466手目 脱税疑惑
次のアルバイトの日、私は少し緊張していた。
対局の音、チェスクロの音。
談笑するこどもたち。
私は一局済ませて、休憩中。
道場の奥で、淡々と指す橘さん。
そして、手合いを決める受付台で、なにやら計算している宗像さん。
宗像ふぶきが偽名? そんなこと、ある?
私が首をかしげていたら、宗像さんと目が合った。
い、いかん、と思った瞬間、入り口のドアがひらいた。
登場したお客さんに、私は息を呑む──税務署のお姉さんだ。
いや、税務署かどうかは確定してないけど、レディースセミナーに来てたひと。
大久保さん。
大久保さんは、今日もカジュアルフォーマルな服装だった。
色合いがちょっと違っていて、前回は紺、今回はダークグレー。
宗像さんは、
「あ、こんにちは」
と、やや気軽にあいさつした。
顔をおぼえているっぽい。
お客さんに関する記憶力が、抜群にいいのよね。
去年1回しか来てないひとでも、おぼえていたことがあった。
大久保さんは、店内を見ながら、
「こんにちは……こちらは、駒の音の本店ですか?」
と、やや妙な言い回しをした。
「はい、先日はセミナーにいらしていただき、ありがとうございました」
「もう一回指したいのですが……」
大久保さんはそう言ったものの、やや入りにくい雰囲気を感じているようだった。
将棋道場あるある。
正直、初見で入るのは、けっこうきつい。
宗像さんもそれを察したようで、手合いに私を指名した。
うむむ、私も緊張してくる。
壁際の席へ移動。
駒を並べる。
駒落ちかどうか尋ねると、今回は平手で指してみたい、とのこと。
うーん、反対するのもアレなので、了承する。
振り駒をして、私が後手番。一礼。
「よろしくお願いします」
*** 女子大生、対局中 ***
今回も圧勝。
短期間で劇的に強くなるほうが怖いので、安心する。
ただなあ、将棋を指しに来た、という感触が、ないのよね。
指し手がどこかおざなりというか、負ける方向に進んでるのに、あがいてないというか。
大久保さんは、
「どこが変でしたか?」
と訊いてきた。
感想戦はする、と。
私は前回よりも踏み込んで、序盤の定跡とか、そのあたりを説明した。
できれば、駒落ちの定跡通り指してくれたほうが、負けやすいんですよ。
わー、ちゃんと定跡通り指せましたね、で、丸く収まるから。
八百長と思われるかもしれないから、言わないけど。
大久保さんは、王様の位置をなおしながら、
「先日のセミナーにもいらっしゃいましたが、こちらの店員さんですか?」
と質問した。
「アルバイトです」
「いつから始めてらっしゃるのですか?」
ん……私はちょっと警戒した。
「すみません、そういう個人情報は……」
「あ、ごめんなさい。こちらのアルバイトで強くなられたのかな、と思って」
それっぽい発言。
でも、話の流れに、わずかな違和感をおぼえた。
大久保さんは、
「あちらにいらっしゃるかたも、セミナーで指していましたね」
と言って、今度は橘さんに話を転じた。
橘さんは、窓際でおじさんの相手をしていた。
「ええ、彼女もアルバイトで……」
「女性のかただけで、運営されているのですか?」
いや、あのですね、ここはいかがわしいお店でもなんでもないわけで。
最初は誤解かと思ったけど、こうなったら確信せざるをえない。
なにか調査に来ている。
「アルバイトなので、どういう経営なのかは、ちょっと……」
「そうですね、失礼しました」
大久保さんは、間を置いてから、
「店主のかたと指せませんか?」
と訊いてきた。
「……宗像さんとですか?」
「はい、先日のセミナーでも、わかりやすい説明をなさっていましたし、ご指導いただけたらいいな、と」
それはアレですか、私の教え方がヘタってことですか?
