58手目 開いたダイヤル錠
「雁木って、崩れると早いね。4二銀左」
まるで他人事のように、氷室くんは銀を下がった。
危なくない? 3三金で?
「5、6、7、8、9」
「8三歩」
一本入れましたか。3三金は、最後に飛車の横利きが通ってダメなようだ。例えば、3三金、4一玉、5三桂成、同金、4二金、同飛みたいな手がみえる。
「5、6、7、8、9」
「9二飛」
「飛車が隠居したわね」
「んー、僕が不利とも思えないんだけどなぁ」
「ウソおっしゃい。内心ブルってるんでしょ」
火村さん、ダベってないで考えてくださいな。
「5、6、7、8、9」
「2二成香」
これは取れない。取ったら5三桂成、同金に8二金、9三飛、4二馬がある。かと言って5三桂成に同銀は3三銀、1二玉、2二金、1三玉、2四馬で詰む。
「5、6、7、8、9」
「4三玉」
5三桂成、同金(んー、飛車の横利きが通った)、4一銀。
「切れたっぽくない?」
氷室くんは、おとなしめに尋ねた。
「そ、そんなことないわよ」
「僕は切れたほうに賭けるね。7七と」
攻めた。口三味線じゃなくて、本気で切れたと思ってる証拠だ。
同金だと6五桂?
歩は要らないから、7七とはむしろ放置で……いや、そうもいかない感じ?
「5、6、7、8、9」
「3二成香」
火村さんは攻め合いを選択した。
3三桂、同成香、同銀、4五桂、2一桂、3三桂成、同桂。
切れてるようにも切れてないようにも見えるけど……切れ気味かな……。
「5、6、7、8、9」
「3二銀打ッ!」
「4二玉」
「3一銀不成ッ!」
勝負手ッ!
同玉なら3三馬、4一玉、5一金、3一玉、2三桂、2一玉、1一香成の寄せがある。
で、でも、4一玉だと? 3三馬でちゃんと寄るの?
「5、6、7、8、9」
「4三玉」
王様を立って受けた。
こ、これもうまい。3三馬と入らせないのが急所だと見抜いている。
「2三金ッ!」
火村さんは、とにかく3三馬を目指した。
氷室くんは片手をひたいに当てて、髪をなであげた。
「これで完切れかな。2一桂」
「あ、うッ……」
火村さんは言葉に詰まった――外野の私から見ても切れている。
「5、6、7、8、9」
「に、2二銀不成」
「同飛」
飛車を大胆に切る。同金、6八と。
3二金と戻れば詰めろ――だけど、先手玉は2九金からの詰めろにみえる。
2九金に1八玉は3八龍、同銀、2八金打まで。
2九金に3七玉は2八銀、同金、5九角、4八合駒、同角成、同銀、同龍まで。
「5、6、7、8、9」
「3九飛ッ!」
受けた……けど、かなりのムリ筋。
「3七銀」
焦点の捨てが入った。
同金は3九龍、同玉、4八角からの詰み。
「5、6、7、8、9」
「ど、同玉」
「5九角」
氷室くんはノータイムになった。
2八玉、3九龍、同玉(1八玉は2八飛、同金、同龍、同玉、3七金以下、同金はもう少し難解で3七金、1八玉、2七金、同玉、3七飛、1八玉、2七銀、2九玉、2八香、同金、同銀成、同玉、2七金以下)と進む。
本譜は詰んでる? 必至をかけるつもり?
「5、6、7、8、9」
秒読みのなか、氷室くんは満足げにほほえんだ。
「とても美しいかたちになったよ。4九飛」
え? 飛車捨て?
「あ、しまった……」
火村さんは青くなった。私も青くなる。
4九同玉に3七桂で詰みだ。3九玉は2九金、3七同金は4八金、同銀、同歩成まで。
「秒読みを……と言いたいところだけど、詰んでるよね」
氷室くんは、はっきりした口調で確認してきた。
火村さんは納得がいかないのか、一回目をつむったあと、
「負けました」
と小声で返した。
「ありがとうございました」
氷室くんはすこしだけ前髪をなおして、数学の雑誌を棚にもどした。
「というわけで、不可抗力は発生しなかったよ……残念だ」
いや、残念とかじゃなくて……どうするの、これ?
