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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第70章 裏見香子、学業に励む(2017年11月8日水曜)
467/487

452手目 公訴時効

※ここからは、田嶋たじま刑事視点です。

 雨が降っていた。

 気温は低い。昼下がりだというのに。

 いつもならうんざりする天気だが、今日は気分が落ち着いた。

 うしろめたいことがあるからかもしれない。

 腕時計が予定の時刻を指すまで、車内は静まり返っていた。

 僕は秒針のひとつひとつの動きを追ったあと、

「……時間です」

 と告げた。

 後部座席にいる少女──速水はやみは、ゆっくりとした口調で、

「あとはお任せします」

 と言った。

 僕は嘆息した。

「発案者は、あなたですからね」

「そうです。発案者として、あとはお任せします。この先は、現場の判断が優先しますから」

 なるほど、と思ったが、詭弁だとも思った。

 僕は、もういちど腕時計を見た。

「それじゃ、行って来ます。あまり期待はしないでください」

 傘を持ち、ドアを開ける。

 このタイミングは、いつも不器用だ。

 スーツが少し濡れた。

 アスファルトの水溜まりを迂回して、駐車場から歩道に出た。

 平日とはいえ、銀座はひどくにぎわっていた。

 1分ほど歩く──目当ての建物が見えた。

 大円だいまる銀行銀座支店。

 日本の金融を支える、メガバンクのひとつ。

 それを自負するかのような、古びた外観だった。

 けれども、ガラスから見える店内は、ご立派な現代的施設だった。

 僕は自動ドアをくぐった。

 入り口に、愛想の良さそうな女性が立っていた。

「いらっしゃいませ、ご用件をお伺いします」

「支店長にお会いしたいです」

 女性は笑みを崩さなかったものの、やや困ったように、

「どのようなご用件でしょうか」

 と、くりかえし尋ねた。

 僕は警察手帳を見せた。

「こういうものです。支店長はいらっしゃいますか」

 女性は初めて、営業スマイルをやめた。

 そして、

「どのようなご用件でしょうか?」

 と、3度目の、ニュアンスが異なる質問をした。

「ある事件で、聞き込みをおこなっています。繋いでいただけませんか」

 女性は、カウンターの奥へ消えた。

 最近の銀行は、仕切りが多くて、なにをしているのかわからなかった。

 が、5分ほどして、戻って来た。

「こちらへどうぞ」

 思ったより早いな。

 僕は礼を言って、奥へ通された。

 他の事務員は、こちらを見ることなく、仕事に専念していた。

 奥へ奥へと進み、支店長室と書かれたドアのまえについた。

「どうぞ、お入りください」

 女性はそう言って、ドアを開けることもしなかった。

 僕はもういちどお礼を言って、ノックをした。

「失礼します」

 どうぞ、という、やや大き目な声が返ってきた。

 ドアを開ける。

 室内は清潔で、高級感があった。

 木製のデスクに、男性が座っていた。

 頭頂部に向けて禿上がった、痩せ気味の人物だった。

 写真よりも老けて見えた。

 男性は、すぐに席を立って、僕を迎えた。

「支店長の宇津貫うつぬきです」

「田嶋です」

 僕は警察手帳を見せた。

 宇津貫はちらりと確認して、ソファーを勧めた。

「どうぞ、おかけになってください」

 僕と宇津貫は、対峙するように、向かい合って座った。

 当たり前の構図だが、妙に緊迫感があった。

「今日は突然お邪魔して、もうしわけありません。ひょっとすると、私が来た用件は、もうご存じかもしれませんが」

 宇津貫は、

「先日の、貸金庫の件ですか」

 と、とぼけることもなく返した。

「ええ、そうです。被告人の鳥井とりいは、こちらの支店に勤めていたことがありましたね」

 ここで、会話は中断した。

 お茶が運ばれてきたのだ。

 先ほどとは違う女性で、僕が警察だと知らなかったらしい。

 事務的に持ってきたのだろうと思い、退室を待った。

 この間合いは、宇津貫に余裕を与えてしまった。

 事務員が退室するや否や、宇津貫は、

「鳥井はたしかに、こちらで働いていたことがあります。2006年から2008年までです」

 と言った。

「大円銀行での勤務は、こちらが初めてですか?」

「いえ、そのまえは別の支店で働いていました」

「どちらで?」

「吉祥寺です」

 僕は、メモを取る手をとめた。

「銀行の上司は、従業員の経歴を、そこまで覚えているものなのですか?」

 宇津貫は笑って、

「ニュースのあと、上からいろいろとお達しがありました。この支店にもいたので、支店長の私が、いったん調べたんですよ」

 と答えた。

「なるほど、それは助かります……鳥井は、どういうひとでした?」

「あの頃、私は支店長ではなかったですし、部署が違ったので、詳しくは知りません。いっしょに仕事をしたことは、ないですね、おそらく」

「鳥井は、貸金庫にどうやって入ったと思いますか?」

 宇津貫の回答は、急にのらりくらりとなった。

