4手目 負け犬を名乗る少年
教室から学生があふれ出す。新年度のオリエンテーションが終わったのだ。私たちは入り口にスタンバイして、お目当ての人物を捜した。木目のある壁に背を押しつけて、私は窮屈な姿勢をとっていた。視線だけは、人混みにしっかりと固定する。右手側のホワイトボードには、【2年生から始める就職活動】と書かれていた。
「いたぞッ!」
三宅先輩は、通路の一点を指差した。ちょっと背の低い少年が、カバンを肩にかけて歩いていた。白いぶかぶか気味のシャツに、これまたかなり余裕のあるカーキ色のハーフズボンを履いていた。肩甲骨まで伸びた髪をたばねて、うなじから左肩へと流している。目もとはキリリとしていて、ちょっと怖そうな印象を受けた。ただ、2年生だと言うのに、どこかしら子供っぽい面影も見え隠れしていた。
三宅先輩を先頭に、私たち4人はその少年に話しかけた。
「風切」
名前を呼ばれた少年は立ち止まり、ちらりと私たちのほうへ振り返った。
「……だれ?」
「三宅潤だ……覚えてるだろ」
風切先輩は、体全体でこちらに向きなおった。
「ああ、一昨日、勧誘に来たやつね……で?」
三宅先輩は、将棋部に入って欲しいと、ストレートに頼んだ。
風切先輩もさすがに予想していたのだろう。ふぅんとつぶやいて、
「ヤだって言ったじゃん。鳥頭?」
と皮肉で返してきた。三宅先輩は、それでもめげずに、ここまでの事情を説明した。
風切先輩は、値踏みするような雰囲気で、私たちの顔を順繰りに見比べた。
「へぇ、4人集めたんだ……俺が入れば大団円、と」
「大谷はT島の県代表、裏見はH島高校竜王戦の優勝者で、松平も市代表だ。俺は、なにもないが……遜色のない面子だと思う。あとは風切が入ってくれれば……」
風切先輩は、突然笑い始めた。
三宅先輩も私たちも、あっけにとられる。
「なにがおかしい?」
「将棋とか、クソゲーでしょ。あんなのにマジになっちゃって、どうするの?」
元奨励会員とは思えない台詞に、私たちは凍り付いた。
ただひとり、三宅先輩だけは動じなかった。
「どうしてクソゲーなんだ?」
「だって才能ゲーじゃん。RPGでもやってたほうがマシだよ。クリアできるし」
ちがう――私は、口を挟んでしまった。
風切先輩は笑うのをやめて、私をにらんだ。
「なにがちがうんだい?」
私は、これまでの自分の将棋歴を語った。高校に入るまでは、おじいちゃんとだけ指していたこと。高校で、井の中の蛙だと思い知らされたこと。そこから努力して、県大会に出場したこと。それから――
「で、県代表には、なれたの?」
「……なれませんでした。桐野さんっていう、すごく強い子がいたから……」
「ほらね、結局は才能ゲーでしょ。きみの才能じゃ、そこまでだった。分かる?」
私が侮辱されたと思ったのか、松平は一歩前に出ようとした。
あわてて引き止める。
風切先輩は、そんな私を指差して、
「そんなに努力が大事なら、その努力とやらで俺を倒してみな」
と挑発してきた。私は正直に、ムリだと答えた。
「高校3年間、努力してきたんだろ? 俺はもう、2年以上指してないけど?」
「私も、受験勉強で忙しかったから……」
うっかり言い訳してしまった。風切先輩はこれを聞いて、口の端をゆがめた。
「ほらね、将棋なんかより、学業のほうが大事なんだよね。俺は将棋で、5年もムダにしたんだ。巻き返さないといけないんだよ。あんたたちだって、俺みたいな負け犬を相手にしても、いいことないぜ」
とてつもなく屈折したなにかを感じて、私は空恐ろしくなる。
将棋界の闇を見てしまった気がした。
さすがの三宅先輩も、どう返したものか、逡巡しているようだ。
「では、拙僧がお相手致しましょう」
そう言って名乗り出たのは、大谷さんだった。
「お、大谷さん、ここは三宅先輩に任せて……」
「裏見さん、言葉だけで心をひらくことはできません。私にお任せを」
大谷さんの台詞を奇妙に感じたのか、風切先輩は目を細めた。
「本気で言ってる?」
「風切先輩こそ、さきほどの挑発は冗談だった、と?」
煽る煽る。いつもの大谷さんらしくない。
なにかが彼女に火をつけてしまったのか、それとも――策がある?
