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根本巌の旅路

※ここからは、根元ねもと刑事視点です。

 雨が降っている。あの日と変わらない雨が。

 会合前に一服しようとしたところで、田嶋たじま大久保おおくぼに呼び止められた。

 コンクリートに塗装しただけの、殺風景な空間。

 喫煙所という名の、ただの屋外スペース。

 火のついていない煙草を片手に、俺は耳を傾けた。

 気分は落ち着いている。

 あたりは雨。

 あの日と同じだ。

 大久保は、一通りの説明を終えて、

「根元さんは、どうお考えですか?」

 と尋ねてきた。

 俺の答えは、ひとつだった。

「ありえるだろうな、やつが生きている、という可能性は。その線は、俺も念頭にあった」

 この返事は、ふたりの気に入らなかったらしい。

 田嶋は、

「これまでの会合で、一度もそういう話はされなかったですよね?」

 と難じてきた。

「すまない、手順で仕方がなかった」

「手順?」

「俺のほうから、聖生のえるは生きていると思う、と言ったら、ふたりはどう考える? 逃した犯人の幻影を追ってるんじゃないか、と、そう勘ぐるんじゃないか?」

 田嶋は、いえ、そんなことは、と返したものの、語尾を濁した。

 俺は先を続けた。

「幻影でないとも言い切れない。聖生のえるが死んだという知らせを、俺は最初の頃、受け入れられなかった。どうしても、俺の手で逮捕したいと思っていた。年月が経つにつれて、だんだんとやつの死を受け入れ始め……そして、おかしなことに気づいた」

 大久保は、どこがおかしかったんですか、と尋ねた。

「事故があった船のAIS……自動識別装置を、もういちど調べてみた。複数の受信記録のあいだに、秒単位のズレがあることに気づいた」

 俺は、ひと呼吸おいた。

 大久保は、つまり?、と先をうながした。

「ここからは、俺の推理だが……聖生のえるは、無線識別番号を別の船にクローンして、そっちを沈めたんじゃないだろうか」

 田嶋は、

「替え玉だった、と?」

 と言って、眉間にしわを寄せた。

「沿岸警備隊は、行方不明としか記載してない。海難行政調査の報告書もそうだ。船は引き揚げられた。沈没の原因は、燃料タンクに引火しての爆発……おかげで、燃料の消費を調べることもできなかったし、AISを回収することもできなかった。残ってたのは、沿岸局の受信ログと、近くを走っていた船の受信ログだけだ。このふたつのあいだに、数秒の狂いがあった」

 大久保は、

「それを隠していたわけですか?」

 と訊いた。

 その表情には、険しいものがあった。

 もっともな怒りだと思う。

「すまない。だが、はっきりいって、ただの憶測だ。メーカーに問い合わせてみたら、秒単位でのズレは、設定次第でよくあるという返事だった。他に不審な船を見たという証言もなかったし、その後、やつの出入国記録もなかった。まあ、証言のほうは、俺のポルトガル語があやしかったのもあるがな……それに……」

 俺は、これが一番肝心な点だと思っていた。

 ふたりに伝わるかは、わからなかったが。

聖生のえるは、こどもたちに会いに来ない」

 ふたりの表情は、微妙だった。

 それでいいと思う。

「どちらかに賭けろと言われたら、俺は、死んでるほうに賭ける。今でも、だ。俺がこの20年間で見つけたのは、ただ数秒のズレだった。それでも満足してる」

 この台詞に、田嶋はくいついた。

「満足? ……もう逮捕する気がなくなった、ってことですか?」

「そうじゃない。逮捕はしたい。この手で。秋庭あきにわが転落死した夜、俺は速水はやみさんに頼まれて、マンションを見張ってた。不審者の出入りには、気を配っていた……つもりだった。配達員が入ったきり、出て来なくなったのに気づいたときには、もう手遅れだった。その責任をとりたかった。端的にいって、俺は失敗した刑事だ。定年後も、バカなことをしたと後悔するだろうよ」

 田嶋は、じゃあどこに満足してるんですか、と訊いた。

「あの一件がなければ、可もなく不可もない、ただの刑事人生だった。成功が一番いい。だが、失敗は2番目にいい。思い出としては苦いが、思い出す価値はある」

 俺は持っていた煙草を、箱にしまった。

 ただ雨が降っている。

 それすらもなにかを思い出させてくれる人生は、稀有けうなものだと思った。

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