68手目 格上の指し方
会場内は静まり返っていた。心地よい緊張感。
駒とチェスクロの音だけが響く。ときどき空咳。
「……3六歩」
私は一番無難な手を選択した。
奇を衒わないほうがいいと思ったからだ。
「7三桂」
宮台さん、かなりの積極策。
格上相手に入りやすそうなかたちを選んできた。
おそらく、個人戦で松平に負けたのが原因でしょうね。
私のほうが松平より戦績がいい。警戒されている雰囲気を感じた。
だったら、こっちにも考えがあるわよ。
「4六歩」
相手が準備していなさそうなところを突く。
宮台さんも考え込んだ。
「んー、これは読みになかった……」
私はお茶のキャップを開けた。ひと口飲む。
攻勢に対する守勢。受けていなす方針にしてみた。どうかしら。
殴り合いという手も……ただ、このあたりはミーティングで注意されていた。房総商科相手に、5−2は難しいって。三宅先輩は、2位の南稜と1位の房総のレーティングを比較して、そう結論づけていた。風切先輩のお墨つき。
「4四歩」
「7九角」
宮台さんは、黙って5二金とあがった。
矢倉中飛車ではないわけか。だったら、こっちも普通にいきましょう。
6八角、4三金右、7九玉、3一角、3七桂、4二角、4七銀、1四歩。
「9六歩」
「1五歩」
うぐッ、詰められた。9四歩、1六歩の予定だったんだけど。
こうなったら、詰めさせてもらいましょう。一方的に端が狭いのは損だ。
「9五歩」
3一玉、8八玉で、私は入城した。宮台さんも2二玉と続く。
飽和した感があるわね。守勢に回ったつもりが、相手も合わせてきた。
こうなると、先手の利を活かしたくなってくる。
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ん? ちょっと待って。これ、先手が良くない?
4五歩、同歩、3五歩、同歩、同角で、どうするの?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
4四銀なら3六銀(!)と加勢できる。
以下、3五銀、同銀のとき、後手陣へのプレッシャーが極めて大。
例えば、3四歩には4四歩、3三金寄、4五桂がある。
かと言って、放置も4四歩、3三金寄、3四銀打がある。
途中に紛れはない。一直線の展開だ。
見落としがないかどうか1分ほど考えて、私は4五歩と開戦した。
「過激だなぁ」
宮台さんは、大きく息をついた。
そして、同歩と取った。
「3五歩」
同歩、同角、4四銀、3六銀。
「じょ、序盤で角を捨てるのか?」
捨てます。っていうか、矢倉だとこの角銀交換はよくある。
矢倉は、駒損しても攻めが続く戦型の筆頭候補だ。
「3五同銀、同銀が悩ましいな……」
宮台さんは、ようやく気づいたらしい。長考し始めた。
この時点で、時間差がけっこうついていた。
私は残り22分。宮台さんは15分しかない。
ちょっと順調すぎるわね。なにかのフラグじゃなきゃいいけど。
「しかし、これしかないな。3五同銀だ」
同銀、3四歩、4四歩、3三金寄、4五桂、3五歩、3三桂成、同玉。
顔面受けしてきた。
ここは時間を使いたい。持ち時間競争をしてるわけじゃないんだし。
この顔面受けは、4三銀対策だ。3三同玉のところで同金は、4三銀、同金、同歩成の挟撃形。先手が必勝の体勢になる。ただ、この同玉も、4八飛くらいで崩壊してないかしら。放置は4三金で終わるから――ん、そうでもない。2五からの脱出経路がある。
それに、さっきから気になっていることがあった。桂馬を渡してしまったことだ。次に8六桂と突っ込んでくる可能性がある。以下、8六同歩、同歩のかたちは、かなり怖い。後手玉は確実に仕留めないといけない。あまり悠長な攻めはダメ。
私は前のめりになって、一心不乱に読みを入れた。
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4八飛よりも、2四歩、同歩、4三銀かしら。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
こっちのほうが安全だと思う。
次に3四金、2二玉、2四飛という攻めがあるから、後手は対応が必須。
おそらくは4三同金、同歩成、同玉でしょうね。
そこで決め手を放てば勝ち。
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あれ? 手がない?
さすがにあるでしょ。金2枚に飛車が生きてるのよ。
私はお茶を飲みなおした。もういちど考える。
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やっぱりない。しまった。
いや、正確に言うと、ないわけじゃない。ゆっくりでいいなら、いくらでもある。
でも、次の8六桂が強烈に厳しい。矢倉が残っているとかいう問題じゃなかった。
私は考える。必死に考える。だけど、ないものはない。それが将棋。
宮台さんのほうは、だんだん顔色が良くなってきた。
どうする? 4三同玉のあと、4五歩とごまかして置いてみる?
