452手目 公訴時効
※ここからは、田嶋刑事視点です。
雨が降っていた。
気温は低い。昼下がりだというのに。
いつもならうんざりする天気だが、今日は気分が落ち着いた。
うしろめたいことがあるからかもしれない。
腕時計が予定の時刻を指すまで、車内は静まり返っていた。
僕は秒針のひとつひとつの動きを追ったあと、
「……時間です」
と告げた。
後部座席にいる少女──速水は、ゆっくりとした口調で、
「あとはお任せします」
と言った。
僕は嘆息した。
「発案者は、あなたですからね」
「そうです。発案者として、あとはお任せします。この先は、現場の判断が優先しますから」
なるほど、と思ったが、詭弁だとも思った。
僕は、もういちど腕時計を見た。
「それじゃ、行って来ます。あまり期待はしないでください」
傘を持ち、ドアを開ける。
このタイミングは、いつも不器用だ。
スーツが少し濡れた。
アスファルトの水溜まりを迂回して、駐車場から歩道に出た。
平日とはいえ、銀座はひどくにぎわっていた。
1分ほど歩く──目当ての建物が見えた。
大円銀行銀座支店。
日本の金融を支える、メガバンクのひとつ。
それを自負するかのような、古びた外観だった。
けれども、ガラスから見える店内は、ご立派な現代的施設だった。
僕は自動ドアをくぐった。
入り口に、愛想の良さそうな女性が立っていた。
「いらっしゃいませ、ご用件をお伺いします」
「支店長にお会いしたいです」
女性は笑みを崩さなかったものの、やや困ったように、
「どのようなご用件でしょうか」
と、くりかえし尋ねた。
僕は警察手帳を見せた。
「こういうものです。支店長はいらっしゃいますか」
女性は初めて、営業スマイルをやめた。
そして、
「どのようなご用件でしょうか?」
と、3度目の、ニュアンスが異なる質問をした。
「ある事件で、聞き込みをおこなっています。繋いでいただけませんか」
女性は、カウンターの奥へ消えた。
最近の銀行は、仕切りが多くて、なにをしているのかわからなかった。
が、5分ほどして、戻って来た。
「こちらへどうぞ」
思ったより早いな。
僕は礼を言って、奥へ通された。
他の事務員は、こちらを見ることなく、仕事に専念していた。
奥へ奥へと進み、支店長室と書かれたドアのまえについた。
「どうぞ、お入りください」
女性はそう言って、ドアを開けることもしなかった。
僕はもういちどお礼を言って、ノックをした。
「失礼します」
どうぞ、という、やや大き目な声が返ってきた。
ドアを開ける。
室内は清潔で、高級感があった。
木製のデスクに、男性が座っていた。
頭頂部に向けて禿上がった、痩せ気味の人物だった。
写真よりも老けて見えた。
男性は、すぐに席を立って、僕を迎えた。
「支店長の宇津貫です」
「田嶋です」
僕は警察手帳を見せた。
宇津貫はちらりと確認して、ソファーを勧めた。
「どうぞ、おかけになってください」
僕と宇津貫は、対峙するように、向かい合って座った。
当たり前の構図だが、妙に緊迫感があった。
「今日は突然お邪魔して、もうしわけありません。ひょっとすると、私が来た用件は、もうご存じかもしれませんが」
宇津貫は、
「先日の、貸金庫の件ですか」
と、とぼけることもなく返した。
「ええ、そうです。被告人の鳥井は、こちらの支店に勤めていたことがありましたね」
ここで、会話は中断した。
お茶が運ばれてきたのだ。
先ほどとは違う女性で、僕が警察だと知らなかったらしい。
事務的に持ってきたのだろうと思い、退室を待った。
この間合いは、宇津貫に余裕を与えてしまった。
事務員が退室するや否や、宇津貫は、
「鳥井はたしかに、こちらで働いていたことがあります。2006年から2008年までです」
と言った。
「大円銀行での勤務は、こちらが初めてですか?」
「いえ、そのまえは別の支店で働いていました」
「どちらで?」
「吉祥寺です」
僕は、メモを取る手をとめた。
「銀行の上司は、従業員の経歴を、そこまで覚えているものなのですか?」
宇津貫は笑って、
「ニュースのあと、上からいろいろとお達しがありました。この支店にもいたので、支店長の私が、いったん調べたんですよ」
と答えた。
「なるほど、それは助かります……鳥井は、どういうひとでした?」
「あの頃、私は支店長ではなかったですし、部署が違ったので、詳しくは知りません。いっしょに仕事をしたことは、ないですね、おそらく」
「鳥井は、貸金庫にどうやって入ったと思いますか?」
宇津貫の回答は、急にのらりくらりとなった。
「それは刑事さんに考えてもらうしか、ありません。セキュリティに問題があったとは思えませんし、そもそも鳥井がやったというのは、本当なのですか?」
「私たちとしては、強い嫌疑をいだいています。鍵の管理は、どなたが?」
「貸金庫室の入り口の鍵ですか? それとも?」
「入り口の鍵と、金庫の鍵の両方です」
宇津貫の回答によると、貸金庫室の入り口の鍵は、専門部署が管理し、個別の金庫の鍵は、顧客と銀行が一本ずつ持っている、ということだった。
「なぜ鍵が2本あるのですか?」
「お客さんが持っているキーを正鍵、銀行が持っている鍵を副鍵というんです。副鍵は厳封したうえで、銀行に仕舞ってあります」
「その副鍵の管理は、どなたが?」
「支店長です」
宇津貫の説明は、ずいぶんとあっさりしていた。
この余裕の秘密は、お茶のときに生まれた、精神的猶予だけではなさそうだった。
僕は、メモを見た。
「2006年から2008年までの支店長は……」
「私ではありません。私がここをお預かりしているのは、2013年からです。その時期は、吉田さんというかたが支店長でした」
「吉田さんは、その後?」
「専務になったあと、定年されたんじゃないでしょうか」
これは、僕が持っていた情報と一致していた。
正直なところ、ここまでは軽い下見だ。
少しばかり息を整えて、本題へ入る。
「容疑者がこちらにいたあいだの、貸金庫の利用記録を閲覧できますか?」
さあ、どう出る?
