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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第17章 フレッシュ大学将棋:1日目(2016年5月28日土曜)
84/489

83手目 棋譜の密度

 パシリ


挿絵(By みてみん)


 唐突な攻め。

 市松いちまつさんはチェスクロを押し、ふたたび扇子をひらいた。

 静かに時が流れる。聞こえるのは、揺れ動く風の音だけ。

「いやぁ」

 矢追やおいくんは両手を頭のサイドに当てて、椅子にもたれかかった。

「こんなに激しくなるとは思わなかったな」

 それは、そう。私も思ってなかった。

 雑誌に棋譜が載る以上、一手ばったりの乱戦は避けたいはずだ。

 将棋がどうこうというより、人間心理としてそうだと思う。私だって、30手、40手台で負けた棋譜は載せて欲しくない。ネットでいろいろ言われそうだし。

 となると、市松さんは相当自信があるか、他人の評価を気にしないかの、いずれか。

 彼女の澄ました横顔をみていると、どちらとも取れるような気がした。

裏見うらみ香子きょうこは、この手をどう評価するのじゃ?」

 土御門つちみかど先輩に話しかけられた。

「あ、えっと……」

「わしはなかなか強烈じゃと思うぞい」

 肯定的に評価してるってことかしら。私も考えてみる。

 まず、7五歩の狙いは……比較的簡単に分かる。同歩に5五歩と仕掛ければ、同歩、同銀、同銀、同飛、4六角に7五飛とスライドできる。

 

【参考図】

挿絵(By みてみん)


 9一角成、9九角成と香車を取り合って、どうか。

 とはいえ、こう進む可能性は低い。5五歩、同歩、同銀の瞬間、5三歩で飛車先を止める手があるからだ。むしろ、こっちが本命。

「どうじゃ? 妙案が浮かんだか?」

「5五歩のあとで飛車をスライドできるので、単に5五歩よりはいいと思います。けど、5三歩で飛車先を止められますから、後手がいいとも言えません」

 土御門先輩は、扇子でパタパタと扇ぎながら、

「ふぅむ、裏見は5三歩で止まるという読みか」

 と答えた。なに? ほかに手があるってこと?

 どうもおちょくられてる感があるわね。学年マウンティング禁止。

「それにしても、このきくという女、深謀遠慮じゃな。この7五歩は恐ろしい」

 謎めいた言い回し。7五歩〜5五歩からの飛車スライド、そこまで見えにくい順じゃないと思う。5五歩、同歩、同銀、同銀、同飛に4六角で困るなぁ、というところまで読めば、7筋の突き捨ては見えてくる。

「土御門先輩なら、どう指します?」

 私は思い切ってたずねてみた。一方的に質問されるのは、好きじゃない。

「わしは、5五歩、同歩のあとに5六歩と垂らしてみたい」


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 ほぉ……これは読んでなかった。

「5八飛で取りに行けませんか? 5五銀は5三歩の抑えがあって問題なしのような?」

「5八飛には5五角と行きたい」

「え? 序盤で角銀交換ですか? 危なくありません?」

「同銀、同銀の瞬間に、どうする?」


【参考図】

挿絵(By みてみん)


「5三歩……はダメですね。5七銀が王手で、7八玉、5八銀不成、5二歩成、6九銀不成がまた王手だから、同玉、5二金右と回収されて、スピード勝負に勝てません。2八飛と戻るのは……あ、そっか、これもダメですね。5七歩成から負けです」

「うむ、5六歩に5八飛は、おそらく成立しないのじゃ」

「だとすると、別の手で取りに行かないと……」

 私は5六の歩を払う順を考えた。けど、思い浮かばなかった。

「もしかして、もう先手悪いとか?」

「まだ分からんが……矢追はこの手に苦慮しておる」

 矢追くんは右ひじをテーブルについて、手のひらで顎を支えていた。

 盤面のあちこちに視線を移している。

 飛車角が舞う乱打戦を読んでいるのかもしれない。

「うーん……さすがにこうかな」


 パシリ


 矢追くんは、7五同歩と取った。

「5五歩」

「同歩」

 市松さんは、持ち駒の歩を手にした。

「5六歩です」

「やっぱりそう来たね。4八銀」


挿絵(By みてみん)


 これが矢追くんの回答。

 けっこう危ないわよ。5五銀とぶつけてくると思う。

 以下、同銀、同角or同飛は全然ダメだから、5三歩、7二飛が本命だ。

「これ、最善ですか?」

 私が質問すると、土御門先輩は扇子で口もとを覆った。

「最善が何を意味するかにもよる……とりあえず5五銀じゃろう」

「出られても、5三歩で止まりませんか?」

「そう、そこが問題なのじゃ。7二飛と逃げて?」

「逃げて? 5八金右とでもしておけば……」

 そこまで言いかけて、私はアレっと思った。

 5八金右、6六銀、同歩、7五飛――

 

【参考図】

挿絵(By みてみん)


 !?


