71手目 クリア
……………………
……………………
…………………
………………完全に終わった。
後手は、王様のふところが広くなった。もう寄らない。
「ま、負けました」
私はがっくりとうなだれた。
矢追くんは、あれッ、という顔をする。
「ん? 粘らないの?」
「粘りようがないと思うんだけど……」
「それも、そっか。ありがとうございました」
矢追くんも一礼した。私は首をかしげる。予想以上に悪くした。
「どこが悪かった?」
「あ、ごめん、さっきも言ったけど、うしろがつかえてるんだよね」
矢追くんは一方的に立ち上がった。そして、うしろのふたりを見やる。
「僕はクリアだよ。次はどっちが指す?」
メガネの少年と大柄な少年は、おたがいに顔を見合わせた。
そして、大柄な少年が動きかけた瞬間、メガネの少年が右手をあげた。
「僕が指します」
「勉から? 変わった風の吹き回しだね」
メガネの少年は、黙って矢追くんとバトンタッチした。
「よろしくお願いします」
「よ、よろしく」
新たな挑戦者に、私は戸惑った。
だけど、それ以上に気になったのは、さっきの矢追くんの台詞だ。
クリアだよ――もしかして、なにか賭けてる?
「振り駒は、僕がやったほうがいいですか?」
少年にたずねられて、私はハッとなった。
「ご、ごめんなさい」
私はとりあえず振り駒をした。
「裏見さんの歩が5枚で、僕の後手ですね。チェスクロはそのままでけっこうです」
少年はそう言って、メガネのつなぎ目部分をおしあげた。
「それでは、よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
私が一礼すると同時に、つとむくんはチェスクロを押した。
私はいつもどおり7六歩。2手目に、つとむくんは小考した。
「8四歩」
むッ、さっきの対局に触発された? 角換わりに誘導してる?
私は無視して6八銀とあがった。
「矢倉ですか。それでもいいです。3四歩」
6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀、4二銀、5八金右、3二金。
私は悩んだすえ、早囲いを放棄した。
非公式戦で研究を公開しても、しょうがない。そう思ったからだ。
7八金、4一玉、6九玉、7四歩、6七金右、8五歩、7七銀。
「攻めます。5五歩」
速攻? しまった、雰囲気からしておとなしめかと……見た目で判断ダメ……。
とはいえ、攻め合いはむしろ私の得意分野だ。ひきずりこむ。
「5七銀ッ!」
「なるほど、手拍子で同歩とはしませんか。5三銀右です」
5五歩、同角、5六銀、7三角、5八飛。
これで一気につぶす。
「それはこう受けます。4四銀」
ふむふむ、5五銀なら同銀で銀損だ。受けになっている。
私は7九角と引いて、展開をはかった。
5五歩、6五銀、8四飛、9六歩、3一玉。
ここで4六角とはできない――私は残り1秒まで考えた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「9七角」
どう? 手損したけど、この筋は読んでいないはずだ。
以下、7五歩、同歩、7四歩を狙っている。
つとむくんは、メガネをあげた。
「ふぅむ、これは意外な構想。おもしろいです」
感心してる場合じゃないでしょ。時間がなくなるわよ。30秒将棋。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
つとむくんは、9四歩と突いた。悠長ね。
私は7五歩を決行する。
同歩、7四歩、6二角、7五角、8二飛。
「7九玉」
私は王様を入った。攻めの拠点を作って十分と判断したからだ。
「その攻めは、すこし反動がきついですよ」
「そう?」
「ええ、この一手で困ります」
パシリ
ん? 角ぶつけ? それは後手のほうが困るんじゃないかしら。隙が多い。
「同角」
「同飛」
私は持ち駒の角に指をそえた。打ち場所を考える。
……………………
……………………
…………………
………………
あれ? 打ち場所がない?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私はぎりぎりのところで、8八玉とあがった。
「6二金」
金をあがられた。でも、角の打ち場所はない。
どうやら、後手陣は思ったよりもバランスがいいようだ。
私は方針を変更することに決めた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「1六歩」
端に手をかける。1五歩〜1四歩に角を絡める算段だ。
「1四歩」
受けた? 話がうますぎる。もしかして、罠なのかしら。
でも、端だけで罠をかけるのはムリがある。
おそらくは、後手も動かす駒がないのだろう。動かせば角を打たれるから。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「1五歩」
私は攻めた。
同歩、1四歩、同香、3六角。
5四銀〜6三銀成もみてるけど、ちょっとムリがあるかしら。
銀を渡すと、6九銀の割打ちが生じてしまう。
「7五歩」
反撃の拠点を作りましたか。
私は29秒まで使って、1八飛と加勢させた。
「5三金」
金あがり? また悠長な……じゃないッ! 6四歩で銀が死んでるッ!