ダイヤルの鍵を開けなかったら、帝大もアウトなんでしょ?
あたしは、率直にそのことを伝えた。
すると、氷室くんは困ったような表情で、
「うーん、そうだな……でも、ダメなものはダメだからね」
と答えた。いやいやいや、なにを言ってるんですか。
将棋で決着をつけるという発想がめちゃくちゃだし、私は同意していない。
火村さんも敗戦のショックから立ち直ったらしく、氷室くんを指差して、
「ガキみたいなことしてないで、さっさと番号を教えなさいッ!」
となじった。
「んー、ダメなものはダメ」
「カミーユさまの命令よッ!」
いや、さすがに命令できる立場じゃないでしょ。
そもそも、将棋の申し出を受けなければよかったわけで……。
面子(約2名)がカオス過ぎて、話がどんどんこじれてくる。
「んー、どうしようか……そうだ、もうひとつ別の推理もあるんだけど、聞きたい?」
「べつの推理ぃ? シャーロック・ホームズごっこなら、あとにしなさい」
「ちょ、ちょっと待って、聞かせてちょうだい」
私は火村さんの口をふさぎながら、そう答えた。
唐突なのは確かだけど、今回の事件と関係があると思ったからだ。
氷室くんは、にっこりとして、後頭部に手をあてた。
「たいした推理じゃないんだよ。どうやって裏見さんたちがここに来たのかな、と」
「どうって……もちろん、オーダー表を確認しに来たのよ」
差し替えに、とは言わなかった。差し替えるところまで準備ができていない。
「どうして、じゃない。どうやって、さ」
「どうやって?」
「どうやって、この部屋にオーダー表があると判断したの?」
……………………
……………………
…………………
………………あッ!
ま、マズい。私は口もとに手をあてた。
「都ノと聖ソフィアは、最近復活したサークルだ。連合との直接的なコネはないよね」
「……」
「となると、間接的なコネ……つまり、高校の同窓生あたりがあやしくなる」
「……」
「そこで少し調べてみたんだけど……裏見さんは、幹事の傍目さんと同じ高校かな?」
私は、かるくうなずいた。ごまかすと、かえってこじれると思ったからだ。
「でも、八千代先輩は今回の件と関係ないわ」
「ほんとに?」
私は、バイト先にあやしい電話がかかってきたこと、そして、そのことを八千代先輩に連絡したら、無視されたことを教えた。
「なるほど、うまいやり方だ。ほんとにヤリ手の幹事みたいだね」
「うまいやり方っていうか、八千代先輩は今回の件とほんとに関係がないわ」
まあまあ、と氷室くんは手で合図して、推理の先を続けた。
「証拠はなにもないけど、傍目さんの『ご指導』があったんじゃないかな、と思う」
「ご指導?」
「この部屋に対する誘導だね」
ぐッ、そこまで嗅ぎ付けてきたか。勘が鋭いわね、この子。
とぼけたりふざけたりしているのも、わざとじゃないかと思えてくる。
「そんなに怖い顔しないでよ。証拠はなにもないし、大事なのはこの先だから」
「まだ、なにかあるの?」
氷室くんは、ダイヤル錠のついたテーブルによりかかった。
「傍目さんから誘導があったにもかかわらず、裏見さんたちは僕にダイヤル錠の番号を訊いた。つまり、傍目先輩は、ダイヤル錠があることも、その番号も教えなかったことになる。これはちょっと不手際じゃないだろうか?」
どうかしら。氷室くんが登場して、あわてて立ち去ったのかもしれない。
