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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第1章 裏見香子、上京する(2016年4月4日月曜〜4月8日金曜)
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4手目 負け犬を名乗る少年

 教室から学生があふれ出す。新年度のオリエンテーションが終わったのだ。私たちは入り口にスタンバイして、お目当ての人物を捜した。木目のある壁に背を押しつけて、私は窮屈な姿勢をとっていた。視線だけは、人混みにしっかりと固定する。右手側のホワイトボードには、【2年生から始める就職活動】と書かれていた。

「いたぞッ!」

 三宅先輩は、通路の一点を指差した。ちょっと背の低い少年が、カバンを肩にかけて歩いていた。白いぶかぶか気味のシャツに、これまたかなり余裕のあるカーキ色のハーフズボンを履いていた。肩甲骨まで伸びた髪をたばねて、うなじから左肩へと流している。目もとはキリリとしていて、ちょっと怖そうな印象を受けた。ただ、2年生だと言うのに、どこかしら子供っぽい面影も見え隠れしていた。

 三宅先輩を先頭に、私たち4人はその少年に話しかけた。

風切かざぎり

 名前を呼ばれた少年は立ち止まり、ちらりと私たちのほうへ振り返った。

「……だれ?」

三宅みやけじゅんだ……覚えてるだろ」

 風切先輩は、体全体でこちらに向きなおった。

「ああ、一昨日おととい、勧誘に来たやつね……で?」

 三宅先輩は、将棋部に入って欲しいと、ストレートに頼んだ。

 風切先輩もさすがに予想していたのだろう。ふぅんとつぶやいて、

「ヤだって言ったじゃん。鳥頭?」

 と皮肉で返してきた。三宅先輩は、それでもめげずに、ここまでの事情を説明した。

 風切先輩は、値踏みするような雰囲気で、私たちの顔を順繰りに見比べた。

「へぇ、4人集めたんだ……俺が入れば大団円、と」

大谷おおたにはT島の県代表、裏見うらみはH島高校竜王戦の優勝者で、松平まつだいらも市代表だ。俺は、なにもないが……遜色のない面子だと思う。あとは風切が入ってくれれば……」

 風切先輩は、突然笑い始めた。

 三宅先輩も私たちも、あっけにとられる。

「なにがおかしい?」

「将棋とか、クソゲーでしょ。あんなのにマジになっちゃって、どうするの?」

 元奨励会員とは思えない台詞に、私たちは凍り付いた。

 ただひとり、三宅先輩だけは動じなかった。

「どうしてクソゲーなんだ?」

「だって才能ゲーじゃん。RPGでもやってたほうがマシだよ。クリアできるし」

 ちがう――私は、口を挟んでしまった。

 風切先輩は笑うのをやめて、私をにらんだ。

「なにがちがうんだい?」

 私は、これまでの自分の将棋歴を語った。高校に入るまでは、おじいちゃんとだけ指していたこと。高校で、井の中の蛙だと思い知らされたこと。そこから努力して、県大会に出場したこと。それから――

「で、県代表には、なれたの?」

「……なれませんでした。桐野さんっていう、すごく強い子がいたから……」

「ほらね、結局は才能ゲーでしょ。きみの才能じゃ、そこまでだった。分かる?」

 私が侮辱されたと思ったのか、松平は一歩前に出ようとした。

 あわてて引き止める。

 風切先輩は、そんな私を指差して、

「そんなに努力が大事なら、その努力とやらで俺を倒してみな」

 と挑発してきた。私は正直に、ムリだと答えた。

「高校3年間、努力してきたんだろ? 俺はもう、2年以上指してないけど?」

「私も、受験勉強で忙しかったから……」

 うっかり言い訳してしまった。風切先輩はこれを聞いて、口の端をゆがめた。

「ほらね、将棋なんかより、学業のほうが大事なんだよね。俺は将棋で、5年もムダにしたんだ。巻き返さないといけないんだよ。あんたたちだって、俺みたいな負け犬を相手にしても、いいことないぜ」

 とてつもなく屈折したなにかを感じて、私は空恐ろしくなる。

 将棋界の闇を見てしまった気がした。

 さすがの三宅先輩も、どう返したものか、逡巡しているようだ。

「では、拙僧がお相手致しましょう」

 そう言って名乗り出たのは、大谷さんだった。

「お、大谷さん、ここは三宅先輩に任せて……」

「裏見さん、言葉だけで心をひらくことはできません。私にお任せを」

 大谷さんの台詞を奇妙に感じたのか、風切先輩は目を細めた。

「本気で言ってる?」

「風切先輩こそ、さきほどの挑発は冗談だった、と?」

 煽る煽る。いつもの大谷さんらしくない。

 なにかが彼女に火をつけてしまったのか、それとも――策がある?

