72手目 Help me!!
《ストーカー?》
芳香剤の香りが漂う空間に、松平の声が響いた。
私はスマホを耳に押しつけて、声をひそめる。
「ストーカーと決まったわけじゃないけど、変な3人組に絡まれてるの」
《路上でか?》
「ううん、バイト先の将棋道場」
私は事情をくわしく説明した。
《裏見のことを聞きつけたやつらだろ。囲いにするつもりだな》
「カコイって?」
《アイドルなんかを、自分たちだけで独占しようとする行為だ》
えぇ……それはちょっと考えすぎのような。
「と、とにかく、これから3人目と対局なの。迎えに来てくれない?」
《分かった。すぐ行く。声をかけられても、外に出るなよ》
「了解」
通話はそこで終了。
私は手を洗い、深呼吸してからトイレを出た。
大柄な少年は、すでに席についていた。
「失礼しました」
私は定跡どおり謝ってから、椅子に座りなおした。
振り駒をする。表が4枚出た。
また先手かぁ。振り駒の引きはいいんだけど、結果がともなわない。
3度目の正直、こい。
「チェスクロはこのままでいいかしら?」
「ああ、問題ない。よろしく」
「よろしくお願いします」
私たちは一礼した。相手がチェスクロを押して、対局開始。
さてどうしたものか――私は7六歩と突いた。
大柄な少年は、ふたたび指の骨をならした。
「俺は新田だ。矢追たちとは同期だから、ゲンちゃんでいいぞ」
いいぞ、って言われましてもね。はい。
ただ、このひとと矢追くんたちが同期なのは、意外だった。
言い方からして、学年が一緒ってことよね。
そして、私にタメ口許可――全員1年生? 1年生がそろってるってこと?
「3四歩」
新田くんは、ようやく2手目を指した。
迷っていたところをみると、得意戦法がいくつかあるみたい。用心。
「2六歩」
「4二飛」
なるほど、振り飛車党か。
ゴキゲンにするか角交換にするか、そのあたりで悩んでたわけね。
そうと分かれば、私の選択肢はひとつ。対抗形。
「6八玉」
8八角成、同銀、6二玉、7八玉、7二玉、4八銀、2二飛。
後手の銀上がりが遅れている。だったら、これが効きそう。
「7七角」
「角の打ちなおしか……こっちも打ちなおすしかないな。3三角」
よし、角交換型のメリットは、だいたい消えた。
唯一残っているのは、先手が穴熊にできないことだけ。
「9六歩」
最後のデメリットも消すため、堅く囲っていく。
9四歩、8六歩、4二銀、8七銀、5四歩、8八玉、8二玉、7八金。
後手はどうする気かしら。振り穴はないような。後手も端を突いている。
「7二銀」
はいはい、普通に美濃。
私は2五歩と伸ばして、6四歩に4六歩と突き返した。
攻めの体勢も整える。
5二金左、4七銀、6三金、5六銀、7七角成、同桂、7四歩。
再交換してきた。
6六角と打ちなおす意味はないし……6六歩かな。
「6六歩」
新田くんは、7三桂と跳ねた。私の手がとまる。
私は首をかしげて、こめかみに指をあてた。
じっと盤面を見つめる。
……………………
……………………
…………………
………………
危ないけど、チャンスかな。
私はリスクとリターンを天秤にかけた。前者が大きいとみて、8五桂と跳ねる。
「ん? それは危なくないか?」
危ないのは百も承知。このあとの展開は綱渡りだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同桂」
私は同歩と取った。0手で8五歩と伸ばせた計算になる。
「しかし、これがあるだろう。3三角」
大丈夫。読んである。6六角が王手なのも承知。
「5八金」
「間に合ってないな。6六角。王手だ」
私は8九玉と下がった。下手に受けると6五桂と打たれてしまう。
5一銀、6七金右、3三角、4五銀。
「そうか、その手があったか」
新田くんは、厚い胸板のうえで両腕を組んだ。
どうやら、この4五銀をうっかりしたらしい。次に3四銀〜4三銀成がある。
金銀の展開が遅いのは、先手だけじゃなかったってこと。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「打つしかない。4二桂」
以下、8六銀、5二銀と進んだ。
「ダイヤモンド美濃だ。どう崩す?」
新田くんは、自信満々にチェスクロを押した。
正直、自分の判断がよかったのかどうか、分からない。
4二桂を強要できた点は、明確に評価できる。
あの桂馬が活きなければ、実質的に駒得だから。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「7五歩」
とりあえず攻める。
「おっかないところを突いてくるな……同歩」
同銀、7四歩、6六銀、7三銀。
うぐッ……さすがに攻めが止まった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
時間がないッ! 1六歩ッ!
