80手目 先鋒
「初手は7六歩やろなぁ」
下妻くんは、おどけたふうに角道を開けた。
「3四歩」
火村さんはノータイムで返した。
はたして、彼女の棋風が西日本陣営にバレているのかどうか。
2六歩、5四歩と進んだところで、下妻くんは白い歯を見せて笑った。
「おっ、ゴキゲンか。受けてたつで。2五歩」
5二飛、4八銀、5五歩、6八玉、3三角、3六歩、4二銀。
さっきの反応だと、火村さんのことはほんとに知らない感じかしら。
3七銀、5三銀、4六銀、4四銀。
超速だ。
「対策してるっぽいわね」
私のとなりにいた速水先輩が、小声でそうつぶやいた。
「え? そうですか?」
「棋譜までは調べてないでしょうけど、棋風は事前に教えられていると思う」
速水先輩は、藤堂さんへ視線をむけた。
藤堂さんはメガネをなおして、ちらりとこちらに目をむけた。
どうもふてぶてしい。自信ありげだ。
「西日本も強豪でそろえてるわ。香子ちゃんも気をつけなさい」
「は、はい」
気をつけなさいと言われても、ね。
そもそも速水先輩たちは、相手のデータを調べてあるのだろうか。
火村さんがアドバイスを受けたシーンは見ていない。
疑問に思っているあいだも、対局は進んだ。
5八金右、6二玉、7八玉、7二玉、6六歩、8二玉、6七金。
高速で指していた火村さんの手がとまった。
「うーん、これって団体戦なのよね……」
おっと、めずらしい。団体行動しますか?
「負けると香子に怒られる可能性あるしなぁ」
「キョウコって、そこにいる裏見香子はん?」
「そうそう、怒ると怖いの」
こらーッ! なにデマ飛ばしてるんですかッ!
周囲の視線がこちらにむけられて恥ずかしい。
「というわけで、手堅くいきまーす。9二香」
穴熊だ。下妻くんもニヤリ。
「ほな、わいもクマろうか。7七角」
9一玉、8八玉、8二銀、9八香、7一金、9九玉。
下妻くんは宣言どおりに指している。
このふたり、お祭り気分でテキトウなのかと思ったらガチだ。
「4二角ッ!」
火村さんは角を早めに引いた。
下妻くんは8八銀と閉まる。
5一金、9六歩、6二金左、9五歩、7二金寄、7九金。
「おたがいにガチガチやなぁ」
チェスクロを押しながら、下妻くんは笑った。
「わいは千日手でもかまわんで」
「うっさいわねぇ、もうちょっと静かに指せないの?」
口が悪過ぎる。躾けて来ればよかった。
でも、下妻くんは嬉しそう。
「ハハハ、わいはおしゃべりと女の子が、3度の飯より好きやさかいな」
これには周囲も閉口していた。
「そういう人間には、火村さまの鞭が跳ぶわよ。7四歩」
「わいも動くで。3八飛」
5三角、6五歩。
進行が速すぎないかしら――と思ったところで、火村さんの手がとまった。
火村さんは、黙って考えている。
なにかあるのかしら。
「後手から動きたいわね」
速水先輩のコメント。ただ、動かす場所はそんなにない。
「7五からですか?」
「7五歩、同歩、同角、7六歩は、後手に1歩持たれて損ね」
「私は7五歩に手抜いて7八飛、7六歩、6六角もあるかな、と」
速水先輩もうなずいてくれた。
「積極的に攻めるなら、その順はあり」
火村さんの性格からして、積極策だと思う。
あたりに緊張感が漂い始めた。
「……よし」
火村さんは自分を納得させるように、かるくうなずいた。
パシリ
やっぱり攻めた。下妻くんも、これには軽口を叩かなかった。
私は速水先輩に、小声で話しかけた。
「速水先輩、西日本陣営のデータは集めてあるんですか?」
「んー、集めてはあるけど、教えない」
なんでですか。後輩いじめですか。
「データがあったほうが勝ちやすくないですか?」
「そうは思わないわ。指してみないと棋力なんて分からないものよ」
速水先輩は実戦主義のようだ。
高校のときにデータマンだった傍目先輩とは、まったくタイプがちがう。
「でも、戦法の傾向くらいは……」
「こうやろなぁ」
下妻くんの声。盤面をみると、6六角が指されていた。
以下、7六歩、7八飛、4二角と進む。
手詰まりになった? 後手の攻めは意外と続かないようだ。
4手しか指してないし、さすがに火村さんの想定内だとは思うけど。
「先手から動かないの?」
火村さんは一方的に催促した。
「わいはこうみえても気長なんや。1六歩」
先手は税金をはらった。火村さんの手番にもどる。
火村さんのほうが1分ほど多く使っていた。そこまでの差じゃない。
「んー、じゃあ、5三銀」
火村さんは、挑発的な手を指した。
「これは本格的に開戦しそうね」
速水先輩の言うとおりだ。さすがに5五銀か5五角で暴れる展開になる。
そうしないと、後手から5四銀と立たれて処置に困る。
「5五銀は3三角か3三桂で困る感じですね」
私は自分の読みを伝えた。
「ええ、5五銀は立ち往生するわ。5五角が本命」
「5五角に3三角とぶつけるのは、同角成、同桂のあとに打たれて困りますか?」
4一角、2二飛、2四歩くらいで困るかな、というのが私の読み。
速水先輩は両腕を組んで、盤面をにらんだ。あいかわらずかっこいい。
「先手は6七の金が浮いてるのよね。ここを狙えたらいいんだけど」
「4九角ですか?」
「5五角、3三桂、7六金を本命視したいわ。後手から角交換はなし」
