82手目 日本人形
しばしの静寂――最初に口をひらいたのは、敗者の下妻くんだった。
右手で頭をかかえて、ちょっと悔しそうなポーズ。
「いやぁ、あかんわ。ええとこ決めたろ思うたのに」
下妻くんは8六の地点をゆびさした。
「金打つんやったか?」
感想戦が始まった。索間さんもメモ帳をとりだした。
火村さんは緊張したようすもなく、あっさりと答えた。
「それは自信ありね。後手勝ちだと思うわ」
ふたりは局面をもどした。
【検討図】
「7九銀と打って、7六金、8八銀成、同玉、7六金。先手は7七に打つ歩がないから、簡単に受からなくない?」
「せやな……7九銀に同銀は、同飛成、7八銀打のあとが殺し切れん」
「ほかに受ける方法もないから、この時点ではあたしがいいんじゃないかしら」
羽生さんと対照的な受け答え。自分の形勢判断をはっきり言うタイプ。
「ほな、7三金と攻めたんは正解やったんか……けど、負けにしとるな」
「すみませーん、ちょっとよろしいですか?」
索間さんはボールペンを持ったまま、ふたりに話しかけた。
「せっかくですから、おふたりに軽くインタビューさせていただきたいのですが」
インタビューという言葉に、下妻くんと火村さんは顔を見合わせた。
「感想戦を載せればいいんじゃないの?」
火村さん、敬語しっかり。
「もうしわけないのですが、紙面の関係上、数ページなんですよ。できれば、みなさんの個性あふれるコメントをいただきたいかな、と……」
やっぱりね、という感じではある。
『将棋ワールド』は、中開きのカラーページで特集を組むことが多い。
多くて10頁くらいだ。大学将棋ならもっと短いはず。
そこに5局収めるとなると、そうとう記事を絞らないといけない。
「んー、いいけど、セリフの捏造とかはナシよ」
「大丈夫です。ご安心ください」
索間さんは、火村さんに中飛車が得意なのかとたずねた。
「ま、だいたいこれしかしないわね」
「中飛車が好きな理由は、あったりします?」
「パパッと手軽にできそうだったから」
火村さん、どういう経緯で覚えたのかしら。
このあたりを質問して欲しいけど、索間さん、あんまり手慣れてないわね。
いかにも新人記者って印象だ。
「なるほど、なるほど……では、下妻さんに質問です」
「なんでも訊いてぇな」
「火村さんの棋風、事前に調査してありましたか?」
おっとっと、西日本陣営の戦略に触れる質問だ。きわどい。
案の定、うしろのほうで藤堂さんが眉間にシワをよせていた。
いっぽう、下妻くんはあんまり御構い無しという感じだった。
「ちょいと調べさせてもろうたで、さすがに」
「棋譜並べなどは?」
「いやぁ、わい棋譜マニアちゃうし……写真だけばっちり拝んどいたわ」
いやいやいや、どっから見つけたんですか。連合のHPにも載ってないわよ。
つっこみどころが多すぎる。
「ふむふむ……本局、中飛車で来られたわけですが、予想通りだった、と?」
「中飛車言うても、いろいろあるさかいな……中盤の折衝で、7六飛を見落としたんは痛かったわ。もし気づいとったら、手ぇ変えとったで。8九金はお見事やね」
索間さんは、パパッとメモをとった。
「ありがとうございました。それでは、2局目に入りたいと思います」
「感想戦、まだ終わってへんで?」
下妻くんのクレームに、索間さんはにっこりと返した。
「ご安心ください。このあと、懇親会を予定しています。そこでやりましょう」
「おっしゃ、ほな、火村はん、おおきに」
「おおきに?」
「ありがとうございました、って意味やで」
「じゃ、あたしもおおきに」
ふたりは一礼して、カメラマンさんのシャッターが光った。
下妻くんは席を立ち、あたしたちにウィンクする。
「次の菊ちゃんは、強いでぇ。心してかかりぃや」
下妻くんは、西日本サイドにもどった。火村さんはあたしたちのほうへ踵を返す。
「おつかれさま」
私は火村さんをねぎらった。火村さんは誇らしげに胸を張った。
「どう? やっぱあたし強いでしょ?」
「まあ、今回は認めざるをえないかな」
「香子もツンデレねぇ」
どういう意味ですか。べつにツンツンしてないし。
「それじゃ、康一、あたしに続きなさい」
「な、なんか、いきなり下の名前で呼ばれてるけど、がんばるよ」
矢追くんは、まえに出た。ところが、相手は出てこない。
っていうか、あのおかっぱ頭のおとなしそうな子、姿が見えないわね。
「お待たせしました」
カチャリとドアが開いた。黒に金糸の着物を着た少女が入室した。
西日本陣営の次鋒、市松菊さんだった。
「うげぇ、ドレスアップし過ぎでしょ」
火村さんの小言が聞こえたらしい。市松さんはこちらへふりかえった。
「もうしわけありません。対局時は和服と決めておりますので」
それはスゴい。姫野さんとおなじで、いいところのお嬢さんなのかなぁ。
そんな憶測をしているうちに、ふたりは席についた。
索間さんが司会をつとめる。
「それでは、第2局に入りたいと思います。先に決めるのを忘れていましたが、振り駒はその都度でよろしいですか? それとも、先後反転させますか?」
「僕はどっちでも」
「私も先輩方にお任せします」
索間さんは、2年生陣に相談をもとめた。
「振り駒でいいだろう。勝敗にはどうせ関係しない」
藤堂さん、あっさり自分の意見を開陳。
「そうじゃの。わしらも振り駒でよいぞ」
土御門先輩もOKした。あんまり揉めたくなかった気配がある。
