86手目 キョウジ
「みなさん、おつかれさまでした。まずは、乾杯したいと思います」
姫野先輩は、グラスを視線の高さまであげて、私たちに目配せした。
「乾杯」
「乾杯」
おしゃれな音楽と、おしゃれな照明。
木目のうつくしい流線型のテーブルを、私たちは囲んでいた。
姫野先輩行きつけのジャズレストラン
デイナビを出たあと、まさかこんなところに案内されるとは思っていなかった。
私の位置から、カウンターでお酒をたしなむカップルの背中が見えた。
「姫野先輩、今日はありがとうございました」
私は、となりに座っている先輩に話しかけた。
「わたくしは、特になにもしていません」
いや、まあ、社交辞令ということで。
東日本陣営も西日本陣営も、2年生は指示をほとんど出していない。自由放任ってことなのかしら。女子だけで集まる提案にも、文句は言われなかった。速水先輩だけは「居酒屋のほうがいい」ということで別行動。そのまま夜の繁華街に消えてしまった。
「姫野先輩、こちらでの生活は、いかがですか?」
「変わりなく過ごしています。裏見さんは?」
「私のほうも特には……」
「ねえねえ、香子、これアルコール入ってなくない?」
火村さんはグラスを持ち上げて、透明な薄黄色の液体を電灯にかざした。
「ルーマニアが何歳で飲酒OKか知らないけど、日本は20歳よ」
「でもこれ、味はシャンパーニュなんだけど」
「ベルギー産のノンアルコールスパークリングワインです」
「あ、ふーん」
姫野先輩の回答に、火村さんはもうひとくち飲んだ。
「なんか変な感じ」
「さあ、料理がまいりました。みなさん、召し上がってください」
蝶ネクタイをしたボーイのひとが持って来たのは、海産のオードブル。
白身魚のカルパッチョに、香草とパプリカが盛られていた。
ナイフとフォークかぁ。テーブルマナー。
さすがにこういうのは、火村さんのほうが手慣れていた。ちゃちゃっとしている。
「ところで、姫野、だっけ?」
やめてぇ。さすがにそれはない。
今度という今度は注意するわよ。
「火村さん、もうちょっと敬語を勉強したほうが……」
「つかぬことをおうかがいしますが、わたくしより年長のかたでしょうか?」
姫野先輩の質問に、私は「エッ?」となった。
1年生だって分かってるはずなのに。姫野先輩は2年生だ。
ところが、火村さんは口の端をニヤリとゆがめた。
「あら、よく気づいたわね。日本人だと、あんたが初めてな気がするわ」
「なんとなく、そのように感じただけです」
姫野先輩は、そこで言葉をくぎった。
具体的に何歳、と訊くつもりはないようだ。
えぇ……意外過ぎる……いや、でも、よくよく考えたら、大学1年生イコール私と年齢が一緒、というのは間違いなわけで……浪人してたら、違って当たり前……それに、火村さんは背が低いから幼くみえるだけで、なんか先入観があったような気がしてきた。
でも、何歳? 肌年齢からして、20歳を大きく超えていることはないと思う。化粧が厚いわけでもないし……どっちかっていうとかなり薄いような……2年生の速水先輩や姫野先輩にタメ口なところをみると、20、21あたりかなぁ。3年生に対してどういう口の利き方をしているのかは、確認できていなかった。
「ちょっと、なにじろじろ見てるの?」
「な、なんでもない」
「あたしが勝っちゃったから、あした自分が負けると困るなぁ、とか?」
違うけど、そういうことにしておきましょう。
今日で1勝1敗だから、プレッシャーがないと言えばウソになる。
「ところで、香子と姫野って、どこで知り合ったの?」
「出身地が一緒なのよ」
「高校も?」
それは違うと、私は答えた。
私の出身高校は市立で、姫野先輩は地元のお嬢様学校だ。
「女子校って、少子化なのに大丈夫なのかしら」
またそういうきわどいツッコミを。
「H島は進学校が男子校と女子校で分かれてるのよ」
「神学校があるの? 変わってるわね。やっぱりプロテスタント?」
なにを言ってるんですか。宗教の話なんてしてない。
私があきれていると、姫野先輩が口をはさんだ。