7五歩は、攻めの拠点を作ってるだけじゃなかった。銀挟みだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「1四角ッ!」
「じゃあ殺しますね。6四歩」
「こっちのほうが速いわよッ! 2六香ッ!」
香子ちゃんの香車、炸裂。
2三香成以下で、後手陣が崩壊する。
「顔面受けします。2二玉」
ん? 1五飛で、どうするの? 2三香成、同金、同角成、同玉、1一飛成で崩壊……あッ、先に1三歩と打つつもりね。1五飛、1三歩以下、飛車成が封じられてしまう。
だったら、こっちが先着させてもらうわ。
「6四銀」
まずは歩を回収。
「狙いはミエミエですが、これは取るしかありません。同金」
私は取ったばかりの歩を、小気味よく1三に打った。
「それはこれで止まります。1六銀」
直接的に止めてきた。
次に2七銀成〜2六成銀だと困るから、私は2八飛と寄った。
「1三桂」
銀を見捨てた? 1六香で?
……………………
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…………………
………………
清算したあと、7六香と打たれると困るか。香車は渡さないほうがいい。
「7三歩成」
攻める方向を変える。
「なかなか臨機応変ですが、さすがに続きません。同桂」
なーに言ってんのよ、繋げてみせる。
私は力強い手つきで、3六角とさがった。
「6三歩」
つとむくんは、冷静に角筋をとめた。
私は4六歩と追撃する。3五銀、4七角、4六銀。
「どうしました、裏見さん? ずいぶんと凹まされましたよ?」
ここまでは予定どおり。その値踏みするような言い回し、やめてちょうだい。
「1四角」
「ふむ……もとの位置にもどりましたか……これも予定どおり?」
私は返事をしなかった。つとむくんは、メガネを上げ下げする。
「手渡しされると、攻めたくなりますが……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
つとむくんは、静かに7六歩と伸ばした。
「同銀」
「7五歩。6五銀とぶつけますか?」
「5三歩」
私は間髪おかずに歩を打った。
それまで背筋を伸ばしていたつとむくんは、はじめて前かがみになった。
「これは……あッ、なるほどッ!」
さあ、つとむくん、どうする?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「取らざるをえませんッ! 同銀ッ!」
私は飛車をスライドする。
本日会心の組み合わせ。
3五銀と逃げたら、2三香成、同金、同角成、同玉、4三飛成だ。
さすがにこれは先手勝ち。後手は銀を見捨てるしかないはず。
「少々甘くみていましたね……」
今さら遅い。後悔、先に立たず。
「しかし、まだ立てなおせます。7六歩」
これも予想どおり。問題は、私が4六飛と走ったあとだ。
そこで後手に攻め筋がないとも言い切れない。
矢追くんのときと同じで、私はつとむくんにも、かなりの実力を感じていた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
私は慎重に4六飛とした。
つとむくんは、メガネのフレームに指をそえた。
そのかっこうで、持ち時間を使いきる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「2五銀打」
これは……あッ! 角が死ぬッ!
放置は1四銀で、2五同香も同銀が角当たりだ。
この重い受けは、みえていなかった――けど、矢倉なら致命傷とはいえない。
1四の角が生きているうちに崩す。
「同香」
同銀、1五香で、私は攻め駒を加えた。
「1四銀、同香は、かえって危ないですか……8六歩」
同歩、8七歩、同金。
つとむくんは、軽快に継ぎ歩をした。
玉頭の圧が強い。思った以上に。
4一銀と引っかけるか何かしたい。でも、その余裕がない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同歩」
つとむくんは、再度8六歩と叩いた。これも取るしかない。
同金、8五桂、7六金右。
「これが痛いのではないでしょうか。6八角」
痛い……けど、まだ粘れる。
「4八飛」
「7一香」
角を見捨てた。さっきの私と同じことをしてきている。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は迷ったあげく、6八飛と取った。これ以外に思い浮かばなかった。
「まあ、それが妥当ですよね。7六香」
8七銀(7七歩は7七桂成、同桂、8六飛がある)、7七金、9八玉。
端に追い詰められた。裏見香子、粘れぇ。
「飛車を取るとして、そのあとをどうするか……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「取ってから考えます。6八金」
7六金、1四銀、同香。
私はチェスクロを押す。次に8六歩と打ちたい。
そのまえに飛車を打ち下ろされると仮定して、どこに打たれるか。
