448手目 ゼミナール入室試験
※ここからは、香子ちゃん視点です。
部室のテーブルで、私は一冊の本を読んでいた。
すると、くしゃみがひとつ聞こえた。
風切先輩だった。
パソコンに向かって、なにやら調べ物をしている最中だった。
「だれか俺のうわさをしてるな」
そういうオカルトはNG。
「だいじょうぶですか?」
「風邪じゃないんだが、ここ数日、たまにくしゃみが出る」
風邪なのでは?
私は、
「大会も終わりましたし、ゆっくり休んでください」
と言った。
ところが、先輩は、
「そうもいかない。次のプレゼミは俺の担当だ」
と答えた。
「プレゼミ? プレゼミって、2年時の打ち合わせですよね?」
「ん? 経済学部だと、そういう意味なのか?」
そうですね、と私は返した。
正式な登録は3年生からだけど、事前に集まっているゼミがあるのだ。
2年生終わりの春休みに集まる、っていうのが、一番多いらしい。
それを聞いた先輩は、
「数学科のプレゼミは、正式科目だ。理系だと、4年で卒研だろ。松平もそうだと思う。だけど、4年生になっていきなり、はい卒業研究をしましょう、なんて、ふつうはできないからな。3年生のうちに仕込むわけさ」
と教えてくれた。
なるほど。
私が納得していると、風切先輩は、
「まあ、俺はできるけどな」
と言って笑った。
あのですね、そういう態度は、周囲の反感を買うわけでありましてね。
一方、風切先輩は、私が読書していたことに気づいて、
「将棋の本じゃないっぽいが、なに読んでるんだ?」
と訊いてきた。
私は表紙を見せた。
「『経済学部生のための数学』……そうか、裏見も数学教に回心したか」
ちがいます。
私は事情を説明した。
ようするに、今日がゼミナールの入室試験なんですよッ!
風切先輩は、
「入室試験が数学とは、世の中、捨てたもんじゃない」
と、やたら感心していた。
うーん、数学の話題になると、やはり危ないキャラだ。
私はスマホで時間を確認して、テキストを鞄へ仕舞った。
「じゃ、行ってきます」
「おう、がんばれよ。わかんなかったら連絡くれ」
それはカンニングですッ!
○
。
.
とは言ったものの……サポートして欲しいくらい緊張する。
この試験、普通に落ちることがあるらしいのよね。
当たり前といえば当たり前なんだけど、形骸化しているゼミもあると聞いた。
で、なにが問題かというと、落ちたら二次募集へ回ることになる。この時点で、人気ゼミは締め切っているのが通例。つまり、一次募集で落ちると、不本意進級になる可能性が高くなってしまうのだ。
私は前から3番目の、窓際の席に座っていた。
全部で10人の志願者。
開始時刻5分前に、五十嵐先生が入室した。
「それでは、五十嵐ゼミナールの入室試験をおこないます。教室を間違えている、というひとがいたら、退室してください」
さすがにいない。
「学生証を、机のうえに出してください。学生証がなければ、試験は受けられません」
ひとりを除いて、みんなもう出してあった。
さすがに2年生だから、こういうのは慣れている。
そのあと、スマホの電源を切るように指示があった。
「では、問題用紙をくばります。回答欄は同じプリントにあります。合図があるまで、表にしないでください。試験時間は、60分です」
先生は、前から順に配った。
問題は透けて──見えませんね、はい。
ただ、A3一枚ということはわかった。
先生は教壇へもどると、腕時計で時間を確認した。
「……それでは、始めてください」
私は問題用紙をめくった。
【問1】
まずは行列。線形代数だから、王道ではある。
小問は全部、初歩的。
行列の和は、各項を足すだけ。(1)は楽勝。
問題は積だ。これは各項の掛け算じゃない。
慎重に計算して……よし。(2)もクリア。
行列式は、a1,1 * a2,2 - a1,2 + a2,1で出せる。
足し算を間違えないようにして……うん、(2)より簡単だった。
逆行列は、
a2,2 -a1,2
-a2,1 a1,1
に置き換えて、行列式の解で割る……よし、できた。
ウォーミングアップは完了。次。
【問2】
数IIIみたいな問題。
落ち着いて考える。
えーと……置き換えかしら。
1+x^2をuと置けば、1/2を前に出して、uの1/2乗っぽい。
計算……だいじょうぶそう。定数C、忘れずに。
さて……(2)は……arctanって、tanの-1乗のことよね。
えーと……私は手が止まった。
記憶をさぐる。
……………………
……………………
…………………
………………
あ、そっか、1/(1+x^2)って、arctanの微分そのものじゃない。
ってことは、arctan x = uと置けばいい。
簡単になった。(u^2)/2 + C、と。uを戻して終わり。
ふぅ、私はここで、ひと息ついた。
腕時計では、20分が経過している。
問題は、この次、小問(3)──明らかに、難易度が高い。
激ムズってわけじゃなさそうだけど、後回しにしたほうが、いいかも。
私は問3へ移った。
【問3】
ん? 基礎問っぽい。
(1)はA,BともにLow,Lowが支配戦略。
(2)上記からLow,Lowのみなのは明らか。
(3)は……Low,Low以外、全部パレート最適。
解答欄のスペースからして、答えだけでいいのよね?
