88手目 成らせた判断
磯前さんは銀をあがった。
チェスクロが押され、室内はふたたび静まり返る。
6五歩か、それとも、6五桂か。
大河内くんはメガネをはずして、目薬をさした。
そして、ひとこと。
「2五の桂馬が釣り上げられそうだ」
「お、釣りするのか?」
「昔、父さんに教えてもらった」
磯前さんは破顔一笑。
「釣りはいいよなぁ。潮風に吹かれて」
「地元のN野に海はないけどね。6五桂」
桂跳ねだッ! 磯前さんも、マジメな表情にもどった。
「そっちか……見かけによらず過激だな」
「ひとを見かけで判断するのは危険だよ」
それは、そう。
「おっと、悪い悪い。これは同桂だ」
同歩、4五銀、2六飛。
「こいつが痛いんじゃないか? 2四歩ッ!」
土御門先輩は、パチリと扇子を鳴らした。
「これはよい手じゃ。3四銀、6五桂、同桂、同歩、2五銀ならば9五角や8六角が有効じゃが、このかたちでは先手もいそがしい」
「8六角に同飛、同歩、2五歩、同飛、1四角の王手飛車がある……ってことですか?」
「うむうむ、裏見も早見えじゃのぉ」
褒められた。けど、大河内くんを応援してる身としては、喜べない。
さすがにこの状況で相手陣営に肩入れするのはアウトだ。
パシリ
ん? 大河内くんの反応が早い?
これは……意味深長な手だ。同歩なら4三歩と叩いて、同金は3五桂。金の逃げ場所がむずかしい。角ではなく桂馬を活かす手に、私は思わず感心した。
「空中に拠点ができそうですね」
「じゃが、通るかの……4四同歩、4三歩、同金、3五桂と打って、3四金と出られたときに寄りまで持っていけるかどうか……」
「細いと言えば細いですけど……完切れってことはなくないですか?」
「うむ。例えば、3四金と出られた瞬間に4三歩と打って、5二玉、6四歩はある」
【参考図】
「これを同銀は3一角と打てる」
「3二金、6四角成は寄りですけど、銀を逃げられたときは微妙ですね」
「2二角成、2五歩以下、どれくらい後手が速いかじゃのぉ」
私は盤面を確認した。磯前さんは腕組みをして、首をかしげている。
対局者にとっても難解なようだ。
大河内くんも、完璧に自信があるようにはみえなかった。
土御門先輩は扇子を2、3度ひねって、自分の肩をポンとたたく。
「ふぅむ……さきほどの順には、ならん気がしてきたぞい」
「4四歩を手抜きですか?」
「3五角があるのではないか?」
【参考図】
ん……これは痛い。
「歩を抜かれちゃいますね」
「いやいや、先に4三歩成とすればいいだけの話じゃ。もっとも、3五の地点に角がおるから、3五桂とは打てん。追撃の手段が必要になる」
「追撃するまえに飛車を逃げないといけませんよ。2九飛か6六飛で……あ、6六飛は4四角がありますね。2九飛です」
「……2八じゃな。2九飛は銀を打たれたとき挟撃になる」
「そこで後手がなにをしてくるか……ですか」
土御門先輩は、反対側の肩をたたいた。
「ヌルい手は、7三角と反撃される。先手は香車があれば攻めが広がるわい」
私たちは局面を見守ることにした。
後手の残り時間が10分を切ったところで、磯前さんはようやく着手した。
「3五角」
大河内くんはノータイムで4三歩成。
以下、同金、2八飛と進む。
「これが一番キツいと思うんだがなぁ」
磯前さんは桂馬を空打ちして、6六に据えた。
「これが釣りびとの答えか……厳しい」
土御門先輩は、口もとで扇子をパタパタやった。
「どう逃げます?」
「7七じゃろう。8八は5六銀と出られたときにプレッシャーがかかる。あるいは、いきなり6七歩と垂らしてもよい……しかし、7七金でも6七歩かもしれん」
「6七歩単体だと寄りませんよね?」
「先手の受け方次第じゃな」
こんどは大河内くんが長考。
ここで時間を使うために、早指しをしていたようだ。
6六桂が好手だと、この作戦は裏目に出ちゃうけど――
「7七金」
大河内くんは金を立った。
「6七歩」
「4六歩」
この手に、磯前さんは帽子をかたむけた。
「ほほーん、同角は4四歩、同金、6二角ってか?」
「ノーコメントで」
「同銀で王様が危なくなるぜ。同銀」
6六金(!)、4七歩、3九銀、8七飛成。
ひ、飛車を成らせた。
「7八銀」
「6七歩が邪魔か……いったん引く。8一龍」