「火村さんは、日本でお生まれなのですか?」
「ノー」
「日本語がほぼ完璧におできなようで……」
私とおなじところを突っ込んできた。けど、火村さんは暖簾に腕押し。
全然気にしていないようすで、カルパッチョを口に運んだ。
「語学の天才だから」
毎回その返しなのね。なにかしゃべってくれればいいのに。
「聖ソフィアとおうかがいしましたが、なにをご専攻に?」
「神学部」
え? そうなの? ……はじめて知った。
てっきり、外国語かなにかと勝手に思い込んでいた。
「火村さんはキリスト教徒なの?」
「そうよ。ナンマンダ〜ナンマンダ〜」
もぉ、全部冗談に聞こえてきた。
じつは大学生っていうのもウソで、聖ソフィアに籍がないんじゃないでしょうね。
仮にそうだとしたら、あとで大問題になる。
「火村さん、どういう経緯で将棋部に入ったの? 明石くんとの関係は?」
「ちょっと、ひとのこと詮索しすぎじゃない?」
火村さんはそう言って、不満そうな表情を浮かべた。
いやいや、詮索してるのは火村さんのほうじゃないですか。おまいう。
もういちど尋ねようとしたところへ、メインの肉料理がはこばれてきた。
厚切りのレアステーキだった。
「いやあ、こいつはうまそうですね」
磯前さんは、そう言って手揉みをした。
「ところで、裏見、大河内ってのは、どういう指し手だ?」
「それは答えられないわよ」
「友だちのよしみで教えてくれてもいいと思うんだがなあ」
「じゃあ、山城くんがどういうタイプか、先に教えてくれる?」
磯前さんは笑った。
「一本取られたな。さすがに教えられない」
でしょ。席は一緒でも、おたがいにライバル陣営なんだから。
「ひとつだけ言っとくと、山城はそこそこ強いぜ」
「それは油断させるための表現?」
「自分の目で確かめてくれよな」
はぐらかされてしまった。私はステーキを細かく切って、口にはこんだ。
ほぉ、しょうゆ味ですか。変わっている。
「ジャズレストランなのに、料理は和風なんですね」
私たちはしばらく将棋の話題をうちきって、食事に舌鼓をうった。
○
。
.
「いやあ、食べた食べた」
レストランを出たところで、磯前さんはお腹をぽんぽんとはたいた。
「先輩、ありがとうございました」
私たちは、姫野先輩にお礼を言った。かなりの額を支払ってくれたからだ。ほんとうは全額おごりたいけど、女子だけおごるのは良くないので、みたいなことを言われた。事実だと思う。けど、支払ってくれた額だけでも、万は確実に超えているような……財力。
「まだ7時ですが、暗くなってまいりました。帰りはお気をつけて」
姫野先輩はタクシーを呼んで、市松さんと一緒に姿を消した。
遠ざかるテールランプをしりめに、私たちは解散の挨拶をする。
「それじゃ、また明日な」
「磯前さん、ひとりで大丈夫?」
「このあたりはよく知ってる。駅はすぐそこだ」
姫野先輩は、交通の便にも配慮してくれたらしい。私と火村さんが使う路線も、すぐ近くにあった。私は磯前さんに「また明日」と言って、お別れした。
ネオン街を、火村さんとふたりでゆっくり歩く。
「やけに魚くさくなかった?」
「え? レストランが?」
「いまちょうど別れた女よ」
全然。磯前さんは釣り好きだから、釣り用のジャケットを普段着にしている。
でも、ちゃんと洗ってあったような。火村さん、鼻がいいのかしら。謎。
「このまま行くと駅?」
「じゃないかしら。あそこに案内図があるし」
ちょうど橋の付け根に、駅名を書いた案内図があった。右手には電車が走っている。
減速してるっぽいから、橋を渡ったむこうがわに駅があると予想。
「腹ごなしに、歩いて帰らない?」
えぇ……知らない町を女ふたりはイヤだ。
「明日は午前中から試合だし、まっすぐ帰りましょう」
「んー、これじゃ観光する時間がなくない?」
「観光しに来たわけじゃ……」
「そこのお嬢さん」
私は、あたりを見回した。
声をかけられたからじゃない。その声に聞き覚えがあったからだ。
でも、人影は見当たらなかった。
私たちは、橋の中央にいるマイクやスピーカーもない。空耳?