「ハハハ、手がないようだな。今度は俺の番だ。5五歩ッ!」
「それは甘いわッ! 5六歩ッ!」
突いてくれたおかげで、反発できた。再進撃。
「ダブルカウンターだッ! 4四歩ッ!」
殴り合いに突入した。
3六銀、5六歩、4七銀、4五歩、5六銀、5四桂。
いたたた、桂馬が戦線に復帰しちゃった。
このままだと、アドバンテージがなくなる。5七銀や7七銀はヌルい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5五銀左ッ!」
前進あるのみ。
「俺もまえに出る。4二飛」
ここぞとばかりに、私は2四歩、同歩を入れた。
さらに4五歩と取って、飛車道を遮断。
「こじ開けるぞッ! 5五角ッ!」
っと、切ってきた。好手? 暴発?
すぐには判断がつかない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同銀ッ!」
新田くんは、飛車を一回大きく空打ちした。4五飛と走った。
成り込みと銀当たりを同時に防ぐのは不可能。
っていうか、成り込みはもう防げないわね。4九飛成の王手は甘受する。
あとは、それをどう受けるか。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「7七角」
これが一番利いてるんじゃないかしら。
銀を守りつつ、4九飛成に5九歩と打つ余地を残している。
「そういう受けか……」
悩め悩め。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
案の定、4九飛成と王手してきた。
私は持ち駒の歩をひろう。
5九歩と打って……あ、でも、7九歩のほうがいいかしら。
金底の歩にしておけば、なにかあったときに角が動ける。
香車を拾われる心配は、当分ない。あったら7四香で死ぬけど。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「7九歩」
私は手堅いほうを選択した。
先手はバランスがとれていると判断したからだ。
手応えがある。
その証拠に、新田くんはむずかしい顔をしていた。
「6五歩と突きたいんだがなぁ」
こらこら、そういう読みを言わない。口三味線になるわよ。
それに、6五歩は6四歩があると思うんだけど。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
うわ、ほんとに指してきた。
成立してないでしょ、さすがに。
私はお茶を飲んで、ひと呼吸おいた。気合いが入る。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6四歩」
急所。6二金は5四銀で、6五歩の意味がなくなる。
金銀交換に応じるしかないはずだ。
「辛抱だな。同金」
同銀、同銀に、私は7六桂と打った。
「くそぉ、一手そっちが速い。跳ねるヒマがないぞ」
新田くんは、7五銀打と受けた。
6四桂、同銀としてから、私は読みを確認する。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「8四歩」
さあ、玉頭に殺到するわよ。
「ど、同歩」
「8五歩」
最後の継ぎ歩。だけど、同歩なら8四に金駒をおいて、受けがなくなる。
新田くんも、反撃してくるんじゃないかしら。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6六歩ッ!」
やっぱりね。でも、これは放置。
8四歩に6七歩成は、8三金、7一玉、8二角、6二玉、6四角成の詰めろ。
先手は7八とに同飛で詰まない。飛車が守りに利いてきた。
「8四歩」
「脱出する。7三玉だ」
私は6六金と手をもどした。
同桂、同角でも、まだ詰まない。飛車の横利きが強い。
となると、予想される次の手は――
「4八歩ッ!」
くッ、やっぱり遮断してきた。ここでうまい手が必要だ。
私は必死に考える。3連敗はイヤ。
……………………
……………………
…………………
………………ん? これが成立してる?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6五金ッ!」
「な、なにぃッ!?」
新田くんはのけぞった。でも、すぐに意味は分かるはず。
彼もまた、矢追くんたちに負けず劣らず強い。
「そ、そうか、5五角があるのかッ!」
4八歩と打たれたおかげで成立した筋だ。
例えば、6五同銀、5五角、6四歩なら8二角。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同玉は6四角、7三合駒、8三金、7一玉、7三角成で必至。
先手は詰まない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6六桂打ッ!」
あうあう、これがあったか。一筋縄では勝たせてくれない。
「同金」
私は桂馬を払った。ここから同桂、同角でも、まだ安全圏だ。
新田くんは腕まくりをして、盤面をにらんだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「えーい、突撃するッ! 8八歩ッ!」
同玉、8七歩、同金、6六桂、同角。
「ぐぅ、金銀が足らん……」
1枚どころじゃなく足りないわね。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6七金ッ!」
ヌルイッ! 詰めろでもなんでもない。
私は寄せを考えた。後手玉は、詰みがあっても全然おかしくない。
詰ます、詰ます、詰ます。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! 詰まないッ!?
「は、8三歩成ッ!」
時間稼ぎにちょうどいい……はず。
同玉に8四歩と打てば時間稼ぎになるのだ。歩はたくさんある。
「6二玉」
うわーん、取ってくれなかった。
もう詰むようにみえない。右側が広すぎる。
とはいえ、諦めたら試合終了。私も必死に読んだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「8四角打ッ!」
とりあえず王手しておく。単に8四角は、自陣の利きが減って危険と判断した。
「6三玉」
素早い反応。終盤のノータイム指しを心得ている。
そろそろ自陣に手をもどして……ん? 待ってよ。
私は持ち駒を確認した。金銀が2枚に桂馬が2枚――詰むのでは?