「6七金」
これは……どうなの。先手が苦しいと思う。
「まとめきれますか、これ?」
「大河内としては、まとめるつもりなのじゃろうが、見当がつかん」
そう言っているうちにも、磯前さんは6六歩と打った。
7七金、3七銀不成、5八飛、2五歩。
「やっと取れたな。釣果1。これで攻めの拠点はなくなったぜ」
「河岸を変えるよ。3六歩」
この手に、磯前さんは右目を細めた。
「その手があったか……4六角」
大河内くんは3五桂と打ちなおした。
「いちおう食らいついてますね」
私は安堵のタメ息を漏らした。
だけど、土御門先輩の表情は変わらなかった。
「後手は龍が強い。ひとまず8筋をどうにかせんといかん」
たしかに。っていうか、現状では角筋が利いてて7九玉と寄れない。
磯前さんは、攻めるか守るか迷っている。敵陣と自陣を交互にみくらべていた。
彼女のほうは、あんまり時間がない。
「……4四金。むりはしない」
4三歩、5二玉。
磯前さんは、むりやり先手陣に迫るようなことをしなかった。
「8六歩」
大河内くんも安全策をとる。龍の筋を消した。
あとは角の筋をなんとかしないと。
「さすがになにかあるだろ、これ……」
磯前さん、最後の長考。
1分、2分と過ぎ、いよいよ秒読みになった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
自分から角筋を止めた。
「その手は……」
大河内くんはひたいに手の甲をあてて、5七の地点をみつめた。
先手は、まだ5分ある。
ノータイムで7九玉としては危ない。罠にみえるからだ。
「普通に考えたら、7九玉に4九桂成の狙いですよね?」
私は小声で土御門先輩にたずねた。
「どうも直接的過ぎる……7九玉、4九桂成、6八金、3九成桂は、銀得ではあるがなんとも言えんぞ。8八に入った王様は広いし、成桂がそっぽじゃ」
大河内くんは、かなり迷ったあげく、7九玉と寄った。
「8七歩ッ!」
よ、4九桂成としなかった。
でも、これはいい手だ。放置はこんどこそ4九桂成でどうにもならない。
銀を入手後に8八銀があるから。
「同金」
「へへ、そうこなくっちゃな。大物はあっさり釣れちゃ困る。4八歩成」
磯前さんは、開き王手の順を放棄した。別ルートで迫っていく。
大河内くんはこれに最後の3分を投入して、同金と取った。
同銀成、同銀、6七金。
「6四桂ッ!」
攻め合いになった。後手は2三の地点が封鎖されてるから、広いようで狭い。
「6二玉」
「4二……ちがう。8八玉」
大河内くんは王様を安全圏に逃した。
5八金、5三歩、6九桂成、5二歩成、同銀、同桂成、同玉。
内心でエールを送るくらいしかできない。将棋観戦の宿命。
6四角が入れば……と言いたいけど、6四角は詰めろになってるわけじゃないし、角交換後の6四同歩が詰めろになってるわけでもない。金がどこかで1枚必要だ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5七歩」
大河内くんは角筋を止めた。
磯前さんは両手を組んで、指の骨を鳴らした。
「筋に入ったな。6八成桂」
ぐッ……単純だけど痛烈。大河内くんの顔色も悪い。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
8九銀――8九銀打じゃない。なんで? 駒を節約した?
「土御門先輩、この手は?」
「駒の節約じゃろ」
それは見れば分かる。駒を節約してどうするのか、という話だ。
銀銀角じゃ、どのみち寄らない。
磯前さんもトラップだと思ったのか、すぐには指さなかった。
「なにかあるのか……?」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6九飛ッ!」
大河内くんは静かに4七銀と進めた。
連続で不可解な手だ。
磯前さんは7九飛成としかける。
「ん……待てよ……」
すこしばかり顎をあげて、自陣を確認した。
「……そういうことか。手前で逃すところだったぜ。5五角」
角を引いた? ……あ、そっかッ! 7九飛成、9八玉、5五角は、5八銀に6七歩成が王手じゃないから、6四角が詰めろになるッ!
