61手目 羨ましい環境
さてさて、後手はそんなに手がないと思うんだけど……っと、指した。
ふぅむ……これは、手待ちっぽい。プラスアルファ、戦場から遠ざかった感じかしら。
吉とも出そうな手だし、凶とも出そうな手。
私は対応をじっくりと考える。まだ15分を切ったばかりで、時間はあった。
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5四歩と仕掛けても、いいんじゃないかなぁ。そこで、先手には2つ選択肢がある。
ひとつは、5四同歩と素直に取って、同銀、5五歩と収めるやりかた。これは、次に4五銀、同銀左、同桂、同銀、6八角成、同玉の進行が安全な場合限定。実際、この桂損の攻めは、成立しているかどうかあやしい。
もうひとつは、5四歩に同歩と取らないで、べつの手を模索すること。例えば……8五歩とかは、ありそうなのよね。飛車をどこへ移動させるか。8一飛と9四飛の2択だと思うんだけど……前者は横利きの消滅が気になる。後者は飛車が狭いから、9六歩〜9五歩で死んでしまう。
私はひと通り考えて、とりあえず打診してみることにした。
「5四歩」
北里くんは、黙々と1分ほど考えて、8五歩と突いた。
取らないパターンだったか。早めに打診しておいて良かった。どちらかといえば、取るパターンを中心に考えていた。私は続きを検討する。
9四飛でも、案外いけそうなのよね。9六歩には5五歩、9五歩、5六歩、9四歩、5七銀、同銀、同歩成、同角、同角成、同玉、3九角の王手飛車がある。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
飛車銀交換だけど、この角打ちが激痛。
4八飛、5六歩(!)と打ってしまえば、先手陣は一気に崩壊する。
途中、5五歩に対して9五歩とせずに5五同銀直と手をもどしても、形勢逆転はない。以下、5四銀、同銀、同飛なら飛車が楽になる。5四銀に9五歩なら、5五銀、9四歩、4六銀、同歩、5六銀。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これはさっきよりかたちが悪いけど、さすがに後手有利でしょ。先手の持ち駒には銀と飛車しかないから、この空中の銀をうまく受けられないはず。例えば、5七銀なら、4七銀打、6九玉、5七銀成、同角、5六歩みたいな感じ。
私は9四飛でもいいことに納得した。だとすれば、飛車の横利きを捨てる必要はない。
「9四飛」
「うーん」
北里くんはあごひげをぽりぽり掻いて、角に指をそえた。角?
パシリ
うん……? あ、7四歩の王手桂か。
「2一玉」
さすがに引っかからないわよ。
「さて、こっから飛車を取りに行っても間に合わないし……こっちかなぁ」
パシリ
3五歩が指された。
私の王様を包囲しようとしている。
角で5三〜4二〜3一のラインを牽制しつつ、桂頭攻めだ。
となると、飛車の横利きを復活させて、3四の地点を守る必要がありそう。
「5五歩」
「同銀直」
おっとそっちか……だったら、これが効かない?
「5六歩」
スキマができたから、そこに歩を垂らす。
すぐに取る手はないし、放置なら拠点ができる。
「6七玉」
ぐッ、むりやり取りに来たか。
とはいえ、これは2手かかる。
私は3五歩で歩を回収して、5六玉に3四飛と寄った。
「6七玉」
うむむ、冷静。どうやら、暴発はしないタイプみたいね。
「5六歩」
もう一回引っ張り出す。
北里くんは10秒ほど考えて、
「放置できないけど……取るのも……」
と悩んだ。私は、同玉なら5四銀を予定している。
「5八歩」
あくまでも消極策ですか。それでも5四銀。
同銀、同飛、7四歩、同飛。
「7五金」
ん……微妙に入玉が心配になってきた……っていうか、マズくない?