 風切先輩もどこか警戒しているようだった。けれど、最後は鼻で笑った。

「オッケー……盤駒は、持ってるんだろ?」

「拙僧のカバンのなかに」


 こうして私たちは、風切先輩と大谷さんの対局を見守ることになった。

 場所は、都ノ大の敷地内にある公園。桜が満開で、サークルの勧誘も盛んだった。

 ピクニックの家族連れもいて、普通なら微笑ましい光景だ。でも、そのあいだを縫うように歩く私たちの表情は、どこかしら堅かった。緊張感が漂っている。

「ここでいいな」

 風切先輩は、空いている木製のテーブルを見つけて、そこに腰をおろした。

 四辺にひとりずつ座れる構造だけど、ギャラリーはさすがに遠慮した。

 大谷さんは鞄から、ビニール盤とプラスチック駒を取り出す。日本将棋連盟で販売されている、一番ポピュラーな盤だった。公式大会でも、よく使われる品だ。

 風切先輩は、駒の山から玉将を探り当てて、パシリと定位置にそえた。

 大谷さんも王将を引っ張り出し、反対側の定位置にそえる。

 そのまま、順番に駒が並べられた。ときどき、野次馬が通りかかる。

「チェスクロは?」

 風切先輩は、大谷さんの鞄を盗み見た。

「チェスクロは、さすがに持っていません」

「ま、そりゃそうだよな」

 風切先輩は腕時計をはずして、三宅先輩に手渡した。

「1手30秒だ」

 短過ぎると、三宅先輩は抗議した。

「私も30秒将棋で構いません」

 大谷さんが受けてしまった。文句が言えなくなる。

「自信過剰だな……振るぜ」

 風切先輩は振り駒をした。表が4枚出て、大谷さんの後手。

「それじゃ、よろしく」

「よろしくお願いいたします」

 対局が始まった。風切先輩は、こなれた手つきで7六歩と突いた。

「8四歩です」

「5六歩」


挿絵(By みてみん)


 中飛車か……振り飛車党ってわけね。

 大谷さんは10秒ほど考えて、8五歩と伸ばした。

 7七角、5四歩、5八飛、4二玉、4八玉、6二銀、3八玉、3四歩。

 ようやく角道を開けた。飯島流引き角かとも思ったけど、そうではないようだ。

 6八銀、5三銀、2八玉、7七角成、同銀、6四銀、3八銀。

 

挿絵(By みてみん)


 先手は美濃。後手は……なにかしら。よく分からない。超速でもないみたいだし。

 私は、松平のほうをちらりと振り返った。真剣に読んでいる。

「これ、後手はどうするの?」

「……俺もよく分からん。最新形の可能性はある」

 おたがいに、受験勉強で将棋から離れていた。最新形はフォローできていない。

 ただ、松平の言うことが正しいなら、大谷さんはある程度準備してあるはず。風切先輩は2年のブランクがあるから、作戦勝ちにはできるかも。期待が膨らむ。

 3二玉、1六歩、1四歩。

「後手も端を突いたな。穴熊じゃない、と」

 松平の講釈に、私もうなずく。

 風切先輩は5八の飛車に指をそえて、キュッと滑らせた。

「8八飛」


挿絵(By みてみん)


 こんな手があるのか。逆棒銀ってこと?

 一瞬、5七角が見えるけど、6六角、同角成、同銀で受かる。

 4二銀、6六銀(?)、7四歩。

「先手の構想が見えないわね」

 私は、松平の耳もとでささやいた。松平は右手であごをさすりつつ、

「7七桂〜8九飛〜6八金みたいな感じじゃないか」

 とつぶやいた。なるほど、それはありそうだ。7七桂には、7三桂と受けるしかない。さもないと、8五桂捨てから8六歩〜8五歩と伸ばす強襲、あるいは6五銀、同銀、同桂という2通りの攻めが防げなくなる。

 本譜も、その通りに進んだ。

 7七桂、7三桂、8九飛、2二玉、6八金。

「3二金」


挿絵(By みてみん)


 矢倉かしら。

 美濃よりも薄いのが気に……いや、先手も片美濃だから薄い。このかたちは、5八金左としにくい。5九飛と回れなくなるから。

 風切先輩は、さっきからクールな表情。ふざけて指している気配はない。

「20秒、1、2、3」

 三宅先輩の秒読み。29秒まで読まれて、風切先輩は3六歩と突いた。

 4四歩、2六歩、4三銀、2七銀、5二金。


挿絵(By みてみん)


 雁木かぁ……個人的に、雁木は堅くない印象がある。

 風切先輩は、背筋をまっすぐに保ったまま、ニヤリと笑った。

「へぇ……ここまでは研究済みってわけか……3八金」

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