【参考図】
同角、同歩がまた詰めろ(6三金、4一玉、4二銀、3二玉、4一銀打、同龍、同銀不成、同玉、3一飛、同玉、5三角、3二玉、4二角成まで)。
起死回生の罠だったけど、回避されてしまった。
「タモで掬うまえが一番危ないんだよな。針がはずれやすい」
「……」
大河内くんは目を閉じた。
「逆転の芽はなしか……負けました」
「ありがとうございました」
投了――チェスクロが最後の秒を読んで、自動的に止まった。
「あたしならもうちょっと指すけどなぁ」
火村さんのぼやき。まあまあ、投了は個人の自由だから。
それに、いくら粘っても後手は詰みそうにない。手順が長引くだけだ。
「どこが悪かったかな? 8六歩のところで8七歩のほうが良かった?」
ふたりは局面をもどした。
【検討図】
「8六角狙い?」
「そう」
「正直、8六角は見た目ほどキツくないと思うんだよな」
磯前さんはそう言って、帽子のつばを前方になおした。
「6四歩に7二銀と我慢すれば大丈夫ってこと?」
「そうだね。さすがに6四同銀は4六角がどいたときに危ないから、我慢かな」
大河内くんは腕組みをして、天井を見上げた。
「……8七歩と打っても、5七桂、7九玉、4八歩成、同金、同銀成、同銀、6七金で、8六角と打ってもインパクトがないか。9七角は8六歩だし」
「それよりも、8七飛成って成らせた判断は、どうだったんだ?」
「あれは無理に8筋を守ってると、玉頭が薄くなって寄ると思ったんだよ」
磯前さんは、やや納得したような顔で、
「ああ、そういう……でも、あれは後手を楽にしてるような……」
と言葉をにごした。そこへ、ススッと索間さんが割り込む。
「おつかれさまでした。感想戦のところ申し訳ありませんが、インタビューを」
索間さんはメモ帳をとりだして、磯前さんへ顔をむけた。
「本局、ふりかえってみて、いかがでしたか?」
「どこで良くなったのか、正直分からないんですけど……攻める途中で金を渡さずに済んだのは、助かりました。渡すと6三金から一気に寄るんで。投了図なんですけど、5六歩と突かれて、もうちょっと続くかな、と思いました」
磯前さんは、本譜全体についてあっさりと感想をのべた。
索間さんもササッとメモをとり、大河内くんへ視線を転じた。
「おつかれさまでした。なにか特にコメントしておきたいことなどは?」
「終わってみると、飛車を成らせたのはマズかった気がしています。が、ほかにどういう手があったかというと難しいですね。もっとまえから悪いのかもしれませんし、あるいはそのあとの攻めが緩かったのかもしれません。投了図ですが、5六歩は8五歩、同歩、8六歩と叩かれて崩壊するというのが僕の読みです」
こちらもあっさりとしたコメントだった。
「なるほど、なるほど……ありがとうございました。以上で終わりにします」
ふたりはもういちど礼をして、席を立った。
大河内くんは、すたすたとこちらにもどってくる。
「いやぁ、裏見さん、ごめん、負けちゃった」
なんで私に名指しで謝るの? 慰めないわよ?
「べつにお祭りイベントだし……」
「ゆるしてくれる?」
ゆるすもなにも怒ってないけど?
……………………
……………………
…………………
………………
ん、これでチームは1−2? 全部で5戦……ゆるさんッ!
場所:デイナビ主催 東西対抗フレッシュ大学将棋 三将戦
先手:大河内 勉
後手:磯前 良江
戦型:横歩取り8四飛型
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △3三角 ▲3六飛 △8四飛
▲2六飛 △2二銀 ▲8七歩 △5二玉 ▲6八玉 △7二銀
▲4八銀 △7四歩 ▲1六歩 △7三桂 ▲1七桂 △2三歩
▲5九金 △4二玉 ▲6九玉 △6四歩 ▲9六歩 △6五歩
▲5六歩 △6三銀 ▲5五歩 △5二金 ▲5六飛 △2四歩
▲2五歩 △同 歩 ▲同 桂 △4四角 ▲4六歩 △2三銀
▲4五歩 △2二角 ▲5四歩 △同 歩 ▲2二角成 △同 金
▲7七桂 △3三歩 ▲6六歩 △3四銀 ▲6五桂 △同 桂
▲同 歩 △4五銀 ▲2六飛 △2四歩 ▲4四歩 △3五角
▲4三歩成 △同 金 ▲2八飛 △6六桂 ▲7七金 △6七歩
▲4六歩 △同 銀 ▲6六金 △4七歩 ▲3九銀 △8七飛成
▲7八銀 △8一龍 ▲6七金 △6六歩 ▲7七金 △3七銀不成
▲5八飛 △2五歩 ▲3六歩 △4六角 ▲3五桂 △4四金
▲4三歩 △5二玉 ▲8六歩 △5七桂 ▲7九玉 △8七歩
▲同 金 △4八歩成 ▲同 金 △同銀成 ▲同 銀 △6七金
▲6四桂 △6二玉 ▲8八玉 △5八金 ▲5三歩 △6九桂成
▲5二歩成 △同 銀 ▲同桂成 △同 玉 ▲5七歩 △6八成桂
▲8九銀 △6九飛 ▲4七銀 △5五角
まで118手で磯前の勝ち