と、論点はそこじゃない。
「宗像さんは、対局なさらないです」
「なぜですか?」
なぜですか、と言われましても。
そういう決まりになっている。
私が困っていると、うしろに人影が現れた。
橘さんだった。
「次はわたくしが手合いです」
助かった。
ありがとうございました、と言って、離席。
橘さんは有無を言わさずに座ると、駒を戻し始めた。
大久保さんは、黙って従った。
私はひと息ついて、水分補給。
そのあとはこれと言ったことも起こらず、閉店の時間になった。
大久保さんは、最後までずっといて、橘さんに将棋でしばかれていた。
しかも、終了時には、一番最後に退店。
受付の前を通るとき、大久保さんはふと足を止めた。
「今日はありがとうございました」
宗像さんは、
「こちらこそ、ご来店ありがとうございました」
と返した。
「宗像さんは、将棋をしないのですか?」
大久保さんは、いきなりそう尋ねた。
けど、宗像さんは、まったく表情を変えずに、
「ええ、私は席主代理で、事務作業担当なので」
と返した。
「席主は、どちらに?」
宗像さんはほほえんで、
「席主は道場へは顔を出しません」
と答えた。
その台詞の端には、うっすらと、ほんとうにうっすらと、ご存じのはずですが、というニュアンスが感じられた。
大久保さんは、
「そうですか……また来るかもしれません」
と言って、道場を出て行った。
私たちも帰りの支度をして、解散。
外に出て、寒風に吹かれる。
橘さんは、自転車を走らせるまえに、ひとこと、
「先ほどのかた、気になさらないほうがよいです」
と小声で言った。
「え……大久保さんですか?」
「すこし調べてみましたが、税務署員で間違いありません」
し、調べた、とは?
疑問が顔に出たのか、橘さんは、
「元朽木証券の人脈を、甘く見ないほうがよろしいです」
と添えた。
そ、それはそれで怖いんですが。
橘さんは、自転車を押しながら、
「いずれにせよ、気にする必要はありません。宗像さんと税務署とのあいだの問題です。課税の更正もよくあることですし、悪質でない限りは、ただの事務作業です。宗像さんを擁護するような言動は、かえってあやしまれます」
とアドバイスした──そうかしら?
私と大谷さんと松平は、すこし違う解釈をしている。
「……橘さんって、宗像さんからなにか、書類をもらったことありますか?」
「書類、とは?」
「源泉徴収票とか、そういう……」
いいえ、と橘さんは答えた。
私は、
「他でアルバイトしたことないからわからないんですけど、友人から、源泉徴収票がないのっておかしくない、って言われたことがあって……」
と言いよどんだ。
これは、粟田さんから指摘されたことだった。
橘さんは、敷地を出た路上で、自転車を止めた。
「私たちは、雇用されていないのですよ」
「……というと?」
「従業員ではないのです。フリーランスで、お金をもらっているのです」
え、そうなの?
私が言い返そうとしたところで、橘さんは、ひとさしゆびを立てた。
「お静かに……あまり深読みすると、不利益が生じるかもしれません。いつもニコニコ現金払いは、ありがたく受け取っておきましょう」
数日後、私は部室で、とんでもないことに気づいてしまった。
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………………脱税してるの、私なのでは?
本を持ってぷるぷるしていると、ララさんに声をかけられた。
「香子、どうしたの?」
「去年、確定申告しないといけなかったのに、してなかったかも……」
ララさんは、うわー、出たー、カ・ク・テ・イ・シ・ン・コ・クと言いながら、その場でくるくると回った。
「Meu Deus! 悪しき税金から、ララたちを守り給え」
私はララさんを放置して、もういちど本を読み直した。
雇用契約の場合、雇い主に源泉徴収義務がある。
雇われてるがわは、確定申告の義務なし。
でも、業務委託の場合、委託されたがわに確定申告の義務がある。
全部が全部そうなってるわけじゃないけど、私は例外にあてはまってない気がする。
20万以上稼いだし、雇用契約書もない。
もしかして……大久保さんは、私を調べている?
最悪だ、と思いきや、ソファーで横になっていた穂積さんは、寝ころんだまま、
「そんなに心配する必要ないって」
と言った。
私は本から顔をあげた。
「なんでそう言い切れるの?」
「従業員の源泉徴収をしてないのは、宗像さんのミスでしょ。怒られるのは宗像さん」
「私は従業員じゃないのよ」
「それって、香子の自己判断じゃない。裁判官が認定したならともかく、私は従業員だと思ってましたって、言い張ればいいの。そもそも、何十万円くらいの収入で、こんなに大げさに調査しないって。確定申告を忘れてましたあ、なーんて香子から言い出すほうが、絶対にこじれる」
ララさんは感心して、
「さすがは八花弁護士、悪しき隣人」
と褒めた。
そう言われてもなあ、もやもやする。
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………………松平と大谷さんに相談しましょ、そうしましょ。