉党ってわけですね? 受けたほうがいいと思いますか?」
土御門先輩は、パチリと扇子を閉じた。
「これは1年生の皆に言っておきたいのじゃが、大学での先輩後輩関係は、高校までとは違う。わしらは関東将棋連合のスタッフであって、おぬしらの監督ではない。どうするかは自分たちで考えてみい」
そんな無責任な。個人競技になってるじゃないですか。
いや、将棋は個人競技だけどさ。団体戦ですよ、団体戦。
私が反論しかけたところで、スマホが振動した。
ちらりと見ると、松平からだった。
「ちょっと失礼します」
私は席を立って、迷惑にならないようにファミレスを出た。
駐車場のある裏手に回った。
「もしもし」
《もしもし、裏見か?》
「どうしたの? 今、O阪なんだけど?」
《さすがに知ってるぞ。どうなってるか気になってな》
個人的電話――ま、いっか。
「お昼休憩よ」
私はここまでの経過を説明した。
《1−2か……やっぱ向こうも強いんだな》
「勝敗が決まるかもしれないところで私の番だから、プレッシャー」
《山城の名前は、聞いたことがある。学生将棋新聞に載ってた。研究家だから、矢倉は受けないほうがいいと思う。最近は進化が早すぎて付け焼き刃じゃ危ない》
「なに? 私の矢倉が付け焼き刃ってこと?」
松平は、いやそういう意味では、と謝った。私はクスリとした。
「アドバイス、ありがと。ちょっと考えてみる」
《ところで、西日本の大将は誰なんだ? こっちは氷室なんだろ?》
えーと……誰だっけ? 私はよくよく思い出そうとした。
「そうだ、宗像恭二よ。名前からすると男子だけど、まだ顔も見せてないの」
《ムナカタ・キョウジ? ……聞いたことないな》
松平の声が遠ざかった。うしろにいる誰かに話しかけているようだ。
《三宅先輩も知らないって言ってる》
「じゃあ、大学デビュー組?」
《大学から西日本代表って無理が……でもないか。小池重明は大学デビューだな》
まあ、だれでもいいといえば、だれでもいい。こう言っちゃ悪いけど、宗像くんの相手は氷室くん。彼ならどんな相手でも動揺しないでしょ、多分。
「とりあえず、目の前の対局に集中するわ」
《いい連絡を待ってるぜ》
○
。
.
「対局者のおふたりは、席についてください」
東日本陣営から私が、西日本陣営から山城くんがまえに出た。
椅子を引いて着席。盤駒は並べなおしてあった。
「食後でたいへんかもしれませんが、がんばってください」
索間さんはチェスクロをセットして、テーブルのうえにおいた。
ちらりと視線をあげる。山城くんのうしろには藤堂さんたち。
相手陣営が見えるのは緊張する――けど、条件は山城くんも一緒だ。
私のうしろには、関東の仲間がついてくれている。
「振り駒をお願いします」
私たちはおたがいにゆずりあって、私が振ることになった。
「歩が3枚。私の先手です」
「チェスクロの位置は変えなくてもいいですか?」
私はうなずき返した。索間さんは、コホンと咳払いする。
「それでは佳境に入ってまいりました……第4局、スタート!」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
私たちは一礼して、対局が始まった。
「2六歩」
この手に、室内の空気が揺らいだ。
山城くんは、すこしばかり身じろいでから、
「矢倉は受けない、ということですか」
と丁寧語でかえした。そして、8四歩と突き返した。
2五歩、8五歩、7八金、3二金、3八銀、7二銀。
「3六歩」
「8六歩」
いきなり激しい展開になった。
8六同歩、同飛、7六歩、8二飛(7六同飛は8二歩で桂損になる)。
「指し慣れてる感あり、か……」
山城くんは警戒し始めた。
矢倉を避けるために不得手な戦法を使ってる、とは思ってくれないか。
できれば、勘違いして欲しかったんだけど。
かと言って、相掛かりの序盤をわざと不器用に指すメリットはない。
「8七歩」
ここはいったん押さえる。
山城くんは、ミネラルウォーターのペットボトルを鞄から取りだした。
ひと口飲んで、すぐに次の手を指した。
「3四歩」
角道が開いた。慎重に。
3七銀、6四歩、4六銀、6三銀。
さて、こちらが先攻できるかたちになったわけですが……攻めない手はないわね。
