70手目 チャレンジャーたち
心地よい5月末の夜。
昇級を決めた私は、意気揚々とアルバイトに出かけた。
宗像さんという女性が席主の、将棋道場だ。
仕事帰りのおじさんや小学生たちと対局。職場は清潔、かつ、にぎやかだった。
30秒将棋のときもあれば、10分くらい持ち時間をつけることもある。
公式戦が続いていたから、いい息抜き。将棋は勝ち負けだけじゃないわよね。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負けました」
「ありがとうございました」
またひとり、いたいけな少年を倒してしまった。
短パン半袖の少年は、両腕を後頭部で組み、チェッと漏らした。
「なんで裏見姉ちゃんに勝てないんだろ。学校だと無敵なんだけどなぁ」
そりゃ高校県大会優勝経験者ですよ。舐めてもらっちゃ困る。
私は感想戦を終えて、次の手合いを待った。
手合いはすべて、受付にいる宗像さんが決めていた。要領は完璧。
ストレスも溜まらない。変なお客さんがいないからね。
「こんにちはぁ」
あらわれたのは、黄色のポロシャツにジーンズの少年だった。
高校生? 大学生? どちらもありそう。
ちょっと童顔で、ノリの軽そうな雰囲気があった。
「こんにちは、どうぞ座ってください」
私は席をすすめた。
少年は腰をおろして、王様をちょんちょんする。
「30秒将棋でいいかな?」
ほぉ、いきなりタメ口ですか。いや、べつにいいんだけど。
ただ、馴れ馴れしすぎないかな、と。初対面なら、もっと気をつかって欲しい。
「ここの道場はマナーがいいね。対局後に、駒を並べなおしてる」
「席主が真面目なひとですから」
「あ、裏見さんもタメ口でいいよ」
了解。そっちのほうが助か……る? ん? 私の名前を知ってた?
手合いで聞いたのかしら。初見には教えないって言ってた記憶があるけど。
「もう一回訊くけど、30秒将棋でいい? うしろが詰まってるんだよね」
「え、ええ」
そんなにお客さんいたっけ?
私は、少年の肩越しに向こうをみた。
すると、分厚いメガネをかけた細身の少年と、体格のいい大柄な男性が、椅子をこらちにむけて待機していた。見たことのないメンツだった。しかも、少年たちは、おたがいに顔見知りのような雰囲気をしていた。なんとなく伝わってくる。
大学生のグループに、まとめて指名された?
ヤダなぁ。今までこんなことはなかった。
私は違和感をおぼえながら、振り駒をすませた。
「歩が3枚で、私の先手ね」
相手の少年は、左側にあったチェスクロをもちあげて、右に置きなおした。
空中でクルリと回転させるさまが、なんとも手馴れていた。
「裏見さん、ひとつお願いがあるんだけど」
「なに?」
変なお願いはダメよ。勝ったらデートして、とかはNG。
そういう誘いをした時点で出禁になる。席主の宗像さんはセクハラに容赦しない。
「本気で指して欲しいんだよね」
……………………
……………………
…………………
………………え?
「手抜きはしないわよ」
相手の少年は、アハハと笑った。
「ごめんごめん、それならいいや。バイトだと、てきとうに指すひとがいるからね」
変なの。まぁ、席料を払ってテキトウに指されたらイヤなのは分かる。
私がそんなことを思うなか、少年はチェスクロを押した。
「それじゃよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
おたがいに一礼して対局開始。私は7六歩と突いた。
「そういえば、自己紹介が遅れたね。僕は矢追。矢印を追う、だよ」
矢追くんは、わざわざ漢字を教えてくれた。
「裏見さんは居飛車党だよね。8四歩」
えぇ……棋風まで調べてあるの?
まさかストーカー……裏見香子、上京後最大のピンチなのでは……松平に電話して迎えにきてもらわないと、怖くて帰れない……それから警察……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私はあわてて2六歩とついた。
「3手目から長考とは、ほんとに本気なのかな」
矢追くんは冗談めかした。
3二金、7八金、8五歩、7七角、3四歩、8八銀、7七角成。
角換わりになった。
同銀、4二銀、3八銀、6二銀、4六歩、6四歩、3六歩。
どうやら素人ではないらしい。
定跡をきちんとおぼえている。手つきもしっかりしていた。
冷やかしじゃない。私は慎重を期す。
3三銀、6八玉、6三銀、3七桂、4二玉。
「1六歩」
「1四歩」
「9六歩」
「9四歩」
端を受け合ってから、4七銀、7四歩、4八金、7三桂。
私の手がとまった。
最近流行りの6六不突き型になったからだ。
相手もおなじかっこう。最新形を所望されている。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「2九飛」
今度は矢追くんの手がとまった。
「手抜いてくれって頼んだほうがよかったかな」
今さら過ぎるし、頼まれても手抜かないわよ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6二金」
私は黙って5六銀。腰掛けた。
「意地のはりあいをしてもしょうがない。そろそろ突こうか。6五歩」
圧迫してきた。でも、これは怖くない。
私は29秒ぎりぎりまで考えて、2五歩と伸ばした。
8一飛、7九玉、5四歩(!)、4五桂、4四銀。
5四歩は意外だった。5一飛と回るつもり?
こっちのほうが圧倒的に速いわよ。
「2四歩ッ!」
同歩、同飛、2三歩、2九飛、6四角
角を手放した? なんで? 4六歩は簡単にガードできるわよ?