私は黙っておいた。
「というわけで、もう分かったんじゃないかな?」
「……全然」
氷室くんは、すこしがっかりしたような顔で、ひたいに指をあてた。
「あれ? ヒントは全部出したと思うんだけど?」
なんですか。帝大生にしか分からないとかいう学歴ギャグですか。
そういうのはビシビシいくわよ。
「あなた、さっきから話が抽象的で回りくどいわ。はっきり言ってちょうだい」
私がたしなめると、氷室くんはごまかすように笑った。
「アハハ、ごめんごめん、クイズのつもりじゃなかったんだ。簡単な話」
「だから、どう簡単なのか結論部分を……」
氷室くんはダイヤル錠へ指を伸ばし、そのまま引っ張った。
カチャっと音が鳴って、錠はそのまま外れた。
「え? 番号は?」
「傍目さんが、あらかじめ合わせておいたのさ」
「……あ、そういう」
おっとっと、私はあわてて口をつぐんだ。
八千代先輩は、この部屋に先回りしてダイヤルを合わせ、そのまま退室したのだ。
メールのときと同じで、私たちとは直接会わない作戦だったのだろう。
「だったら、私たちふたりに将棋を挑んだ理由は?」
「てっきり、君たちも気付いてると思って、冗談を言ったんだよ」
えぇ……ウソでしょ。冗談にみえなかった。
「ま、どう解釈してくれてもいいよ、ほら」
氷室くんは、私たちにダイヤル錠を投げた。ギリギリキャッチする。
「じゃ、僕はお先に失礼するね」
氷室くんは、唖然とする私たちの横をスリ抜けて行った。
正気をとりもどして松平たちと連絡をとったのは、しばらくあとのことだった。
場所:治明大学リベルタタワー
先手:火村 カミーユ
後手:氷室 京介
戦型:先手ゴキゲン中飛車
▲5六歩 △3四歩 ▲5八飛 △8四歩 ▲7六歩 △6二銀
▲4八玉 △4二玉 ▲3八玉 △8五歩 ▲7七角 △5四歩
▲6八銀 △5三銀 ▲2八玉 △7七角成 ▲同 銀 △6四銀
▲3八銀 △3二玉 ▲5九飛 △4二銀 ▲7八金 △4四歩
▲6六銀 △4三銀 ▲7七桂 △5二金右 ▲1六歩 △1四歩
▲8九飛 △2二玉 ▲2六歩 △3二金 ▲2七銀 △7四歩
▲3八金 △7三桂 ▲3六歩 △3三桂 ▲3七桂 △4五桂
▲同 桂 △同 歩 ▲6八金 △2四歩 ▲3七桂 △3三桂
▲9六歩 △9四歩 ▲7八金 △6二金 ▲6八金 △5二金
▲7八金 △6二金 ▲1七香 △5三銀 ▲1九飛 △8一飛
▲1五歩 △同 歩 ▲同 香 △同 香 ▲同 飛 △1一香
▲1四歩 △2三金 ▲1九香 △1四香 ▲同 飛 △同 金
▲同 香 △1六歩 ▲1九香 △4六歩 ▲同 歩 △4七歩
▲5七銀 △5九飛 ▲6八金 △8六歩 ▲1三角 △3二玉
▲2四角成 △2一飛 ▲1五馬 △1七歩成 ▲同 香 △4九飛成
▲1九歩 △8七歩成 ▲1二香成 △8一飛 ▲8二歩 △同 飛
▲2五桂 △4四銀直 ▲3三桂成 △同 銀 ▲4五桂 △4二銀左
▲8三歩 △9二飛 ▲2二成香 △4三玉 ▲5三桂成 △同 金
▲4一銀 △7七と ▲3二成香 △3三桂 ▲同成香 △同 銀
▲4五桂 △2一桂 ▲3三桂成 △同 桂 ▲3二銀打 △4二玉
▲3一銀不成△4三玉 ▲2三金 △2一桂 ▲2二銀不成△同 飛
▲同 金 △6八と ▲3九飛 △3七銀 ▲同 玉 △5九角
▲2八玉 △3九龍 ▲同 玉 △4九飛
まで136手で氷室の勝ち