大久保美樹の矛盾
喫茶店の片隅は、いつも平穏な空間だ。
ほんとうは、そうじゃないとしても。
コーヒーが置かれたとき、彼はようやく現れた。
「すみません、遅れました」
眼鏡をかけた、ちょっとお堅そうな男性。
田嶋刑事だ。
同じ公務員として、気が合うこともあれば、合わないこともある。
田嶋さんは、私の正面に座ると、メニューも見ずに、
「どうでした?」
と尋ねた。
「先に注文したほうが、いいですよ」
「そうですね」
田嶋さんは、おざなりにコーヒーを頼んで、また私のほうを向いた。
「次のミーティングについて、先に伝えてもいいですか?」
「さっきと質問が違いますね」
田嶋さんは、視線を横にそらした──コーヒーが来るまでは、無難な会話をする、ということですか。
「どうぞ」
「彼女の言い分だと、早めに全員で集まりたいです」
「早めって、いつですか?」
「それはこれから詰めます」
私は呆れた。
と同時に、あの女子大生も、焦っているのかな、と思った。
「お父さんの退職と、関係があります?」
田嶋さんは、眼光鋭くこちらを見た。
いきなり刑事っぽくなるのは、やめて欲しい。
「それは関係ないんじゃありませんか?」
「コネは減りますよ、確実に」
コーヒーが運ばれてきた。
店員さんは、客の会話になにも興味がないらしく、すぐに立ち去った。
話題は、ここで元に戻った。
「どうでした?」
私は鞄から、紙の束を取り出した。
田嶋さんは、
「口頭で」
と遮った。
「ただのパンフレットです」
テーブルのうえに置く。
田嶋さんは、それを見るふりをしながら、
「で?」
と、先を促した。
「グレーの委託契約らしきものがありました。大学生にアルバイトをさせているのですが、雇用契約を結んでいないんです。大学生はそれに気づいていなくて、確定申告をしていませんし、市民税も払っていません」
「どのくらい問題がありますか?」
私は肩をすくめた。
「ほとんどないです。細部をぼやかして上司に相談したら、相手にされませんでした」
「相手にされなかった、というのは?」
「そんなことをしている暇があったら、地元のそば屋の大口寄付を調べろ、って言われました」
「……そうですか」
予期していたような口調だった。
やや腹立たしい。
警察で見つからなかったのだから、税務署で見つかるわけがない、というニュアンスが、どこかにあった
「ただ、それがかえってあやしいと感じています」
私の発言に、田嶋さんもうなずいた。
パンフレットから顔をあげて、コーヒーを飲んだ。
「こちらも、そう思っています……撒き餌、とでも言うんでしょうか」
税務署だと、お土産、と呼ばれているものだ。
税務調査なんて、そんなにクリーンな仕事じゃない。
どうしても納税者のミスを見つけたい、という職員は、残念ながらいる。
そういう職員は、いろいろと難癖をつけたあと、納税者がめんどくさくなって修正に応じるのを待つのだ。
こうなると、納税者側でも、事前に対応をする。故意のうっかりミス。矛盾した概念だけど、ようするに「うっかり申告ミスをした」ように見せかけること。税務署員はそれを指摘して、じぶんの手柄にする。それでさっさと帰ってもらえるなら、納税者も時間の節約になる。望ましくないWIN-WIN関係だ。
田嶋さんはコーヒーをサッと飲み干し、伝票を手にした。
「歩きながら話しましょう」
「個別でいいですよ」
「そちらの手数料ということで、今回は持ちます」
支払いを終えて、店を出る。寒い。
私はマフラーを巻きながら、視線を高くあげた。
澄んだ空。ほんとうに澄んだ空だった。
まるで私たちが、バカバカしいと言われているかのようだ。
死んだ相場師の遺産?
都市伝説?
実際には、それよりお笑い草だ。国は、あの姉弟の資産を把握している。どこから来たのかも知っているし、あの姉弟の父親──聖生とかいう、ふざけた名前で呼ばれている人物──が、どうやって稼いだのかも知っている。合法的な資産を、周囲があやしい目で見ているだけ。
そう、金額が大きい──とてつもなく大きい、ということを除いては。N資金は、存在する。でもそれは、すごいお金持ちがいる、という意味でしかない。
じゃあ、私はなんで、こんなことをしているの?
矛盾している。自分が。
田嶋さんも空を見上げながら、
「私たちがやっていることは、外から見れば、こどもの遊びかもしれません」
とつぶやいた。
私は、
「しかも、税金を使った遊びです」
と返した。
田嶋さんは、独り言のように、
「弁明があるとすれば、あちらのほうからも、ちょかいをかけてきていることです。なにかをしようとしている人物がいる……しかも、自分は巨悪だと、そう仄めかしている。もしそれが本当なら、なぜ見つけられないのでしょう? 切り口が間違っている?」
と、疑問文で結んだ。
雑踏とすれちがう。
会話が漏れないよう、黙って通り過ぎた。
人の熱気が消え、冷たい風がよみがえる。
私はコートの前を押さえながら、白い息を吐き、言葉をつむいだ。
「巨悪って、桃みたいなものだと思うんです」
田嶋さんは、ふと足を止めた。
なぞなぞを解くみたいに、しばらく黙った。
「……甘い罠がある、ってことですか?」
「桃って、種が大きいですよね。どこから包丁を入れても、ぶつかるんです」
田嶋さんは、また黙った。
そして、納得したような表情を、わずかに浮かべた。
「悪事が巨大なら、切り方は関係ない、と?」
「はい。暴力団だって、そうじゃないですか。麻薬を売ってる暴力団は、脱税もしています。麻薬の資金を確定申告するなんて、ありえないです。だから、あの姉弟が巨悪なら、もうとっくに解明できてるはずなんです」
それができないから困っているんです──田嶋さんは、そう言いたげだった。
私は先を続けた。
「切ろうとしているものが、間違っている……その可能性は、ありませんか?」
「……つまり?」
ひとりの女性が、そばを通り過ぎる。
私は口を閉じ──その背を目で追った。
「父親は、失踪宣告で亡くなったことになってるんですよね? ……もしかして、生きているんじゃないですか?」