7三角成、同銀、同と、同玉と補充して6五桂と打てば、あるいは。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! 読みきれないッ!
「7三角成ッ!」
私は詰むほうに賭けた。というか、角は渡しても問題ない。
途中で方針転換もできるはず……いや、できないか……負けにしたかも。
「角成り?」
新田くんの手が止まった。私は高速で読みを入れる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同銀」
同と、同玉、6五桂。
桂馬を打った瞬間、私の心が軽くなった。
体で覚えた好打の感触。
6四玉なら詰む。5五銀、6五玉、5四銀、5六玉、4六金まで。
空中玉で捕まりにくいように見えて、そうでもない。
「6二玉ッ!」
当然そうくるわよね。私は続きを考えた。7三銀は微妙だ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5四桂ッ!」
これッ! 後手は前に出るしかないわよッ!
新田くんも顔色を変えた。
「な、7一玉は詰むッ……!」
正解。8二銀といきなり捨てて、同玉、7三金、8一玉、8二銀、9二玉、9三角成までの追い詰めだ。つまり、残された逃げ道は――
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「ろ、6三玉ッ!」
パシーン!
6四同玉なら5五銀以下、予定の詰み形。
「ぐぅ……5四玉」
5五金、4三玉、4四金、4二玉、5三銀。
この銀打ちがポイント。同銀なら同桂成で、金駒が増殖する。
3一玉、4二銀打、2二玉、3三金。
角を最大限に活かせた。
私はお茶を飲んで、相手の投了を待つ。
「お、俺が抜けることになるのか……負けました」
「ありがとうございました」
一礼して終了。新田くんは頭をかかえた。
そんなに悔しがる将棋? 公式戦でもなんでもないんだけど?
……………………
……………………
…………………
………………
ま、まさか、勝ったひとから私に声をかけるって約束なんじゃないでしょうね。
私は恐怖で腰を浮かしかけた。
「裏見ッ! 助けに来たぞッ!」
道場のドアが開いた。お客さんもふくめて、一斉にそちらをふりかえる。
松平は私をみつけると、一直線にこちらへ駆け寄った。
「裏見、ストーカーはどこだ? ……ん?」
松平は、矢追くんたちの存在に気づいた。矢追くんは、にっこりと笑って、
「ひさしぶり、でもないかな。個人戦以来だね」
と挨拶した。ずいぶんと気さくな感じだった。
「矢追、なんでここにいるんだ?」
「僕たちが、ストーカーの容疑者だよ」
松平は目を白黒させた。私も混乱する。
事情をたずねようとしたところで、客席の女性が立ち上がった。
「私から説明するわ」
女性はサングラスをはずした。
「は、速水先輩ッ!?」
場所:将棋サロン『駒の音』
先手:裏見 香子
後手:新田 元
戦型:後手角交換型四間飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4二飛 ▲6八玉 △8八角成
▲同 銀 △6二玉 ▲7八玉 △7二玉 ▲4八銀 △2二飛
▲7七角 △3三角 ▲9六歩 △9四歩 ▲8六歩 △4二銀
▲8七銀 △5四歩 ▲8八玉 △8二玉 ▲7八金 △7二銀
▲2五歩 △6四歩 ▲4六歩 △5二金左 ▲4七銀 △6三金
▲5六銀 △7七角成 ▲同 桂 △7四歩 ▲6六歩 △7三桂
▲8五桂 △同 桂 ▲同 歩 △3三角 ▲5八金 △6六角
▲8九玉 △5一銀 ▲6七金右 △3三角 ▲4五銀 △4二桂
▲8六銀 △5二銀 ▲7五歩 △同 歩 ▲同 銀 △7四歩
▲6六銀 △7三銀 ▲1六歩 △5五歩 ▲5六歩 △4四歩
▲3六銀 △5六歩 ▲4七銀 △4五歩 ▲5六銀 △5四桂
▲5五銀左 △4二飛 ▲2四歩 △同 歩 ▲4五歩 △5五角
▲同 銀 △4五飛 ▲7七角 △4九飛成 ▲7九歩 △6五歩
▲6四歩 △同 金 ▲同 銀 △同 銀 ▲7六桂 △7五銀打
▲6四桂 △同 銀 ▲8四歩 △同 歩 ▲8五歩 △6六歩
▲8四歩 △7三玉 ▲6六金 △4八歩 ▲6五金 △6六桂打
▲同 金 △8八歩 ▲同 玉 △8七歩 ▲同 金 △6六桂
▲同 角 △6七金 ▲8三歩成 △6二玉 ▲8四角打 △6三玉
▲7三角成 △同 銀 ▲同 と △同 玉 ▲6五桂 △6二玉
▲5四桂 △6三玉 ▲6四歩 △5四玉 ▲5五金 △4三玉
▲4四金 △4二玉 ▲5三銀 △3一玉 ▲4二銀打 △2二玉
▲3三金
まで127手で裏見の勝ち