「ふふふ、ここだよ、ここ」
私は、上方から声が聞こえたことに気づいた。
ふりあおぐと、意外な人物が欄干のうえに立っていた。
「あ、あなたは昼間のッ!」
帽子をかぶった陽気そうな少年は、欄干のうえで両手を広げた。
そのまま右手を胸元に、左手を腰にあてて、お辞儀をする。
「これはこれは将棋姫、ごきげんうるわしゅう」
「あ、危なくない? 降りたほうがいいわよ?」
私がそう言った途端、少年はパッとその場で宙返りをした。
私は悲鳴をあげる。
少年の体は欄干の幅10センチくらいを舞って、そのまま片足から着地した。
「こうみえても、バランス感覚はいいんだよね」
お願い、降りて。心臓に悪い。
「あ、それならあたしにもできるわ」
火村さんが欄干にあがろうとした。私はあわてて引き止める。
「大丈夫だって。見てなさいよ」
「ダメ。絶対ダメ」
私は火村さんをひきずりおろした。少年はそれを見て笑った。
「将棋にスリルを求めても、現実にスリルは求められないのかな?」
「香子、こいつあたしたちのことナメてるわよ」
べつに舐めてもらっていいから、すぐにこの場を離れたい。
この少年、昼間も感じたけど、ちょっとおかしい。
へたしたら、ここで再会したのは偶然じゃない可能性まであった。
「仲間が待ってるから、私たちはこのへんで……」
「きみたち、今ふたりでしょ?」
……………………
……………………
…………………
………………
「この先の駅で待ち合わせしてるの」
「駅にはだれもいないんじゃないかな?」
……………………
……………………
…………………
………………なにこれ。
いきなり焦る展開になった。声を出したほうがいい?
でも、襲われてるわけじゃないし……いや、先手必勝……。
私は火村さんの手を引いて、その場から逃げようとした。
「恭二、おまたせっとわっ!?」
「キャッ!?」
走ろうとしたとたん、だれかとぶつかった。
起き上がると、氷室くんが橋のうえにばったり倒れていた。
「だ、大丈夫?」
「ハハハ、王子様登場、失敗ッ!」
欄干のうえの少年は、お腹をかかえて笑った。
私は無視して氷室くんを起こす。
「いたた……お待たせ」
「迎えに来てくれたの?」
「いや、そこの恭二に呼ばれたんだよ」
キョウジ? ……少年の名前かしら。
氷室くんと知り合いだった? どういう繋がり?
混乱する私のまえで、氷室くんはやにわに立ち上がった。
ズボンの砂もはらわずに、欄干の少年をみあげる。
「呼ばれて来たけど、用件は?」
「さて、なんでしょう?」
キョウジと呼ばれた少年は、澄まし顔でたずねかえした。
氷室くんは、マジメに考え込んだ。
「そうだなぁ……自然対数の底を不等式で評価するため?」
キョウジくんは、右足を高々とあげて、欄干のうえでバランスをとった。
夜空を見上げたまま、静かに質問を重ねる。
「京介は、俺との約束、忘れてないよね?」
氷室くんは、なんだそんなことか、という顔をした。
「もちろん、守ってるよ」
「その確認がしたかった」
キョウジくんは宙返りして、すたりと橋のうえに着地した。
私はまた悲鳴をあげかけたけど、我慢した。
雰囲気が重い。会話の軽さに反して、どこか重々しさがあった。
キョウジくんはポケットに手を突っ込み、目を閉じた。
「聖なるものを、犬に与えてはならない……そうだろう、京介?」
「……」
キョウジくんは右手を出して挨拶すると、そのまま駅とは反対の方向へ消えた。
呆然と見送る私を正気にもどしたのは、快速電車の車輪の音だった。