「6六銀、同歩、7五飛が角当たり……」

「そうなのじゃ。7五歩はこの銀出の下準備と見える」

 うっそ、あの段階でこの手順を……?

 い、いや、対局中なら読めるのかもしれない。っていうか、手数的には7五歩からそんなにかかっているわけでもない。でも、これだけの大舞台で、しかも飛車角が乱舞しそうな力戦形なのだ。あっさり指したことが驚愕に値する。

「さて、矢追がここで折れるようでは困るのじゃが……」

「先手が悪いってわけじゃないんですよね?」

「……」

 いきなり黙り込まれた。嫌な予感がする。

 なにか打開策は? ある?


 パシリ

 

挿絵(By みてみん)


 踏み込んできた。

 矢追くんは1分考えて、5三歩。

「7二飛」

 矢追くん、さらに1分追加。2四歩と打つ。

 これが打開策? ……なるほど、8四歩狙いか。スライドにはスライドで勝負だ。

 矢追くん、さすがにひねり出してきたわね。ナイス。

「同歩」

 市松さんはすぐに取った。

 同飛、6六銀、同歩、7五飛、4六角。

 市松さんは扇子を閉じて、6六の地点を指し示した。

「この手を見落としてはいませんか? 6六角」


挿絵(By みてみん)


 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………あッ!

 私は盤面に目を凝らした。

 矢追くんも前のめりになる。

「は、8四飛と取れない……ッ!」

「取るのも一興ですよ、矢追さん」

 市松さんは、あいかわらずの無表情。だけど、圧倒的優勢のオーラが漂ってくる。

 だってこれ……8四飛、6五飛(!)、8一飛成、4八角成でほぼ終了だ。


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 8一飛成は金当たり。

 だけど、6七歩、4九馬が、次の6七馬を見ている。

 6一龍と取るのは6七馬、7九玉、8九馬、同玉、6九飛成で詰みだ。

「むぅ、一番恐れていた手が出てしもうたのぉ」

 土御門先輩は、残念そうな顔をして扇子をパタパタさせた。

 東日本陣営と西日本陣営の空気も変わってきた。

「こうなると、2筋から攻めるより手がないわい」

 土御門先輩の言うとおりだ。せめて落とし所を見つけないと。

 単に2八飛では、なにをやっているのか分からない。

「6六角は、9一角成も封印しておる。5七銀と放り込まれては、やはり先手負けじゃ」

「2二歩はどうですか?」

 私の提案に、土御門先輩は目を細めた。

「……あるやもしれん」

「2三歩、2一歩成、同玉、2八飛と進めて……」

 そこまで言って、私は言葉に詰まった――その先がある?

 2八飛に9九角成と馬を作られて、終わりな気がしてきた。後手は鉄壁だ。

 

 パシリ

 

挿絵(By みてみん)


 2二歩が指された。

 2三歩、2一歩成、同玉、2八飛、9九角成。

 市松さんは、ほとんどノータイムだ。

 持ち時間の差が、どんどんひらく。先手は15分、後手は22分。

 矢追くんは諦めまいと、必死の長考。たっぷり5分つぎ込んだ。

「……9一角成」

「8九馬」


挿絵(By みてみん)


 これは……厳しい……っていうか、ほぼ寄り……。

 退路を作るには、5八金右くらいしかない。でも、5七香以下バラバラにできる。

 安全策を取るなら、3六桂の両取りで駒得を目指すのもある。

 矢追くんは残り5分を切るまで長考して、顔をあげた。

「ダメだ。指す手がないね……負けました」

「ありがとうございました」

 投了――矢追くんは、くちびるを結んだ。

「7五歩の時点で悪かった?」

「5二飛に6八玉では苦しい、という印象があります」

「それ自体は、あんまり悪いと思わなかったんだけど……よくよく考えてみると、後手は囲ってるのにこっちだけ王様が前線に出てて、おかしいね。3五歩がやりすぎなのかな。角が狙われ始めてからは、ちょっと指しづらかったし」