「それは刑事さんに考えてもらうしか、ありません。セキュリティに問題があったとは思えませんし、そもそも鳥井がやったというのは、本当なのですか?」

「私たちとしては、強い嫌疑をいだいています。鍵の管理は、どなたが?」

「貸金庫室の入り口の鍵ですか? それとも?」

「入り口の鍵と、金庫の鍵の両方です」

 宇津貫の回答によると、貸金庫室の入り口の鍵は、専門部署が管理し、個別の金庫の鍵は、顧客と銀行が一本ずつ持っている、ということだった。

「なぜ鍵が2本あるのですか?」

「お客さんが持っているキーを正鍵せいけん、銀行が持っている鍵を副鍵ふくけんというんです。副鍵は厳封したうえで、銀行に仕舞ってあります」

「その副鍵の管理は、どなたが?」

「支店長です」

 宇津貫の説明は、ずいぶんとあっさりしていた。

 この余裕の秘密は、お茶のときに生まれた、精神的猶予だけではなさそうだった。

 僕は、メモを見た。

「2006年から2008年までの支店長は……」

「私ではありません。私がここをお預かりしているのは、2013年からです。その時期は、吉田よしださんというかたが支店長でした」

「吉田さんは、その後?」

「専務になったあと、定年されたんじゃないでしょうか」

 これは、僕が持っていた情報と一致していた。

 正直なところ、ここまでは軽い下見だ。

 少しばかり息を整えて、本題へ入る。

「容疑者がこちらにいたあいだの、貸金庫の利用記録を閲覧できますか?」

 さあ、どう出る?

 ことわるか、それとも受けるか。

 宇津貫は、なるほど、そういう御用件でしたか、と前置きして、

「私は法律の専門家ではありませんが、窃盗というのは、何年か経つと訴えられなくなるそうですね?」

 と、質問で返してきた。

「罪状は未定ですが、仮に窃盗や横領なら、7年が公訴時効になります。容疑者は、2010年の12月に、犯行におよんだ疑いがあります。まだ時効にはなっていません」

「本支店に鳥井が勤めていたのは、2008年までなのです。9年前ということになりますが、これは犯罪になるのですか?」

「犯罪は犯罪です。公訴時効というのは、検察官が容疑者を刑事裁判にかけられなくなる、という意味です」

「その正しい意味によると、この支店での勤務時期は、どうなるのですか?」

 僕は、メモ帳をいったん閉じた。

「警察では、容疑者が他の支店でも金品を持ち出していたのではないかと、そう考えています。同じ手口を使いまわしている可能性があるので、銀座支店での彼女の行動を知りたいのです」

 ここで、会話が途切れる──はずだった。

 宇津貫の質問は、明らかに用意されていたものだった。

 こちらも用意した答えを返した。

 次に来るのは、宇津貫のシンキングタイムのはずだった。

 ところが、宇津貫は、

「なるほど、承知しました。では、少しお待ちください」

 と言って、席を立った。

 そして、施錠された棚へ近づくと、鍵を開けて、バインダーをひとつ取り出した。

 ソファーにもどり、それを僕のまえへ置いた。

「こちらが、2006年から2008年までの、副鍵の貸し出し記録です」

 僕は、あっけにとられた。

 準備が良すぎるだろう。

「……もしかして、ご用意されていましたか?」

「え、それは、どのような意味で?」

「あの棚の大きさからして、この銀行のファイルが、全部入っているわけではないですよね。支店長室にあるのは、重要書類だけだと思います。副鍵の古い貸し出し記録が、わざわざ置いてあったとは、思えないのですが」

 宇津貫は笑った。

 その笑いは、商談の笑い方に似ていた。

「ハハハ、失礼しました。じつは、鳥井がいたとわかった時点で、刑事さんがこれを欲しがるんじゃないかと、そう思いましてね。ご用意していたんですよ」

「なら、なぜ最初にそうおっしゃっていただけなかったんですか?」

 宇津貫は、すこし声を落として、

「大きな声では言えませんが、私が警察へ自発的に資料を見せたとなると、うえがよく思わないもので。刑事さんがご入用だとおっしゃるから、こうしてしぶしぶ出した、というわけです」

 と答えた。

 僕は、1番上のファイルを見た。

 【副鍵貸出帳 平成18-20】というタイトルで、シールが貼られていた。

「……お預かりしても、よろしいですか?」

「ええ、コピーですがね、それは」

 思わずタメ息が出そうだった──が、こっちの本命は、これじゃないんだ。

 二の矢を放つ。

「できれば、もうひとつお願いがあるのですが」

「なんでしょうか?」

「貸金庫を、一度見せていただけませんか? セキュリティの状態を確認したいのです」

 緊張が走る──間もなかった。

「ええ、けっこうですよ」

 宇津貫は立ち上がった。

 僕は、腰をあげるのが遅れた。

 宇津貫は、支店長室から顔を出して、

「おーい、ちょっと貸金庫に入るよ」

 と言ってから、こちらへ顔をもどした。

 どこか無邪気な──中高年の男性が、童心にもどったときのような、無邪気な笑いがあった。それは、なにかを含んでいた。

「あの貸金庫に入るのは、ひさしぶりですよ……では、参りましょう」

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