51手目 不幸中の幸い
「負けました」
「ありがとうございました」
ッ!? 私は驚いて、7番席をふりむいた。
三宅先輩が悔しそうに、盤面をみつめていた。
マズい……端の一角が崩れた。
私は背筋を伸ばして、局面に集中する。この端角は、まったく読んでいなかった。遠見の角というかたちではあるけれど……ん? 私は持ち駒を確認する。
……………………
……………………
…………………
………………
止める手段がない? 飛車と歩……後手は5六香の打ち込みがある。ななめに利く駒がないと止められない……ななめに利く駒……6八金右〜6七金直or7六銀〜6七銀のどちらかだ。どちらも一手じゃなくて二手かかるのが難だけど……あれ? ほんとにそれで止まってる? 7六銀、5六香、6七銀、5七香成、同飛、5六銀は、全然止まっている気配がない。6八金右、5六香、6七金直、5七香成、同飛、5六銀も同様。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
私は、1二角が予想以上に厳しいことに気づいた。
単純な受けじゃ受からない。
ピッ
うわぁ、ここで時間がなくなるのか……キツい……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私はギリギリで7六銀と引いた。
「5六香」
「6八金右」
これで受ける。
「それがありましたか……」
よし、今度は明石くんの読み抜け。温泉ムードだったんじゃないの。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5七香成ッ!」
明石くん、初の力んだ指し方。
私はノータイムで同飛。
「継続手を……」
明石くんは、うっすらと目を見ひらいて、盤面を凝視した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ!
くッ、これは読みの範疇だけど、一番指して欲しくなかった。
同玉は7八角成で終了(同金、9八金まで)。
7九玉と逃げるのは、9八歩成から5六歩と挟撃されるのが厳しい。
かと言って、9七玉もどうかと思うし……まだ不利なのかなぁ……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「9七玉ッ!」
挟撃は解除できない。端攻めを切らす。
7四馬(詰めろ)、9八玉、9七歩、同桂。
「7八角成」
このタイミング? 同金に……6九銀?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ここで9九玉は、7八銀成がほとんど必至。唯一逃れるのは8九飛だけど(8九銀は8八金、同銀、8九金、9八玉、8八金で詰む)、7九金で今度こそ必至(5九飛と受けても、8九金、同飛、同成銀、6九飛、7九合駒、9九飛以下の詰み)。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同金ッ!」
「6九銀」
私はひとさし指一本で8九玉と引いた。
「6四馬」
「8六香」
明石くんは、同馬と切った。
その瞬間、私はこの局面が予想より遥かに悪いことを悟った。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「ど、同歩」
パシリと、5六の地点に香車が置かれる。
「……」
私はくちびるを噛んだ。チェスクロが数字をきざむ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「7九金」
8八金、同金、同銀成、同玉、5七香成。
8九金や7九金は7八金からバラして6八飛。銀に変えても同じ。
8七角は7八金、同角、同銀成、同玉、6八飛、8九玉、9八角、7九玉に7六角成と切る手が成立して終わり。王様の逃げ場所をズラしても負け。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負けました」
「ありがとうございました」
私は天井をみあげて、大きく息をついた――悔しい。個人戦のときより悔しい。
ともかく、失礼にならないように気をとりなおす。感想戦だ。
「最後、7九玉だと、もうすこし長引いたかしら?」
【検討図】
明石くんもミネラルウォーターのペットボトルをあけて、水分補給。
「それは5八金と打ちます」
「7八銀成じゃないの?」
「7八銀成、同玉、9七馬は詰めろになっていません。5八金は9七馬、8八合駒、7八銀成、同玉、6八金打、8九玉、8八馬までの詰めろです」
「あ、そっか……5八同飛だと?」
「5八金に同飛は、同銀成がまた詰めろで、6八金は9七馬、7八玉、8八飛、6七玉、6八飛成まで。6八金打なら5九飛、6九金なら4九飛を考えていました」
【検討図】
これはキツい。
「5九香に9七馬?」
「それでもいいですし、5九成銀といきなり行ってもいいと思います」
私はひたいに手をあてて考えた。
5九香と打った以上、9七馬には8八角か8八飛の合駒になる(8九玉は6九成銀が詰めろになって解除不能)。8八同銀成、同金、6九成銀と迫っていけば、自然と後手の勝ちになりそうだ。即詰みすらありそう。
「じゃあ、もっと前の段階で7九玉だと? 9九銀に7九玉は?」
【検討図】
「私はそちらをメインに読んでいました。7九玉、9八歩成、5三歩成として、同金、同桂成とするか放置ですぐに反撃するかも悩みましたし、反撃のしかたも5六銀と5六歩でかなり迷ったのですが……」
「どっちのほうが良さそうだった?」
「なんとも言えません」
明石くんは、答えをはぐらかした。むむむ、これは情報隠蔽かな。
むりやり聞き出すことはできないし、部室で風切先輩に検討してもらおう。
「ほかの対局を見て回っても、いいかしら?」
「もう終わっているようですよ」
……………………
……………………
…………………
………………え?