「7六金は6七にスキができて、危なくないですか?」
「金を立っておかないと、5四銀〜6五銀で先手が一気に悪くなるわよ」
ふむふむ、勉強になる。
パシリ
おっと指した。
案の定の角出――以下、3三桂、7六金、5四銀、6六角。
「4五銀」
「こいつは取れんから……5五銀」
下妻くんは、銀交換に応じなかった。
「交換しなさいよ。5四銀」
「せんて。4六銀」
「4五銀」
「5五銀」
「5四銀ッ!」
「頭に血がのぼったほうが負けや。4六銀」
ちょ、千日手――いや、火村さんのほうから手を変えそうだ。
「あったまきたッ! 4五銀ッ!」
下妻くんは、もういちど5五銀とあがった。
火村さんはすかさず5四歩と打った。
「いいですねぇ、盛り上がってますねぇ」
索間さんは、なんだか嬉しそう。こっちはヒヤヒヤしている。
「今の、千日手にしたほうがよくなかったですか?」
私は速水先輩に質問した。
「これは打開したほうがいいわ。後手は6七銀から絡みつけるから」
火村さんの積極性が吉と出るか、凶と出るか。
「がんこやなぁ……さすがに交換するで。4六銀」
「ふふふ、同銀」
下妻くんは黙って同歩。火村さんは6七銀と打ち込んだ。
んー、指されてみると、思ったより厳しそう。
7七飛、7六銀成、同飛までは確定で、そこから6七金と打ち直せる。
とりあえずは火村さんが一本取ったかっこうだ。
その証拠に、西日本陣営の空気はなんだか気まずい。
はっきりと顔に出しているひとはいないけど、観戦の雰囲気で分かる。
「ちょいとわるぅしたな」
「ちょいと? ちょいとってナニ?」
「ちょっとって意味や。7七飛」
7六銀成、同飛、6七金、7五角。
ぶつけましたか。大駒2枚が並んでて、負担だと判断したらしい。
「急に攻めて来たわね……取るしかないか。同角」
同飛、6六角、7六飛、5七角成。
「5三歩、と」
下妻くんは、軽快に歩を打った。
これは取れない。取ると4二角、5二飛、3三角成で馬の守りができる。
火村さんもそれは分かっているから、1二飛と逃げた。
「ちょいと窮屈ね」
「せや、こういうのを『ちょいと』って言うんや」
なんで方言講座になってるんですか。
「ほいで6九銀」
速水先輩は、この手をみて感心した。
「この下妻って子、態度とはうらはらに冷静ね。思ったより先手陣に迫れてないわ」
「6六金くらいで良くならないですか?」
「先手の狙いは次に6八銀の重ね打ちよ」
ん、重ね打ち? それって攻め駒が足りなくない?
「6六金」
火村さんも、警戒心を抱いているわけではないようだ。
さくっと次の手を指した。
「7五飛」
「7六歩と蓋をして……」
「ああ。それ以上はあかん。撤退してもらうで。6八銀打」
火村さんは4六馬と引いた。下妻くんは1分ほど考えて、2一角と打った。
火村さんは前かがみになった。
「……ずいぶん直接的ね」
「『直接的』でも『間接的』でも、好手は好手、悪手は悪手や」
それは、そう。直接的というのは、それ自体が悪いわけじゃない。
ただ、直接的な手は、あらかじめ読まれている可能性が高いというだけの話。
「2二飛は4三角成、4五桂、5二歩成か……」
火村さんは読みを漏らして、テーブルにひじをついた。
今のは、私もまっさきに思いついた順だ。
以下、5七桂成と突っ込んだとき、6一とと4四馬の二択になる。
「……2二飛、4三角成、4五桂、5二歩成、5七桂成、4四馬は、先手悪そうですね」
私の評価に、速水先輩も首を縦にふった。
「飛車はもう逃げないわ。このまま4五桂、1二角成、同香が本線」
「そこで2二飛……いえ、3二飛ですか?」
速水先輩は両腕を組んで胸を張った。
「切るにしても、2二飛と打ったほうがいいでしょうね」
「切るにしても、というのは?」
「飛車は即切りよ。7二飛行成、同金、同飛成」
【参考図】
な、なるほど、これは先手が反撃に転じている。
どうやら、一方的に後手がいいというわけではないようだ。
「もしかして先手有利ですか?」
「んー、後手は工夫が必要ね。このままだと7一に補強する適当な駒がないから」
速水先輩は、あいまいな返事をした。
「7二飛成のまえに1手指せるから、そこでなにを指すかよね」
私も一緒になって考える。
「……7七歩成ってありませんか?」
私の指摘に、速水先輩はピンと親指を立てた。
「それが第一感」
私は自信をもった。先を続ける。
「7七歩成、7二飛行成、同金、同飛成、8八と、同金、7一銀打とします」
【参考図】
これしかない、と思ったけど、速水先輩はすこしだけ回答を留保した。
「それもある、わね」
「ほかにありますか? 馬が利いてるから7一には打たないとか?」
「7一歩は、どう?」
歩打ち――そっか、7七歩成の効果で、歩も打てる。
「ちょっと危なくないですか?」
「7一銀打のほうが危ないわ。7一同龍、同銀、7二歩と叩く順があるから」
なるほど、どうやら穴熊の速度問題になっているようだ。
単純に駒得していけばいいわけではないらしい。
火村さんもかなり真剣に読んでいた。
開始直後のおちゃらけた雰囲気は、室内のどこにもなかった。
「……これしかないみたいね」
火村さんは、残り時間が15分を切ったところで、ようやく腕を伸ばした。
パシリ
行ったッ!