ことわるか、それとも受けるか。
宇津貫は、なるほど、そういう御用件でしたか、と前置きして、
「私は法律の専門家ではありませんが、窃盗というのは、何年か経つと訴えられなくなるそうですね?」
と、質問で返してきた。
「罪状は未定ですが、仮に窃盗や横領なら、7年が公訴時効になります。容疑者は、2010年の12月に、犯行におよんだ疑いがあります。まだ時効にはなっていません」
「本支店に鳥井が勤めていたのは、2008年までなのです。9年前ということになりますが、これは犯罪になるのですか?」
「犯罪は犯罪です。公訴時効というのは、検察官が容疑者を刑事裁判にかけられなくなる、という意味です」
「その正しい意味によると、この支店での勤務時期は、どうなるのですか?」
僕は、メモ帳をいったん閉じた。
「警察では、容疑者が他の支店でも金品を持ち出していたのではないかと、そう考えています。同じ手口を使いまわしている可能性があるので、銀座支店での彼女の行動を知りたいのです」
ここで、会話が途切れる──はずだった。
宇津貫の質問は、明らかに用意されていたものだった。
こちらも用意した答えを返した。
次に来るのは、宇津貫のシンキングタイムのはずだった。
ところが、宇津貫は、
「なるほど、承知しました。では、少しお待ちください」
と言って、席を立った。
そして、施錠された棚へ近づくと、鍵を開けて、バインダーをひとつ取り出した。
ソファーにもどり、それを僕のまえへ置いた。
「こちらが、2006年から2008年までの、副鍵の貸し出し記録です」
僕は、あっけにとられた。
準備が良すぎるだろう。
「……もしかして、ご用意されていましたか?」
「え、それは、どのような意味で?」
「あの棚の大きさからして、この銀行のファイルが、全部入っているわけではないですよね。支店長室にあるのは、重要書類だけだと思います。副鍵の古い貸し出し記録が、わざわざ置いてあったとは、思えないのですが」
宇津貫は笑った。
その笑いは、商談の笑い方に似ていた。
「ハハハ、失礼しました。じつは、鳥井がいたとわかった時点で、刑事さんがこれを欲しがるんじゃないかと、そう思いましてね。ご用意していたんですよ」
「なら、なぜ最初にそうおっしゃっていただけなかったんですか?」
宇津貫は、すこし声を落として、
「大きな声では言えませんが、私が警察へ自発的に資料を見せたとなると、うえがよく思わないもので。刑事さんがご入用だとおっしゃるから、こうしてしぶしぶ出した、というわけです」
と答えた。
僕は、1番上のファイルを見た。
【副鍵貸出帳 平成18-20】というタイトルで、シールが貼られていた。
「……お預かりしても、よろしいですか?」
「ええ、コピーですがね、それは」
思わずタメ息が出そうだった──が、こっちの本命は、これじゃないんだ。
二の矢を放つ。
「できれば、もうひとつお願いがあるのですが」
「なんでしょうか?」
「貸金庫を、一度見せていただけませんか? セキュリティの状態を確認したいのです」
緊張が走る──間もなかった。
「ええ、けっこうですよ」
宇津貫は立ち上がった。
僕は、腰をあげるのが遅れた。
宇津貫は、支店長室から顔を出して、
「おーい、ちょっと貸金庫に入るよ」
と言ってから、こちらへ顔をもどした。
どこか無邪気な──中高年の男性が、童心にもどったときのような、無邪気な笑いがあった。それは、なにかを含んでいた。
「あの貸金庫に入るのは、ひさしぶりですよ……では、参りましょう」