書き書き。
なんか息抜きみたいな問題だった。
次が最後。
【問4】
えッ……あッ、ラグランジュだッ!
ちょっと待って、ラグランジュって、3年生レベルじゃないの?
いや、でも、演習本では見たことがあるか。
……………………
……………………
…………………
………………(1)と(2)は目途がついた。
複雑な式のかたちをしてるけど、整理しちゃえば、
x1^0.5 * x2^0.5
みたいな、例題にありがちな効用関数の変化形。
だとしたら、最適消費と価格弾力性は、同じ発想になる。
(1)は、ラグランジュ関数からの、偏微分。
(2)は、普通に価格弾力性の計算。
今悩んでいるのは、(3)だった。
コブ・ダグラス型関数になりそう、っていうのはわかる。
っていうか、なるはず。
これ、ρ→0の極限が(x1^α*x2^(1-α))じゃダメ?
……………………
……………………
…………………
………………
証明になってないか。問題文を数式化しただけだ。
解答スペースは、他のものより広く取ってある。
途中式がいりそう。
……………………
……………………
…………………
………………
後方で、だれかが動いた。
「先生、退室していいですか?」
もう終わったのッ!?
「かまいません。問題用紙は、裏返して置いたままにしてください」
荷物を片付ける音がする。
だーッ、そういうプレッシャーをかけないでください。
とりあえず、(1)(2)は解く。
変数が多いから、慎重に変形して──よし。
そのあと、問2の(3)に再チャレンジするか、このまま問4の(3)を解くかで迷った。
時間的に、ふたつともは無理っぽい。
「残り、10分です」
私は問2の(3)へもどった。
問4は、解法の目途が立たなかったからだ。
うーん、うーん。
「時間になりました。鉛筆を置いてください」
りょ、両方解けなかった。
周囲の雰囲気からして、完答者は途中退出の男子しかいない……はず。
先生は答案を回収して、整理した。
「それでは、試験を終わります。発表は、大学のポータルからになりますので、各自確認してください。以上です」
そのあと私は、部室にもどった。
風切先輩は、大谷さんと将棋を指していた。
「お、どうだった?」
「だいたい解けたんですけど、2問分かりませんでした」
「ちょっと見せてくれるか?」
「対局中ですよね?」
「感想戦」
私は記憶を頼りに、紙に書いた。
こういう悩んだ問題は、しばらく覚えているものだ。
風切先輩は、うしろ髪をくるくるしながら、一瞥。
「……上は、ln(sin x)とln(cos x)の和の当て嵌め、下は対数をとってテイラー展開か、ロピタル」
瞬殺かーい。
計算方法も教えてもらった。
途中、問4の(2)の計算で、ミスをしたことに気づいた。
最悪。
私は、
「すくなくとも3問、間違えました」
と嘆息した。
風切先輩は腕組みをして、
「なにごとも基礎だよなあ、基礎。裏見も、もうちょっと基礎問を解いて……」
うんたらかんたら。
私は席を立って、背伸びをした。
「座りっぱなしで、血流が悪くなったかも。大谷さん、走り込みしない?」
「左様ですね。やはり体力は基礎。風切先輩、参りましょう」
「え……ちょっと待てッ! 俺が悪かったッ! うわぁあああああああッ!」
はいはい、まずは100メートル3本、よーいどん。