風切先輩もどこか警戒しているようだった。けれど、最後は鼻で笑った。
「オッケー……盤駒は、持ってるんだろ?」
「拙僧のカバンのなかに」
こうして私たちは、風切先輩と大谷さんの対局を見守ることになった。
場所は、都ノ大の敷地内にある公園。桜が満開で、サークルの勧誘も盛んだった。
ピクニックの家族連れもいて、普通なら微笑ましい光景だ。でも、そのあいだを縫うように歩く私たちの表情は、どこかしら堅かった。緊張感が漂っている。
「ここでいいな」
風切先輩は、空いている木製のテーブルを見つけて、そこに腰をおろした。
四辺にひとりずつ座れる構造だけど、ギャラリーはさすがに遠慮した。
大谷さんは鞄から、ビニール盤とプラスチック駒を取り出す。日本将棋連盟で販売されている、一番ポピュラーな盤だった。公式大会でも、よく使われる品だ。
風切先輩は、駒の山から玉将を探り当てて、パシリと定位置にそえた。
大谷さんも王将を引っ張り出し、反対側の定位置にそえる。
そのまま、順番に駒が並べられた。ときどき、野次馬が通りかかる。
「チェスクロは?」
風切先輩は、大谷さんの鞄を盗み見た。
「チェスクロは、さすがに持っていません」
「ま、そりゃそうだよな」
風切先輩は腕時計をはずして、三宅先輩に手渡した。
「1手30秒だ」
短過ぎると、三宅先輩は抗議した。
「私も30秒将棋で構いません」
大谷さんが受けてしまった。文句が言えなくなる。
「自信過剰だな……振るぜ」
風切先輩は振り駒をした。表が4枚出て、大谷さんの後手。
「それじゃ、よろしく」
「よろしくお願いいたします」
対局が始まった。風切先輩は、こなれた手つきで7六歩と突いた。
「8四歩です」
「5六歩」
中飛車か……振り飛車党ってわけね。
大谷さんは10秒ほど考えて、8五歩と伸ばした。
7七角、5四歩、5八飛、4二玉、4八玉、6二銀、3八玉、3四歩。
ようやく角道を開けた。飯島流引き角かとも思ったけど、そうではないようだ。
6八銀、5三銀、2八玉、7七角成、同銀、6四銀、3八銀。
先手は美濃。後手は……なにかしら。よく分からない。超速でもないみたいだし。
私は、松平のほうをちらりと振り返った。真剣に読んでいる。
「これ、後手はどうするの?」
「……俺もよく分からん。最新形の可能性はある」
おたがいに、受験勉強で将棋から離れていた。最新形はフォローできていない。
ただ、松平の言うことが正しいなら、大谷さんはある程度準備してあるはず。風切先輩は2年のブランクがあるから、作戦勝ちにはできるかも。期待が膨らむ。
3二玉、1六歩、1四歩。
「後手も端を突いたな。穴熊じゃない、と」
松平の講釈に、私もうなずく。
風切先輩は5八の飛車に指をそえて、キュッと滑らせた。
「8八飛」
こんな手があるのか。逆棒銀ってこと?
一瞬、5七角が見えるけど、6六角、同角成、同銀で受かる。
4二銀、6六銀(?)、7四歩。
「先手の構想が見えないわね」
私は、松平の耳もとでささやいた。松平は右手であごをさすりつつ、
「7七桂〜8九飛〜6八金みたいな感じじゃないか」
とつぶやいた。なるほど、それはありそうだ。7七桂には、7三桂と受けるしかない。さもないと、8五桂捨てから8六歩〜8五歩と伸ばす強襲、あるいは6五銀、同銀、同桂という2通りの攻めが防げなくなる。
本譜も、その通りに進んだ。
7七桂、7三桂、8九飛、2二玉、6八金。
「3二金」
矢倉かしら。
美濃よりも薄いのが気に……いや、先手も片美濃だから薄い。このかたちは、5八金左としにくい。5九飛と回れなくなるから。
風切先輩は、さっきからクールな表情。ふざけて指している気配はない。
「20秒、1、2、3」
三宅先輩の秒読み。29秒まで読まれて、風切先輩は3六歩と突いた。
4四歩、2六歩、4三銀、2七銀、5二金。
雁木かぁ……個人的に、雁木は堅くない印象がある。
風切先輩は、背筋をまっすぐに保ったまま、ニヤリと笑った。
「へぇ……ここまでは研究済みってわけか……3八金」