田嶋敏夫の報告
汚れたテーブルのうえに、ウーロン茶のグラスが置かれた。
カランと、氷が鳴った。
騒々しい居酒屋の片隅の、ふとした清涼剤だった。
口髭の濃い、四角顔の、還暦間近な男性──根本さんは、低い声で、
「行き止まりだった……か」
とつぶやいた。
落胆というよりは、受け入れるような響きがあった。
そのとなりに座っていた、ロマンスグレーの、メガネをかけた高齢の女性──大久保さんも、
「ま、そんなもんよね」
と、あっさり言ってのけた。
そして、こちらを見た。
「田嶋くんの話を信じるなら、だけど」
僕はグラスを置いた。
3人とも、しらふだった。
「こればっかりは、信じてもらうしか、ないですね」
「でも、簡単に信じられる内容じゃない」
それは、その通りだった。
あのあと、宇津貫は僕を、貸金庫へ案内した。
支店長室を出てしばらくのあいだ、会話はなかった。
事務員たちも、めいめいじぶんの仕事に専念していた。
貸金庫室には、入り口となるドアがあって、カードリーダーが見えた。
宇津貫がカードを通すと、簡単にひらいた。
「暗証番号は、ないんですね」
僕の質問に、宇津貫はとびらを引きながら、
「ここは、お客さまが入られるときも使うので、設定していません」
と言った。
「カードキーは、その1枚だけですか?」
「いえ、予備が1枚あります」
宇津貫は、重いですよ、と言って、ドアノブを僕に渡した。
なかなかの重量だった。片手で押さえつつ、中へ入った。
室内は、僕が思っていたものと、違っていた。
部屋というよりは、ほとんど廊下のような空間だった。
ひんやりとしていた。体感、20度くらいか。
しかも、暗かった。
照明が弱いだけでなく、壁の色は黒で、カーペットもダーク系だった。
その左右に、ダイヤルのある金庫がならんでいた。
僕は、ちらりと天井を見た。
案の定、監視カメラがあった。
「あのカメラは、どういうアングルになってますか?」
「この通路を、ずっとにらんでます。奥に、もう1台あります」
目をこらすと、たしかにあった。
「死角はありますか?」
「2台合わせると、ないようになってます」
あとで、警備室を見せてくれるように頼んだ。
通路を進む。
僕は慎重に、ゆっくりと歩いた。
金庫の光沢が、視界を右から左に流れた。
「どれも新しいですね」
「ええ、数年前に、リフォームしましたので」
「中身は、どうしたんですか?」
「いったん、すべて出していただきました」
この点は、事前に調査済みだった。
ホシは──聖生も、中身を出したんじゃないか?
いつ? どこへ?
僕はなるべく、表情へ出さないようにした。
貸金庫を、そのまま機械的に見て回った。
一番奥へ辿り着く。
ターンするため、左手のほうを見た瞬間、僕は凍りついた。
行き止まり
壁から、わずかに突出した柱。
そこに、貼り紙があった。
「あの……これは?」
宇津貫は、ああ、それですか、と返した。
「ドアと勘違いされるひとがいましてね、念のため、貼ってあるんです」
ドアと勘違いする?
どう見ても、ただの柱だ。
僕はふりかえって、
「そんなお客さんが、いますかね?」
と尋ねた。
宇津貫は、額にしわをよせて笑った。
「いらっしゃるものは、しょうがありません」
以上が、あのあとのやりとりだった。
僕の視界は、居酒屋へ戻ってきた。
カウンターで、バンダナを巻いた女性が、焼き鳥を運んでいた。
根本さんは、しばらく黙った。
このひとは、聖生を密かに調査しているグループのメンバーで、最古参のひとりだった。速水さんの父親、つまり、速水検事長の知り合いで、日円銀行利益供与事件に関わっていたひとだ。
そのとなりの女性、大久保さんは、元交通巡視員だった。今は、大手の生命保険会社で働いている。あとからメンバーに加わったひとだが、速水検事長と知り合いらしかった。
根本さんはグラスをかたむけ、大久保さんは前髪をさわった。
先に口をひらいたのは、大久保さんだった。
「文字通り、行き止まりね」
僕は、
「お手上げってことですか?」
と尋ねた。
大久保さんは、そこまでは言っていない、という感じで、肩をすくめた。
またしばらくのあいだ、沈黙が続いた。
根本さんはグラスをあげて、ウーロン茶をひとくち飲んだ。
「……収穫はあった」
そのひとことに、僕は反応した。
「なんの収穫です?」
「ヤツはまだ生きてる」
なんだ、そんなことか、と僕は思った。
けれど、大久保さんも感慨深げに、