これ、5四飛、7四歩みたいなかたちになると、入玉が確定するような……。
私はお茶をひと口飲んで、自分を落ち着かせた。ちょっと右辺の形勢判断が甘かったかしら……とはいえ、この局面を見て先手がいいというひとは、少ないはず。
5四飛と焦点に回って、7四歩……5七銀、同歩、同歩成、同銀、4五桂ならなんとかなりそうだけど、5四飛、5五銀打、5一飛、7四歩は後手が困る。
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………………
「負けました」
「ありがとうございました」
どうやら、風切先輩の対局が終わったようだ。
私はもう一回お茶を飲んで、集中しなおした。
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…………………
………………
切りますか。7五同飛、同角、7四歩。これで7四の地点を押さえてから、以下、8六角なら7五金。6六角と反対に逃げても同様で、とにかく押し返しましょう。
私は深呼吸して、7五同飛と取った。
「一番イヤなのがきたなぁ」
北里くんのシンキングタイム。だけど、これは同角しかない。
「同角」
7四歩、4八角、6六歩(角を引っ張り出す)、同角、7五金。
角を切っても、同歩以下のかたちが入玉不能。特に3九角が痛打。
「引くしかないか……4八角」
6六歩、6八玉、6七銀、同金、同歩成、同玉。
「6六歩」
「6八玉」
私はしっかり確認して、金をぐいっとまえに出た。
「7六金」
北里くんは、うーんと唸った。
「これは辛抱、5九玉」
当然に6七歩成……ん? ちょっと待って、6四飛があるわね。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
角金両取り……でも、そんなに痛くないっぽい?
6四飛、6八金、4九玉、5八と……5八金かしら。5八と、3九玉、4八と、同飛、5九角の順がいいのか、それとも、5八金、3九玉、4八金、同飛がいいのか。前者は歩と角の交換だから、純粋に駒割りで考えれば、前者のほうがいい。ただ、左辺への逃亡を警戒するなら、と金は6八よりも6七だ。次に5七歩成とできる。
問題は、4九玉、5八金、3九玉、4八金、同飛に、すぐ5七歩成とするか、それともべつの手を指すか……例えば……あ、この手がある。
「6七歩成」
6四飛、6八金、4九玉、5八金、3九玉、4八金、同飛。
「1五角」
これが答え。8八飛なら5七歩成〜4七と。
北里くんは最後の1分を使い切ろうとしていた。
ピッ
「う、受けがない……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「3七桂」
5七歩成、8八飛、6三歩。
どうですか。角金両取りを回避。勝勢。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「2三歩」
っと、ここで手拍子は2二金で頓死してしまう。
私は冷静に同銀と取って、2四歩、3二銀、2三金に3一玉と寄った。
「3四歩」
むぅ、意外としつこいわね。
4二玉のほうがいいか、あるいは、6四歩のほうがいいか。
ピッ
私は残りの1分を丁寧に使った。
……………………
……………………
…………………
………………
せ、攻めたほうがいい? 守ったほうがいい? 決まらない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
ほ、方針が定まらなかった。
北里くんはそれを見透かしたように、3三歩成と成り込んだ。
同銀、同金。
詰めろ……だけど、先手も詰めろなんじゃないの、これ?
4八角が第一感で、同飛なら同と、2九玉(同玉は5八以下)、3九飛、1八玉、2八飛、同玉、3八飛成まで。2八玉は3七角行成、同銀、同角成、同玉、4七と、同玉(2八玉なら3六桂、2九玉、2七飛以下)、5七飛、4六玉……あれ? 詰まない?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「4二金ッ!」
北里くんは、静かに3四桂と置いた。
マズい。また詰め……ろ……ん? 3四桂?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「4八角ッ!」
パシーンと、駒音が響き渡った。
「あ、うん」
北里くんは、分かってました、みたいな感じで2八玉と上がった。
3七角行成、同銀、同角成、同玉、4七と、同玉。
「5七飛」
私は飛車をギュッと置いて、チェスクロを押した。
4六玉なら5四桂、3五玉、3七飛成、4五玉、4六龍、5四玉、5三金右まで。途中の変化は多いけど、どれも簡単に詰む。3四桂が邪魔なのだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負けました」