 ふたりとも沈黙した。

 感想戦で突っ込むところがないとみたのか、索間さくまさんが動いた。

「おつかれさまでした。密度の高い一局でしたね」

 索間さん、気の利いた言い回しを心得てるわね。

 短手数とは言わずに、密度に言及するとは。

「まずは、市松さんにお伺いします。7五歩は、精算があっての一手ですか?」

「読み切っていたわけではありません。が、3五角は狙いどころだと思いました」

「気になっていた順などは?」

 市松さんは、扇子をパチリと鳴らした。

「敢えて言えば……4八銀よりも5八金右のほうを深く読んでいました」

「ほほぉ、その理由は?」

「3六桂と両取りに打つ順がなくなるからです。ただ、5八金右の場合は3九銀が浮くので、本譜の6六角がさらに厳しくなります。後手としても悪くはありません」

 索間さんはメモを取り終わった。

 今度は矢追くんのほうに顔を向けた。

「おつかれさまでした。3五歩のあたりは、積極策でしょうか?」

 矢追くんは、もうしわけなさそうに後頭部を掻いた。

「じつは、5四歩を入れずに7五歩、同歩、7六歩を予想してました」


【検討図】

挿絵(By みてみん)


「6六銀と上がったあと、6五銀のぶつけには5三角成が王手なので、そこそこいけるかな、と。後手は持ち駒がありませんし、2二が壁だから4二金、6三馬、6六銀、同歩、同角、6八飛と回って、そこそこという判断でした。先手も怖いんですが、9九角成には最悪4一馬と捨てて、同金、6一飛成と突っ込む手もありますし」

「なるほど、5四歩が意外だったということですね」

「はい。一手溜められてみると、予想以上に角の行き場所がなかったです」

 残酷だけど、インタビューは淡々と続いた。

 この棋譜が雑誌に載るのは、かなりキツい。

 お祭りイベントだと思っていた空気も一変している。

「ありがとうございました。インタビューは以上です」

 索間さんは、メモ帳を仕舞った。両陣営にほほえみかける。

「それでは、懇親会に移りたいと思います。どうぞ、こちらへ」

 私たちは、ぞろぞろと部屋を出た。

 あくせくと働いているひとたちの横を、邪魔にならないように通り抜ける。

 矢追くんに声をかけようと思ったけど、さすがに憚られた。

「あれ? こっちはエレベーターじゃなくない?」

 火村さんは、索間さんの背中越しに話しかけた。

「懇親会は事務所内でおこないます」

 そう言って案内されたのは、さっきよりすこし小さめの接客室だった。

 中央の事務机のうえに、お菓子やジュースが並べられていた。

 椅子は12席で、なんか微妙に足りない感じ。

「先輩方、どうぞ」

 私は土御門先輩と速水はやみ先輩に席をゆずった。

「おぬしらが主役なのじゃから、先に座ってよいぞ」

「まあ、そうおっしゃらずに……」

「かまわん、かわまん。それに、わしはもこっちとすこし相談があるのじゃ」

 土御門先輩は、速水先輩を連れて部屋を出て行ってしまった。

 索間さんの声が、私たちを日常へと連れもどす。

「さあさあ、みなさん、お座りください。ちょっと窮屈ですけどね」

場所:デイナビ主催 東西対抗フレッシュ大学将棋 次鋒戦

先手:矢追 康一

後手:市松 菊

戦型:居飛車力戦


▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲7七銀 △6二銀

▲2六歩 △7四歩 ▲2五歩 △3二銀 ▲2四歩 △同 歩

▲同 飛 △2三歩 ▲2八飛 △7三銀 ▲5六歩 △6四銀

▲7九角 △4二玉 ▲3六歩 △3一玉 ▲3五歩 △同 歩

▲同 角 △5四歩 ▲6六銀 △5二飛 ▲6八玉 △7五歩

▲同 歩 △5五歩 ▲同 歩 △5六歩 ▲4八銀 △5五銀

▲5三歩 △7二飛 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △6六銀

▲同 歩 △7五飛 ▲4六角 △6六角 ▲2二歩 △2三歩

▲2一歩成 △同 玉 ▲2八飛 △9九角成 ▲9一角成 △8九馬


まで54手で市松の勝ち

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