私は椅子を引いて立ち上がり、あたりを確認した。
そのとたん、松平とぶつかりそうになった。
「ご、ごめん」
「いや、近くで観戦し過ぎた……残念だったな」
私は、ほかの対局の勝敗をたずねた。
松平は髪の毛をくしゃくしゃにして、タメ息をついた。
「端は全滅……2勝5敗だ」
脱力――私は椅子に座りなおした。
そこへ、堂々とひとりの少女があらわれた。火村さんだった。
「明石、勝った?」
「ええ、なんとか」
火村さんは、高らかに笑った。
「幸先のいいスタートが切れたわ。お昼にするわよ」
火村さんの号令で、聖ソフィア陣営は会場から離脱した。
ほかの大学も、ぱらぱらと出て行く。
「裏見のところ、戦型はなんだったんだ?」
「相掛かり」
松平は、右の眉毛をもちあげた。
「また思い切ったな。初対局だろ?」
「一番ブレないと思ったのよ。7六歩、3四歩だと次の手に困るし」
私たちが議論していると、三宅先輩がもどってきた。
勝ち負けの報告をしてきたようだ。
「おつかれさん。飯にしよう」
三宅先輩は、すこし離れたところのファミレスに案内してくれた。前回、春日さんに見つかったところとは違っていた。用心かしら。
私たちはめいめい注文する。パスタでいいかな。午後は2局だし。
ドリンクバーで飲み物をついで、作戦会議が始まった。
司会は三宅先輩がつとめた。
「まずはお疲れの乾杯を……といきたいが、それは3局終わってからにしよう。率直に言うと、1回戦の聖ソフィアに負けて、昇級はかなり厳しくなったと思う」
三宅先輩は、ごまかさずに現状を伝えた。とくに反論もない。
「で、今後の方針だが……」
「主将の俺からコメントしてもいいか?」
風切先輩は、突然そう発言した。
打ち合わせをしていなかったらしく、三宅先輩は目をほそめた。
それから、「いいぞ」と許可を出した。
風切先輩は、腕組みをして私たちを見回した。
「1回戦は、おつかれさまだ。聖ソフィアと初回に当たって、どうなるかと思ったが……あの並びじゃあ、何回戦で当たっても勝つのはむずかしかっただろう」
歯に衣着せぬ物言い。私たちもしょんぼり。
ところが、風切先輩はそこで少し笑った。
「だが、悪いことばかりじゃない。あの並びで助かった点がある」
三宅先輩が代表して「なんだ?」とたずねた。
「端を厚くしたあの並びには、どのチームも対応できないってことだ」
「つまり?」
「聖ソフィアは、全勝する可能性が高い」
三宅先輩は、一瞬怪訝そうな顔をして、それからパチリと指を弾いた。
私たちには、なんのことやら分からない。穂積さんも痺れを切らして、
「聖ソフィアが全勝したら、昇級枠がひとつ埋まっちゃいますよ?」
と反論した。風切先輩は、ピンとひとさしゆびを立てた。
「それが助かるんだ。聖ソフィアが負けたときのことを考えてみろ」
私は、頭のなかで試合をシミュレーションしてみた。
……………………
……………………
…………………
………………
あ、そういうことか。私は真っ先に口をひらいた。
「聖ソフィアが上位校に負けると、うちの昇級はほぼなくなりますね」
「裏見の言うとおりだ。聖ソフィアは負けても1敗。昇級枠のひとつはどのみち埋まる。うちが昇級するには、聖ソフィアとセットで上がるしかない。ラインは8勝1敗だ」
「聖ソフィアが房総商科や南稜に負けると、うちがそこに勝っても頭ハネです」
序列
1位 房総商科 ○○○○○○○○●
9位 聖ソフィア ○○○○○●○○○
10位 都ノ ●○○○○○○○○
こんな感じ。
のこり8試合を全勝するのは必須。同時に、聖ソフィアが全勝してくれることも必須。
でないと、どこかで頭ハネが発生する可能性大。
「というわけで、聖ソフィアのオーダーは悪くない。鶴翼とはよく言ったもんだ」
風切先輩が言い終わったとき、料理が運ばれてきた。
「それじゃ、昼飯にしよう……2回戦は気を抜くなよ」
場所:2016年度 春季団体戦1日目 1回戦
先手:裏見 香子
後手:明石 嘉門
戦型:相掛かり
▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金
▲3八銀 △7二銀 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △2三歩
▲2八飛 △9四歩 ▲2七銀 △3四歩 ▲3六銀 △9五歩
▲6八銀 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛 ▲8七歩 △8四飛
▲5六歩 △4二銀 ▲5七銀 △1四歩 ▲1六歩 △6二玉
▲7九角 △3三銀 ▲6九玉 △4四銀 ▲6六銀 △3五歩
▲同 銀 △同 銀 ▲同 角 △3四飛 ▲6八角 △1三角
▲同角成 △同 桂 ▲5七銀 △7一玉 ▲7九玉 △2四飛
▲2六歩 △5四飛 ▲8八玉 △9三桂 ▲5九金 △4四飛
▲4六銀 △3九角 ▲5八飛 △7五角成 ▲5五歩 △6五馬
▲5六銀 △8三馬 ▲3六歩 △9四飛 ▲6六歩 △8五桂
▲6七角 △9七桂成 ▲同 玉 △9六歩 ▲8八玉 △9七歩成
▲同 香 △9六歩 ▲同 香 △同 飛 ▲9七歩 △6六飛
▲5四歩 △同 歩 ▲5七銀 △6四飛 ▲6六歩 △8四飛
▲6五銀 △9六歩 ▲同 歩 △9七歩 ▲7六銀 △5五歩
▲8五銀 △4四飛 ▲5四歩 △4二金 ▲6五桂 △5四飛
▲2三角成 △8四歩 ▲4五馬 △4四飛 ▲同 馬 △同 歩
▲5四歩 △1二角 ▲7六銀 △5六香 ▲6八金上 △5七香成
▲同 飛 △9九銀 ▲9七玉 △7四馬 ▲9八玉 △9七歩
▲同 桂 △7八角成 ▲同 金 △6九銀 ▲8九玉 △6四馬
▲8六香 △同 馬 ▲同 歩 △5六香 ▲7九金 △8八金
▲同 金 △同銀成 ▲同 玉 △5七香成
まで130手で明石の勝ち