5手目 偽りの空白期間
9四歩、9六歩、4二金右、3七桂。
「5二金です」
「俺も手待ち。5七銀」
5三銀、4六銀、3三桂。
風切先輩は、再度5七銀と下がった。
松平と私は、開戦を予感する。誘いのスキだ。具体的には、4五桂と跳ねさせて、単に同桂とするか、あるいはさらに4八銀と引いて、3七桂成、同銀と組み替える。
「20秒、1、2、3、4、5」
三宅先輩の秒読み。
「4五桂」
大谷さんは、挑発に乗った。
4八銀(こっちか)、3七桂成、同銀。
松平と私は、お互いに読み筋をささやきあう。
「2四歩、4六角じゃない? 今なら7三の地点が薄いわ」
「4六角だと飛車が働かなくないか? 6四角と打ち返されて面白くない」
「20秒、1、2、3、4、5」
パシリ
とりあえず、2四歩。これは懐を広くして、4二銀〜3三銀の狙いだろう。
さらに、先手からの2五桂も防いでいる。
先手の対応が問題。見た目とちがって、動かせる駒は多くない。
「20秒、1、2、3……」
風切先輩は、予想だにしない場所へ指を伸ばした。
「1八香」
端ッ!?
「手待ちか?」
松平もおどろいたようだ。
「手待ち……じゃなくて、地下鉄飛車じゃない?」
この雁木は、1五歩から崩れやすい。1九飛は考えられた。
「20秒、1、2、3、4、5、6」
「4二銀」
ノータイムで風切先輩の手が舞う。4六角が放たれた。
……う、うまいッ!
これなら6四角と打ち返されても、万が一のとき同角と切れる。同銀がないからだ。
風切先輩は、口の端に笑みを浮かべて、大谷さんの顔を直視した。
「さあ、どうする?」
「……」
「20秒、1、2、3」
パシリ
打ち返すしかないか……すぐには取らず、風切先輩は6六歩と伸ばした。
「3三銀」
大谷さんも、落ち着いている。
指したことのある局面なのかしら。
6五桂、5五歩(6五同桂、同歩、4六角、同歩、7三角、1九飛もありそう)に、風切先輩は7三桂成。同角に6五桂、6四角、5五角と追撃する。
松平は小声で、
「同角とは取れないな。同歩、6四角、5九飛で困る」
とつぶやいた。
【参考図】
歩切れ。次の5四歩が受からない。
かと言って、5五角を放置すると7三桂成がある。
大谷さんピンチ。
「20秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「4五桂」
大谷さんは、桂馬を先着して反撃した。
4六銀、8三飛。
この受けは苦しい。
「1九飛だッ!」
風切先輩、待望の飛車回り。
大谷さん、がんばれ。
「先手の王様は、角筋に入ってる。まだ分からないぞ」
松平の言うとおり。ここは粘り強く指す局面。
5四桂、5八金と、先手も囲いを気にした。
「5五角です」
同銀、6四歩、6一角、9三飛。
大谷さんの辛抱が続く。
「しぶといな……4六歩」
「6五歩」
「4五歩じゃないぜッ! 5四銀ッ!」
ぐッ、この銀捨ては痛い。取れば5二の金が浮く。
「20秒、1、2、3」
「同銀」
取るしかなかったか。風切先輩は、角を華麗にひっくり返す。
「5二角成……投了は、いつでも受け付けるからな」
「失礼ですが、駒割りはただの歩損です。3七銀」
え? 銀の打ち込み?
これには、風切先輩も一瞬だけきょとんとした。
でも、すぐに舌打ちした。
「チッ、そういう手があるのか……同金」
同桂成、同玉。
「4五桂」
連続で駒捨て? なにかあるの?
同歩、同銀、4七金打に、大谷さんは4六金と打ち込んだ。
あ、これは一本取ったッ! 同金、同銀、同玉は2八角が王手飛車だッ!
「取らなきゃどうってことはないぜッ! 2八玉ッ!」
パシーンと、駒音高く8二角が打ち下ろされた。
4七金とすれば、ふたたび王手飛車になる。
風切先輩もそれは分かっているから、5五桂と止めた。
「5四歩で殺せるんじゃない?」
私のつぶやきに、松平はかぶりを振った。
「それは3七桂で銀の退路がない」
【参考図】
あ、そっか。後手も金銀が窮屈だ。
「20秒、1、2、3、4、5」
「5六金」
きわどいスライド。5四歩よりずっといい手だ。
風切先輩は、ひたいの髪の毛を引っ張りながら、真剣に読んでいた。
本気を出しにきている。
「20秒、1、2、3、4、5、6、7」
「1五歩」
端を突いた。急所だけど、そんなに速くない。
ここからは大谷さんの反撃ターン。
まずは5五角と飛び出して、3七桂に4二金と馬をいなす。
7四馬と退却させてから、4六銀のプレッシャーをかけた。
イケイケだわ。先手は、玉飛接近すべからずの格言に反している。
6五馬、3七銀成、同金、4五桂、5五馬。
風切先輩は、角馬交換に応じた。これだけでもポイントだ。
「同金」
風切先輩は、背筋を伸ばして深呼吸する。
右の手首をひねって、しなやかに指を曲げた。
「2九桂」
受けた。3七桂成、同桂。
ここでうまい手があれば、後手の勝ち。
寄せをさがす私の横で、松平は微妙な顔をする。
「どうしたの?」
「後手は、駒が足りない気がする……」
「5三飛と回れば一発で足りるわよ」
4六金、3八銀打、5三飛。
ほら、足りた。
「20秒」
秒読みと同時に、風切先輩は持ち駒の歩を手にした。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「5五歩」
飛車筋を止めた。
大谷さんは、当然の同飛。5六歩、同飛、5七歩と叩かれる。
これって、歩損してるだけじゃないの?