「では、矢追さん、市松さん、お好きなほうが振り駒をお願いします」
「市松さんでいいよ」
「分かりました」
市松さんは袖をうまく調整して、振り駒をした。
「歩が1枚。私の後手です」
駒が所定の位置にもどされた。チェスクロもリセットされた。
ふたたび室内に重苦しい空気が流れ始める。
「それでは、第2局……始めてください」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
ふたりは一礼して、市松さんが軽くチェスクロを押した。
7六歩、8四歩、6八銀。
おっと、矢倉の出だし。
3四歩、7七銀、6二銀、2六歩。
「7四歩」
「ん、もう7四歩?」
矢追くんは、この手に首をかしげた。
「そちらの2六歩も早いように思いますが」
市松さんの反論。矢追くんはちょっとだけ笑って、
「いやあ、用意してきた研究があるんだけど、これは外されちゃったかな」
と白状した。たしかに、8手目7四歩は、あまり想定しないと思う。
市松さんは、この会話にくすりともしなかった。クール。
「ま、こうなったら手なりだよね。2五歩」
3二銀、2四歩、同歩、同飛、2三歩。2八飛。
力戦になりそう。飛車先を交換できたから、悪くはないかも。
「7三銀」
「んー、速攻か。5六歩」
「手筋ですね。6四銀」
これは難しい。構想力が問われる。
私は速水先輩に話しかけた。
「市松さんって子、棋風はどうなんですか? 本局は奔放ですけど?」
「典型的な腕力タイプよ。力戦が得意」
げげっ、完全にハマってるじゃないですか。
「矢追くんには伝えてあります?」
「いいえ、かえって緊張するでしょ」
力戦は避けられないから、と速水先輩はつけくわえた。
【知らぬが仏】理論のようだ。
「彼女は近畿連合主催の個人戦で準優勝だから、マークしてあったの」
「マーク、というのは?」
「関西七将の次期有力候補ってこと」
うーん、速水先輩、自分のために情報収集してる感がある。
とはいえ、局面はどんどん進んだ。
7九角、4二玉、3六歩、3一玉。
5六歩〜7九角の組み合わせは、うまいと思った。
7五歩と速攻して来たら、4六角と牽制するつもりだ。
市松さんもそれが分かっているから、いったん3一玉と囲っている。
「このまま囲い合いですか?」
私の質問に、速水先輩はなんともいえない表情を浮かべた。
「そうね。いろいろあるとは思うけど……」
「速水さん、裏見さん、おつかれでしょうから、どうぞお座りください」
索間さんは、私たちに壁ぎわの席を進めてきた。
どうしようか一瞬迷ったけど、速水先輩がことわったから私もことわった。
というのも、座ってしまうと盤面が見えないのだ。
「将棋指しには、足腰も必要よね」
速水先輩に同意。学生将棋の観戦には足腰が必要。
高校のときも、1時間以上たちっぱなしで観ていた記憶がある。
「矢追くん、ずいぶんと考えてますね」
「攻めるのかもしれないわ。3五歩はあると思うから」
【参考図】
「同歩、同角で、5三の地点が不気味でしょ」
「ガードするために5二金右ですか?」
「積極策なら5四歩のほうがいいわ。5二金右は7一の地点にスキができて、5四歩と突けなくなるの。もちろん、5二金右〜7二飛〜7五歩も考えられるけど、それはそれで4六角と引かれたかたちが受けにくいわよね」
速水先輩は、5四歩を推しているようだ。私もそっちな気がしてきた。
もちろん、矢追くんがそのとおりに指すかは別問題で――
パシリ
おっと、指した。
ほんとに仕掛けた。
これは、市松さんの情報を伝えなかった効果かもしれない。相手が力戦タイプだと、手が萎縮してしまうことがあるからだ。3五歩は積極果敢。情報戦で有利になることもあれば、不利になることもある。
「面白くなってきました。同歩です」
市松さんは、あっさりと取った。
同角、5四歩、6六銀、5二飛。
「うわぁ、中飛車か……さすがに居玉はムリだな。6八玉」
市松さんは、華やかな巾着から扇子をとりだした。
ひらいてパタパタと扇ぎ始める。
小ぶりな女物で、菖蒲の絵が描かれていた。5月だからかしら。
「そうじゃ、将棋と言えば扇子なのじゃ」
土御門先輩も負けじとパタパタし始めた。
そんなので張り合わないでくださいな。小学生ですか。
「土御門先輩は、どう指しますか?」
「そうじゃのぉ……力戦はあまり好きではないのじゃが……5五歩はありうる」
「5五歩、同歩、同銀、同銀、同飛が角当たりなんですよね」
「しかーし、それは4六角で困るのじゃ。攻めが単調であーる」
「5五同角は、どうですか? 4六角のぶつけに9九角成で良くなりません?」
「5五同角には4六角ではなく5八飛とぶつけたいのぉ」
【参考図】
なるほど、9九角成、5二飛成、同金右、5三歩くらいで困るか。
先手が5八金右で受けなかったのは、5八飛の余地を残す意味もあったようだ。
矢追くんも、対局者だからこのあたりは読んでいるだろう。
「ひと工夫必要な局面じゃな、もこっち?」
土御門先輩は、ちらりと速水先輩を盗み見た。
「そうね……工夫がないわけじゃないし」
むむむ、このふたり、その工夫とやらがなんなのか、分かってる素ぶりだ。
私も考えるわよ。ああして、こうして――
パシリ
指したのかと思いきや、市松さんが扇子を閉じた音だった。
小ぶりなそれを口もとに添えて、人形のように小首をかしげた。
「成立するもしないも一興ですか……どうせお祭りです。7五歩」