相掛かりで後手に主導権を渡すメリットはない。
「3五歩」
仕掛ける――この手に、山城くんは小考した。
「……同歩」
同銀、8八角成、同銀、2二銀。
後手は万全に構えてきた。2四歩なら同歩、同銀、5五角の打ち返しを狙っている。
私としても、これは予想済みだった。対策は用意してある。一回5八玉と上がって、5四銀なら2四歩、同歩、同飛と指したい。このとき、王様が5九のままだと、1五角の王手飛車がある。相居飛車には、よくある筋だ。
ちなみに、2四歩、同歩、同銀は、5五角、4六角、同角、同歩に3六角と王手で打ち直しになるのが激痛。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
5九玉は4七角成、4八玉は6九角成がある。これを嫌って4七角は、同角成、同玉に6九角で、こんどこそどうしようもない。5八飛以下、飛車角交換をしたあとで2八飛と打たれるくらいでおしまいだ。
「5八玉」
私は王様をあがった。索間さんが出してくれた緑茶に口をつける。
そのあいだも、山城くんの出方をうかがう。真面目に考え込んでいた。
「5四銀」
ふむふむ、本命で来ましたか。
「2四歩」
「同歩」
「同飛」
山城くんは持ち駒の歩を手にした。
2三歩――かと思いきや、もうひとつとなりに打たれた。
ほほぉ、そう来ましたか。
同銀は5五角で、4六角、同角、同歩、3六角の筋に入ってしまう。
かと言って、同飛は2七角(2八角は4六角で受かる)でめんどくさそう。
「……4六銀」
安全をとって、私は銀を引いた。
山城くんは、4四歩と盛り上がってくる。
こちらとしても、指す手がむずかしい。いなされてしまった感じだ。
「3八金」
陣形を整備しましょう。
2三銀、2六飛、3三桂(?)、7五歩、2五歩。
あぁ……押さえ込みなわけか……。
この方針は、あんまり読んでなかった。どうりで7筋を突いてこないわけだ。
7五歩で位を取っちゃったけど……うーん……悩ましい。2五歩は、単に押さえ込みを狙ってるだけじゃなくて、3七銀〜7六飛のスライドを牽制した手だ。2八飛と引っ込むと、先手はどうしようもなくなってしまう。
……………………
……………………
…………………
………………
3六飛で粘りますか。
「3六飛」
私がチェスクロを押すと同時に、次の手が指された。
……積極的押さえ込み?
3七銀と引けなくなった。とはいえ、後手もかなり突っ張っている。
そうとう怖いはずだ。いきなり食いちぎる順だってあるんだから。
実際、4五銀、同銀、8六飛に同飛って取れないでしょ。飛車の打ち場所は、後手陣のほうが圧倒的に多い。8六飛に8五歩と受けるつもり? それはそれで一歩使わせてるから、悪くない。7六飛と寄って……ん? 5四角がある?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ここから3六銀〜2七銀成とか?
いや、さすがに無理が……でも、うまい反撃が思いつかない。
私はお茶を飲んで、しばらく考えた。3六飛の寄りで悪くしたとは思わないんだけど、どうもしっくりこない。8六飛〜7六飛がダメなら、直接7六飛もダメだ。結局5四角と打たれてしまう。6六飛と中途半端にスライドしても効果がないし、9六飛や1六飛は端を突かれる。っていうか、そこに飛車を移動させる意味が分からない。
なにか見落としている感じもした。好手のほうを見落としているのか、悪手のほうを見落としているのかは分からない。
「んー」
私は無意識のうちに息を止めていた。大きく深呼吸をする。
……………………
……………………
…………………
………………
相手の伸びすぎを狙いますか。
「7七銀」
無理はしない。4五桂はそのうち負担になるはずだ。
「そうきたか……」
山城くん、丁寧語なのは最初のほうだけなのね。
別にいいんだけど。
「4三金」
また盛り上がってきた。さすがに危ないんじゃないかなぁ。
6八銀、2四銀――あ、これ、飛車を殺しに来てるんだ。やっと分かった。
私の手が止まる。のこり時間は、私が20分、山城くんが19分。
時間的には差がついてないのよね。どうしましょ。