ピッ
うッ、時間がない。
ピッ、ピッ、ピーッ!
「4七銀」
私はひとまずバックした。手がないとみたからだ。
矢追くんは、ちょっとかわいらしい顔に、黒い笑みを浮かべた。
「そろそろ気づいてもいいんじゃないかな、この戦型。5二玉」
……………………
……………………
…………………
………………右玉ッ!?
「30秒将棋で角換わり後手番を持つほど、自信家じゃないんだよね、僕」
完全に予想外だった。でも、これって成立してる? 王様は右にいないでしょ?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5八金」
「アハハ、安心していいよ。これは攻めの右玉でもあるから」
矢追くんは7五歩と攻めてきた。右玉のウィークポイントだ。
口三味線で、やっぱり右玉じゃないんじゃないの?
私は混乱する。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「7五同歩ッ!」
同角、5六銀、6四角、6六歩、4六角、4七金、2四角。
なにこれ……完全に翻弄されてる。
こんな角の乱舞、見たことない。しかも、バランスがとれていた。
私は矢追くんの顔をちら見した。
「ん〜♪」
鼻歌なんか歌っちゃって。こいつ、舐めてるわね。
私は忿怒した。けど、まずは5七の地点を受けないとマズい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「4六歩」
6六歩、同銀、6四歩、6七銀、7四歩、7七桂。
「攻めどきかな、8六歩」
これは同歩しかない。
おそらく同歩、同飛、8七歩、8一飛で、そのあとが問題。
6八玉と上がりたいけど、9五歩がある。同歩以下で潰れそう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同歩ッ!」
同飛、8七歩、8一飛。
私は悩んだ。29秒ぎりぎりで5六金と上がる。
すぐに攻めてくるかと思ったら、矢追くんは4二角と引いた。
私はまかないのお茶を飲んで、王様に指をそえる。
「6八玉」
相右玉もどきになった。もうわけが分からない。
「変なかたちになったなぁ」
矢追くんは、イチゴ牛乳のパックをとりだした。
てっとりばやくストローを刺して、口にくわえる。
「んー、9五歩」
やっぱりそこか。同歩、9六歩の垂らしでまちがいない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同歩」
「9六歩。反撃しないと一方的になるよ」
そんなこと分かってるわよッ! 香子ちゃんを見くびらないでッ!
「7五歩ッ!」
ここから攻め返す。
「同歩、6五歩、同歩、同桂、同桂、同金は、9七歩成で先手が困るよ?」
くッ、ひと目か。この少年、何者なの。
最後の9七歩成は、微妙にみえてなかった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同歩」
私は6五歩と置いた。
同歩なら同桂じゃなくて一回6四歩と叩く。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
以下、同銀でも同角でも6五桂。さっきの9七歩成の筋は効かない。
6六歩と攻め合うのは、6三歩成が王手。こっちのほうが速い。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「9七歩成」
おっと、先に成り捨ててきた。
同香、8五桂の単純な攻め切り替えたのかしら。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同香」
腕が交差するように、7六歩と伸ばされた。
私は狙いがみえず、混乱する。桂頭は予想していなかった。
29秒まで考えて、同銀と取った。
6五歩、6四歩、同銀、6五桂。
「うーん、ちょっと失敗したかな。6四歩がいい手だった」
でしょ。けっきょく、私の読み筋と近いかたちになった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「こう」
ん? 王様を逃げた?
先手優勢なのでは。私は自信をもって2二歩と打った。
「7七歩」
同金じゃなかった。けど、これは正解っぽい。2二歩を相手すると壁金になる。
「7七同金」
6五桂、同銀直、7五歩、2一歩成、7六歩、同銀、7五歩。
乱打戦になった。
「6七銀」
「4七銀」
……どっちがいいの?
王様は私のほうが薄い。でも、後手の右玉形は、崩れるときは一気に崩れる。
6六金と寄りたいんだけど……6五歩で非常に困る。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私はいったん7四角と打った。王手だ。
6三歩と受けさせて6五歩を不能にする。
「6六金」
これで角が4七の銀に当たった。3六銀成なら攻めが切れる。
「歩を打てないなら桂馬を打つよ。6五桂」
え? 駒損の攻め? 同金、同銀、同角で?
銀当たりなのは変わらないはず。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
同金、同銀、同角。
「4五銀」
ぐぅ、さっきから読みが合わない。
今度は4七の銀をとるか4五の銀をとるかの選択を迫られた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「こっちッ! 4七角ッ!」
矢追くんは4六銀とすり込んだ。私はチャンスとみる。
後手玉は、左右挟撃にすれば簡単に寄る。
「7四桂ッ!」
これで寄せる。
「反撃されちゃったか……でも、簡単には寄らないよ。5二金」
7三桂、7六桂、5八玉、6八金、4八玉、6七金。
あれ? こっちが攻められてる?
同金、8七飛成、6八歩、3七銀打、5八玉。
ま、マズいッ! 攻めが止まらないッ!
4七銀不成、同玉、3八角、3七玉、2九角成、3八銀、1九馬、2八歩。
ぼ、ぼろぼろ……だけど、まだ後手も危ない……はず……。
「ふぅ、これでひと段落かな」
矢追くんは、わざとらしくひたいの汗をぬぐった。
そして、4二の角に指をそえた。
「これが攻防だよね。6四角」