本命は1八飛だと思う。つとむくんも、持ち駒の飛車を手にスタンバイしていた。
「……あ、僕、勘違いしてました」
ん? 持ち駒を置いた? 飛車を打たないの?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
……………………
……………………
…………………
………………
「し、しまった……詰んでる……」
同桂は8九角以下、同玉は8七飛成以下だ。
6四の金が、最後に活きてしまった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負けました」
私は頭をさげた。
「ありがとうございました」
つとむくんも一礼して、メガネをなおした。
「最後、受けないとダメだったわね」
私は癖で感想戦を始めた。アルバイトには、それが義務付けられていたからだ。
けど、つとむくんはすぐに椅子をひいた。
「これで僕もクリアです。次で最後ですね」
……ん、そうだ。思い出した。この3人、なにか賭けてるっぽい。
「ねぇ、さっきからクリアって言ってるけど、どういう意味?」
声をかけられて、つとむくんは振り返った。
「それはお教えできません。ただ、ひとつ言えるのは……」
つとむくんは、メガネの奥で目を光らせた。
「次の3人目で最後、ということです」
つとむくんは、それだけ言って矢追くんたちのところへもどった。
大柄な少年が、こぶしをにぎって指の骨を鳴らしている。
なにを話しているのか分からない。けど、やはり3人は知り合いのようだ。
私はすぐさま席を立って、トイレに駆け込んだ。
場所:将棋サロン『駒の音』
先手:裏見 香子
後手:矢追 康一
戦型:後手右玉
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △3二金 ▲7八金 △8五歩
▲7七角 △3四歩 ▲8八銀 △7七角成 ▲同 銀 △4二銀
▲3八銀 △6二銀 ▲4六歩 △6四歩 ▲3六歩 △3三銀
▲6八玉 △6三銀 ▲3七桂 △4二玉 ▲1六歩 △1四歩
▲9六歩 △9四歩 ▲4七銀 △7四歩 ▲4八金 △7三桂
▲2九飛 △6二金 ▲5六銀 △6五歩 ▲2五歩 △8一飛
▲7九玉 △5四歩 ▲4五桂 △4四銀 ▲2四歩 △同 歩
▲同 飛 △2三歩 ▲2九飛 △6四角 ▲4七銀 △5二玉
▲5八金 △7五歩 ▲同 歩 △同 角 ▲5六銀 △6四角
▲6六歩 △4六角 ▲4七金 △2四角 ▲4六歩 △6六歩
▲同 銀 △6四歩 ▲6七銀 △7四歩 ▲7七桂 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲8七歩 △8一飛 ▲5六金 △4二角
▲6八玉 △9五歩 ▲同 歩 △9六歩 ▲7五歩 △同 歩
▲6五歩 △9七歩成 ▲同 香 △7六歩 ▲同 銀 △6五歩
▲6四歩 △同 銀 ▲6五桂 △4一玉 ▲2二歩 △7七歩
▲同 金 △6五桂 ▲同銀直 △7五歩 ▲2一歩成 △7六歩
▲同 銀 △7五歩 ▲6七銀 △4七銀 ▲7四角 △6三歩
▲6六金寄 △6五桂 ▲同 金 △同 銀 ▲同 角 △4五銀
▲4七角 △4六銀 ▲7四桂 △5二金 ▲7三桂 △7六桂
▲5八玉 △6八金 ▲4八玉 △6七金 ▲同 金 △8七飛成
▲6八歩 △3七銀打 ▲5八玉 △4七銀不成▲同 玉 △3八角
▲3七玉 △2九角成 ▲3八銀 △1九馬 ▲2八歩 △6四角
まで132手で矢追の勝ち
場所:将棋サロン『駒の音』
先手:裏見 香子
後手:大河内 勉
戦型:矢倉急戦
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀
▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △4二銀 ▲5八金右 △3二金
▲7八金 △4一玉 ▲6九玉 △7四歩 ▲6七金右 △8五歩
▲7七銀 △5五歩 ▲5七銀 △5三銀右 ▲5五歩 △同 角
▲5六銀 △7三角 ▲5八飛 △4四銀 ▲7九角 △5五歩
▲6五銀 △8四飛 ▲9六歩 △3一玉 ▲9七角 △9四歩
▲7五歩 △同 歩 ▲7四歩 △6二角 ▲7五角 △8二飛
▲7九玉 △8四角 ▲同 角 △同 飛 ▲8八玉 △6二金
▲1六歩 △1四歩 ▲1五歩 △同 歩 ▲1四歩 △同 香
▲3六角 △7五歩 ▲1八飛 △5三金 ▲1四角 △6四歩
▲2六香 △2二玉 ▲6四銀 △同 金 ▲1三歩 △1六銀
▲2八飛 △1三桂 ▲7三歩成 △同 桂 ▲3六角 △6三歩
▲4六歩 △3五銀 ▲4七角 △4六銀 ▲1四角 △7六歩
▲同 銀 △7五歩 ▲5三歩 △同 銀 ▲4八飛 △7六歩
▲4六飛 △2五銀打 ▲同 香 △同 銀 ▲1五香 △8六歩
▲同 歩 △8七歩 ▲同 金 △8五歩 ▲同 歩 △8六歩
▲同 金 △8五桂 ▲7六金上 △6八角 ▲4八飛 △7一香
▲6八飛 △7六香 ▲8七銀 △7七金 ▲9八玉 △6八金
▲7六金 △1四銀 ▲同 香 △9七桂成
まで112手で大河内の勝ち