大谷さんも不審に思ったのか、5七同金としかけて、手を引っ込めた。
「20秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「ご、5二飛」
大谷さんの慌てたところを、初めてみた。
なぜ5七同金と取らなかったのか分からない。
風切先輩はこの飛車引きを予想していたらしく、6四角と打った。
マズい。一番打ちたいところに打たれた。
後手から6四角と打てば、次に4五桂で優勢だった。
「5七金」
一手遅い金入り。風切先輩は6三銀と打って、飛車を追い回し始めた。
「20秒、1、2、3、4、5」
「5六飛」
うーん、これならさっきの5七歩に5二飛と引いた意味がない。
風切先輩は1四歩と取り込み、1二歩と受けさせてから4五桂打と継いだ。
同歩、同桂、5八金、1三歩成、同歩、3三桂成。
ぐッ……これは崩壊した。
同金に4五桂と追撃される。
大谷さんは5五角、同角、同飛で、なんとか角を消した。
「1三香成ッ!」
風切先輩は、勝ちを確信した手つき。颯爽と挟撃態勢に入る。
同香、3三桂成、同玉、1三飛成、2三金。
「これで仕舞いだッ! 1一角ッ!」
終わった。王手飛車云々以前に、詰んでいる。
4二玉、4三金、同玉、2三龍、4二玉、4三金、5一玉、5二銀打、同飛、同金までの11手詰みだ。まさか、6三銀がここまで利いてくるなんて。
大谷さんは1一角を見つめたまま、気息を整えた。両手を合わせる。
「参りました。拙僧の負けです」
「ありがとうございました、と」
風切先輩はヒューと口笛を吹いて、テーブルに寄りかかる。
「さてと……2年もブランクがあるやつに負けた気分は、どうだ?」
「……」
「ハハハ、悔しくて声も出ないか。だから言っただろう、将棋はクソゲーだって」
風切先輩は席を立つと、ポケットに手を突っ込み。私たちを一瞥した。
「二度と声かけるなよ……じゃあな」
先輩は、私たちに背を向けた。
私は松平に視線で訴えかける。松平も、一歩まえに出かけた。
「お待ちください」
先に声をかけたのは、大谷さんだった。
風切先輩は、歩みをとめて振り返る。
「もう一局、はナシだぜ」
「ひとつお尋ねしたいことがあります……あなたは、本当に将棋をやめたのですか?」
風切先輩は、チッと舌打ちをして、
「高2の冬休みに退会してから、指してねぇよ」
と答えた。
「ほんとうに?」
「ああ」
「この菅井流1八香〜1九飛型は、2014年の秋に指された戦法です」
え、どういうこと。私は、風切先輩の顔をみた。
先輩は、わずかに視線を逸らした。
「……たまたま、さ」
風が吹く――桜が散り、ふたりのあいだを舞った。
「言いたいことは、それだけか? ……もう行くぜ」
「合縁奇縁……ひとの巡り合わせは、すべて不思議な因果によるものです」
「なにが言いたい?」
大谷さんは両手を合わせて、一礼した。
「明後日、8日の午後5時まで、学生課にてお待ちしております」
場所:都ノ大学の付属公園
先手:風切 隼人
後手:大谷 雛
戦型:先手ゴキゲン中飛車
▲7六歩 △8四歩 ▲5六歩 △8五歩 ▲7七角 △5四歩
▲5八飛 △4二玉 ▲4八玉 △6二銀 ▲3八玉 △3四歩
▲6八銀 △5三銀 ▲2八玉 △7七角成 ▲同 銀 △6四銀
▲3八銀 △3二玉 ▲1六歩 △1四歩 ▲8八飛 △4二銀
▲6六銀 △7四歩 ▲7七桂 △7三桂 ▲8九飛 △2二玉
▲6八金 △3二金 ▲3六歩 △4四歩 ▲2六歩 △4三銀
▲2七銀 △5二金 ▲3八金 △9四歩 ▲9六歩 △4二金右
▲3七桂 △5二金 ▲5七銀 △5三銀 ▲4六銀 △3三桂
▲5七銀 △4五桂 ▲4八銀 △3七桂成 ▲同 銀 △2四歩
▲1八香 △4二銀 ▲4六角 △6四角 ▲6六歩 △3三銀
▲6五桂 △5五歩 ▲7三桂成 △同 角 ▲6五桂 △6四角
▲5五角 △4五桂 ▲4六銀 △8三飛 ▲1九飛 △5四桂
▲5八金 △5五角 ▲同 銀 △6四歩 ▲6一角 △9三飛
▲4六歩 △6五歩 ▲5四銀 △同 銀 ▲5二角成 △3七銀
▲同 金 △同桂成 ▲同 玉 △4五桂 ▲同 歩 △同 銀
▲4七金打 △4六金 ▲2八玉 △8二角 ▲5五桂 △5六金
▲1五歩 △5五角 ▲3七桂 △4二金 ▲7四馬 △4六銀
▲6五馬 △3七銀成 ▲同 金 △4五桂 ▲5五馬 △同 金
▲2九桂 △3七桂成 ▲同 桂 △4六金 ▲3八銀打 △5三飛
▲5五歩 △同 飛 ▲5六歩 △同 飛 ▲5七歩 △5二飛
▲6四角 △5七金 ▲6三銀 △5六飛 ▲1四歩 △1二歩
▲4五桂打 △同 歩 ▲同 桂 △5八金 ▲1三歩成 △同 歩
▲3三桂成 △同 金 ▲4五桂 △5五角 ▲同 角 △同 飛
▲1三香成 △同 香 ▲3三桂成 △同 玉 ▲1三飛成 △2三金
▲1一角
まで145手で風切の勝ち