「ありがとうございました」
私たちは一礼した。
「まいったな。完敗だ」
それが、北里くんの第一声だった。
「まあ、一手違いだし……」
とは言いつつ、終始一貫して優勢だった気がする。
どこかで悪いと思った局面はなかった。
「6手目に8五歩と伸ばすのは、最近の流行りなの?」
「あれは思いつき」
北里くんは、「そっかぁ」と言って、
「受験中は全然指せてなかったから、てっきり序盤でハマったのかと思ったよ」
とつぶやいた。なるほど、医学系なら受験勉強は大変そう。
「全体的にちょっと消極的過ぎたかな?」
「そうね。先手はバランスを取るのがむずかしいかな、と」
「7五金ってされたとき、同角と切ったほうが良かった?」
【検討図】
「それは同歩の次に3九角と打つ予定」
「先に6六金だと?」
6六金……なるほど、3九角対策か。
「7五金に結局3九角があるから、放置してほかの手を指すわ」
「例えば?」
「単純に7六銀じゃダメかしら? 同金、同歩でまた3九角のチャンスができて、今度6六銀と受けたら7五金、同銀、3九角のゴリ押しがあるわ」
「6六銀に5六玉と立つのは、5五歩、同金、5四歩なんだよね」
【検討図】
「そうね。同金なら6五銀不成だし、一手前の5五歩に同銀は4五角」
「5六玉のところで6八銀は3九角だから、角切り自体が成り立ってないっぽい」
そこは、対局中にちゃーんと読んであるわよ。
北里くん、まだまだリハビリが必要みたいね。
「ところで、6二金は研究手だよね? 裏見さんがひとりで考えたの?」
「あれは風切先輩の指摘」
嘘をついて自分の手柄にする必要もないし、私は正直に答えた。
すると、北里くんは特におどろいた様子もなく、
「都ノは、将棋を指す環境が整っててうらやましいな」
と添えた。
「南稜はDの2位だし、北里くん自身も県竜王経験者でしょ?」
「そうだけど、うちはDとCを行ったり来たりで、先輩たちも上を目指すって感じじゃないんだよね。ま、国家資格の取得が本業だから、僕も不満があるわけじゃないよ」
「獣医さんも6年制?」
「うん、6年制だね……そういえば、裏見さんが飼ってる犬は、何種?」
私は、正確には分からないと答えた。
「おじいちゃんがもらってきた犬で、多分、柴犬となにかの雑種だと思う」
「名前は?」
「ナル」
ちょっと珍しい名前。由来が将棋の「成る」なのだ。
出世して欲しいとかじゃなくて、おっきく育って欲しいという意味で私がつけた。
「へぇ、一家そろって将棋を指すの? うちは僕と兄さんが……」
「おーい、北里、どうなった?」
南稜の男子が、こちらへ確認に来た。
「負けました」
相手は勝ちを期待していたらしく、かなりがっかりした。
「マジか……」
「けっこう、いい線行ってました?」
「3−4負けペースだが、しゃーない」
むむ? ギリギリ勝ちになりそう?
私は感想戦を終えて、慌ててほかの対局の応援にむかった。
場所:2016年度 春季団体戦2日目 1回戦
先手:北里 幸四郎
後手:裏見 香子
戦型:居飛車力戦型
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △8五歩
▲7七銀 △3二銀 ▲5六歩 △4二玉 ▲7八金 △3一玉
▲5八金 △6二銀 ▲6七金右 △7四歩 ▲4八銀 △6四歩
▲2六歩 △7三桂 ▲7九角 △6三銀 ▲2五歩 △6二金
▲2四歩 △同 歩 ▲同 角 △2三歩 ▲4六角 △6五歩
▲同 歩 △7五歩 ▲5七銀 △7六歩 ▲6六銀左 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲8七歩 △8四飛 ▲5五歩 △4四飛
▲5六銀 △7四銀 ▲4八玉 △1四歩 ▲2四歩 △同 歩
▲6八角 △3三桂 ▲7五歩 △6三銀 ▲7六金 △3五歩
▲5七銀 △2五歩 ▲4六銀 △1三角 ▲3五銀 △8四飛
▲3六歩 △2三銀 ▲8六歩 △3四歩 ▲2四歩 △3二銀
▲4六銀 △2四角 ▲5八玉 △5四歩 ▲8五歩 △9四飛
▲8六角 △2一玉 ▲3五歩 △5五歩 ▲同銀直 △5六歩
▲6七玉 △3五歩 ▲5六玉 △3四飛 ▲6七玉 △5六歩
▲5八歩 △5四銀 ▲同 銀 △同 飛 ▲7四歩 △同 飛
▲7五金 △同 飛 ▲同 角 △7四歩 ▲4八角 △6六歩
▲同 角 △7五金 ▲4八角 △6六歩 ▲6八玉 △6七銀
▲同 金 △同歩成 ▲同 玉 △6六歩 ▲6八玉 △7六金
▲5九玉 △6七歩成 ▲6四飛 △6八金 ▲4九玉 △5八金
▲3九玉 △4八金 ▲同 飛 △1五角 ▲3七桂 △5七歩成
▲8八飛 △6三歩 ▲2三歩 △同 銀 ▲2四歩 △3二銀
▲2三金 △3一玉 ▲3四歩 △6四歩 ▲3三歩成 △同 銀
▲同 金 △4二金 ▲3四桂 △4八角 ▲2八玉 △3七角上成
▲同 銀 △同角成 ▲同 玉 △4七と ▲同 玉 △5七飛
まで144手で裏見の勝ち