「そろそろ死んでても、おかしくないからね」
と言った。
その口調はあっさりしていたが、妙に重々しく感じられた。
根本さんは、
「俺が担当したヤマで、ひとつ解決しなかったものがある。数ヶ月ほどして、ああ、ホシはもうこの世にいないな、と察した。そういう事件は、けっこう多いのかもしれん」
と言ってから、グラスを置いた。
そして、こう続けた。
「まあ、昔話なんざ、意味がない……その貼り紙は、ヤツが用意したもので、間違いないと思う。まだ新しかったか?」
「難しい質問ですね……あそこは空調が効いてましたし、日光も当たらないので、紙の劣化はそんなに起きないと思います」
「なるほどな。そこらの貼り紙とは、比較できんか。しかし、20年くらい経ってたかどうかは、わかるだろう」
さすがに20年はないと思います、と僕は答えた。
「これは自信があります。あそこの改装があったのは、2013年です。貼りなおした形跡はなかったので、リフォーム後のものだと言えます。糊で貼ってたにせよテープで貼ってたにせよ、剥がしたら紙が痛みますからね」
田嶋さんは、グラスのふちをなぞりながら、
「2013……あのオヤジが、支店長になったときか」
と言った。
僕は身を乗り出した。
「そこです。まだ調べはついてませんが、指示したのはオヤジ自身だと思います」
ところが、大久保さんは、
「それはないんじゃない? 年度内に新規予算はつかないでしょ」
と指摘した。
「あ、たしかに……ってことは、それ以前から計画があったんですかね?」
大久保さんは、それは知らないけど、と断ったあとで、
「中身を取り出す手間もあるし、年単位の計画でしょうね」
と付け加えた。
それも、そうだと思った。
銀行は、貸金庫の中身を知らない、という建前になっている。
だから、銀行が勝手に取り出して、べつの場所に保管する、ということもできない。顧客にひとりずつ連絡して、移動させてもらうしかないわけだ。
となれば──
「吉田もあやしい……と?」
大久保さんは、
「可能性としては」
と返した。
そこへ、根本さんが口を挟んだ。
「そっちの線を、俺は追っていない」
大久保さんは、ちらりと視線を向けて、
「なにか掴んでる?」
と訊いた。
「いや、ただの勘だ……ヤツは20年間、一度もしっぽを見せなかった。人との接触は、最小限にしているはずだ。管理人が変わるごとに、計画へ引き込んでいたとは、思えない。関係者が増えると、チクるやつも出てくる」
大久保さんは、
「なるほどね。ってことは、自殺したあのひとと、今のオヤジだけ、って結論か」
と言って、オレンジジュースを飲みほした。
そして、スマホを取り出した。
「そろそろ帰らなきゃ」
食事の割りかんに、自分が飲んだ分の上乗せ。
それが、この会合のルールだった。
細かくなるから、支払は電子決済。合理的だ。
僕のアプリに振り込んで、大久保さんはテーブルを離れた。、
根本さんは、背中を向けたまま手を振った。
僕は、また次回、とだけ言って、入り口から出て行くのを見送った。
そのあいだ、根本さんはじっと、グラスのお茶を眺めていた。
「……行き止まり、か。そうかもしれん。おそらく、ヤツの貸金庫は、とっくになくなっていた。このルートは、真相につながっていなかった」
僕は、ちょっと返事をためらったあと、
「他のルートがありますよ」
となぐさめた。
「ああ、あるだろう。だが、俺には時間がない。もうすぐ定年だ。大久保さんは、とっくに辞めてるしな。交通巡視員から、寿退官。今は、保険会社の事務員だよ。昔は、女性の警察官なんて、ほとんどいなかった。今もそんなにいないが……」
根本さんは顔を上げて、どこか遠くを見つめた。
「大久保さんなら、凄腕の刑事になれただろうなあ」
それから、ふと真顔に戻った。
「それに、あのひとだって、来月で定年だ」
速水検事長のことか──たしかに、と思った。
「1年と9ヶ月。長くやったほうだ。これで、俺たちのコネはなくなる。お嬢ちゃんも、ただの大学生ってわけだ」
僕は姿勢を正した。
「お言葉ですが、若い人間には任せられない、というお考えですか」
根本さんは、視線だけこちらへ上げた。
「逆だよ。俺はもう、時代についていけん。ただ……」
根本さんは、ふたたび虚空を見つめた。
先ほどとは異なるまなざしを、僕には見えないものへ向けた。
「ヤツに手錠をかけるのは、俺がやりたかった。あのとき、ホシに消えられたのは、俺のヘマだったからな」