ただ、宮台さんの棋力だと、ごまかせないように思う。
「……2四歩」
同歩、4三銀、同金、同歩成、同玉、4五金。
ひねった手。4五歩は4四歩で消えるけど、これは消えない。
しかも、狙いが見えにくいはずだった。
「ぼんやりした手だな……」
よし、時間を使ってちょうだい。
宮台さんは、腕組みをして盤をにらんだ。
どちらかと言うと、こちらの王様を見ている。多分、8六桂。
ここまでの宮台さんの指し方からして、この手には気づくはず。
「うーん」
宮台さんは左袖をまくって、ごしごしとやった。
だいぶ汗ばんでいる。宮台さんは宮台さんで苦しいようだ。
おたがいに団体戦のプレッシャーを感じていた。
「……一回受けるぞ。4四歩」
え? これはちょっと意外――形勢の天秤が、こちらに若干もどった感触。
なにかイヤな筋があったのかしら。4四歩を嫌ったのか、それ以外か。
私は3四金打として、5二玉に4四金直とした。
歩をもらえた。しかも、金の位置で得をしたように思う。
「よし、8六桂」
うーん、よく分からない。4四歩は入れないほうが良かったんじゃないかしら。
宮台さんは、ずいぶん自信があるらしい。うんうんと何度もうなずいていた。
あんまり忖度しても、しょうがない。続きを考える。
この8六桂は、放置できない。単に7八桂成なら同玉でいい。でも、6九銀と引っ掛けられるとか、4六角と打たれるとか、イヤな筋が多い。素直に8六同歩、同歩、同銀、同飛、8七歩と収めたほうが楽だ。宮台さんも、この順は読んでいるはず。
問題は、8七歩、8二飛と引いた局面。手番は私。これを宮台さんが、どう見るか。悪いとみるなら、8六同銀に同飛じゃなくて、他の手を指してくる可能性が高い。例えば、8五歩と高めに押さえて、7七銀に8六銀――いや、ちがう。8五歩のまえに8七歩と打って、同金、8五歩、7七銀、8六銀だ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これが一番厳しい。8六の銀は取ると被害が拡大する。つまり……4三金右と突っ込むしかないわね。これがあるから、4四歩は良くなかったと思うんだけど。4四歩、3四金打、5二玉、4四金直とさせなければ、この4三金右はなかった。
まあ、今さら相手の手をどうこう言っても、しょうがない。こちらが一番危ない順だけを読んでいく。まず、4三金右には6一玉としてくるはずだ。角のヒモがなくなるけど、5一玉、4二金、同玉は王様が危なくなる。宮台さんが5一玉と引いてくれたら恩の字、くらいの感覚で。とりあえず、6一玉と仮定。ここで慌てて4二金は、同飛でこちらの攻めが切れそう。8三歩と打ちたい。
同飛、4二金で、後手には2つ選択肢がある。
【候補A 8七銀成、同玉、8六銀】
【候補B 4六角】
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
どちらかと言えば、Bのほうがイヤ。Aは7八玉と引いて、7七銀成、同桂、8六歩、8八歩と受けるスペースを作れば受かる。8七金と重く打つのは駒が足りない。Bは挟撃形になっているうえに、飛車当たりだ。2九飛としないといけない。以下、8七銀成、同玉、8六銀、7八玉、7七銀成、同桂、8六歩、8八歩に、5八銀が本命。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これを回避できれば、さっき読んだ順でいい。できないなら要再考。
私はお茶で水分補給して、念入りに読んだ。
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5七桂で止まってそうかな。3七角成とヌルく来たら、5三金と入る手が詰めろだ。6二銀、7二玉、6一角、8二玉、8三角成、同玉、8三銀成、同玉、8五桂として、8三玉と横にスライドするのは、7三飛、8二玉、9四桂(!)、同歩、9三銀、同香成、同桂成、8一玉、8三香、9一玉、8二香成まで。8五桂に8三玉以外も全部詰む。
考えないといけないのは、3七角成じゃなくて4七金。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは詰めろ。6七銀成、同玉、5七金、7八玉、6八金、8九玉、7八金打、9八玉の瞬間に8八金と捨てて、同玉、8七歩成、8九玉、8八とまでだ。
ということは、受けないいけない。6八銀かしら。でも、6七銀成、同銀は5七金で詰めろが継続しちゃうし、同玉は8七歩成、同歩、同飛成で挟まれてしまう。後手に銀か角か桂馬(桂馬も7五桂、同歩、7六金の詰みがある)を渡さなければいいわけだけど――さすがに詰むんじゃないの? 8七飛成自体は2手スキだから、5三金と入って7八金、6二銀、7二玉、6一角、8二玉、8三銀、8一玉……あれ? 打ち歩詰め?
嘘、これが詰まないの? じゃあ、6八銀の受けが成立してない?
私は若干あせった。と同時に、別の手を模索した。
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あ、代わりにこっちがあるわね。うん、大丈夫そう。
私は最後に30秒だけ確認した、残り10分を切ったところで着手する。
「8六同歩」
同歩、同銀、8七歩、同金、8五歩、7七銀、8六銀、4三金右。
「6一玉、と」
宮台さんは、余裕のオーラで王様を逃げた。
どっちかが読み間違っている予感。
私は深呼吸して、8三歩と飛車を叩く。
同飛、4二金。
「これで、どうだッ! 4六角ッ!」
「それは読み切りですよッ! 2九飛ッ!」
8七銀成、同玉、8六銀、7八玉、7七銀成、同桂。
読みが完全に一致している。速い速い。
8六歩、8八歩、5八銀、5七桂――問題の局面になった。
宮台さんは、駒台から金を持ち上げた。
「こっちが先に詰めろだな。4七金」
よし――私は内心うなずいて、次の手を指した。




