446手目 旧友
※ここからは、愛智くん視点です。決勝開始時点にもどります。
僕が到着したのは、決勝が始まる10分ほど前だった。
教室に入った途端、慶長の若林先輩に呼び止められた。
「あ、きたきた~」
若林先輩は、ぴょこぴょこと駆け寄ってきて、
「今日もノアくんを、しっかり応援してあげてねぇ」
と言った。
僕は一歩前に出た。
「若林先輩、生権力って、ご存じですか?」
「聖剣力? 新しいラノベかなにか?」
「生権力とはですね、人間の身体を管理し、規律化し、社会的に『正しい』とされるかたちに矯正する力のことです。これは網のように社会に張り巡らされていて、年長者による年少者の身体的動作への介入も、これに当たります。おわかりいただけますか?」
「???」
若林先輩は、とりあえずよろしくぅ、と言って、去って行った。
まあ、来ちゃう僕も僕なんだけど、ぶつぶつ。
とかなんとかしていると、オーダー交換が始まった。
野次馬で参加──ノアは氷室先輩と、か。
なんだかいいカード。っていうか、どっちかが当てに行ったっぽい?
対局者は散って、それぞれ席についた。
ノアは僕を見つけて、
「愛智くん、おはよ~」
と、ニッコリ顔で手を振った。
「おはよ、調子はどう?」
「みんなピリピリしてて、なんか怖い……」
だろうね。
慶長が王座戦出場になったら、ひさしぶりらしいから。
「ま、気楽にやりなよ」
「うん」
氷室先輩は、先に座っていた。あいかわらず謎の圧がある。
ノアは気にせず、さくっと座った。
僕はその右うしろについた──保護者のお母さんみたいだな。
うしろに下がって、距離を取る──アイドルのコンサート会場で、見守りポジションについてるファンみたいだ。
普通に観戦しよう。
他の並びも、偵察がてら確認。
そのうち幹事の合図が入った。
「よろしいですか? ……では、始めてください」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
氷室先輩がチェスクロを押して、対局開始。
7六歩、8四歩、7八金、8五歩、7七角。
【先手:生河ノア(慶長) 後手:氷室京介(帝國)】
角換わりの出だし。
3四歩、6八銀、7二銀、2六歩、7七角成、同銀、2二銀。
7二銀が早い。ただこれだけだと、なんとも言えない。
4八銀、3二金、9六歩、7四歩、4六歩、3三銀、4七銀。
氷室先輩は、ここで9四歩と突き返した。
1六歩、1四歩と両方突き合って、先手は3六歩。
なんともいえない。
後手が速攻狙いかどうか──
「なーんか、個人戦みたいな雰囲気だね」
うわッ、びっくりした。
ふりむくと、志邨さんが立っていた。
僕はドキリとする。
「ど、どうしたの?」
「んー、偵察?」
話を聞くと、どうやら晩稲田の偵察要員らしかった。
けど、志邨さんは、
「まあ、他にも事情はあるけど」
と付け加えた。
「他の事情? ……太宰先輩に、なにかあった?」
「ちがうちがう。あのひとピンピンしてる」
「え、じゃあなに?」
「それはまたあとで話すとして……個人戦みたいな雰囲気だね」
志邨さんは、盤のほうを見た。
んー……どうだろう。
ノアはいつもこんな感じだし、氷室先輩も、そうじゃないかな。
ふたりとも、チームがどうこうで動くタイプじゃない。
それとも、志邨さんは別の意味で言った?
僕が解釈に困っているのをよそに、局面はどんどん進んでいた。
さすがに速いな……と同時に、角換わり腰掛け銀になりそうだ。
仕掛けるなら、先手からになったかも。
氷室先輩が受け身気味なの、気になる。
ノアは6六歩。
後手はここで、急戦を仕掛ける態勢になっていない。
氷室先輩、やや小考。
志邨さんは、
「右玉っぽい動きかな。千日手にはできないけど」
と言った。
パシリ
4一飛。
ノアは7九玉で、いったん入城を見せた。
氷室先輩は、スッと4四歩。
ノア、これにノータイムで4五歩。
突っかけた。
あいかわらずの腕力将棋。
とはいえ、氷室先輩はさっきの小考で予想していたらしく、同歩、3五歩、同歩、2五歩、5四銀と、即対応した。
ノアは4五桂と跳ねる。
3四銀、7五歩。
これは……後手、もうきついような?
僕がそう言うと、志邨さんは、
「だね。わずかに先手持ち」
と返した。と、その直後に、
「と言っても、判断要素は、先手が攻めてることくらい。AIにこっから持たせたら、だいたい攻め潰せるだろうけど……それはどうでもいいか」
と補足した。
僕はなんとなく、
「認識のフレームワークだよね、そういうの」
とつぶやいた。
志邨さんは、ちょっと考えたあと、
「あ~、AI脳ってこと?」
と返した。
僕は、
「脳の構造が変わってるかどうかは、わかんないけど……認識が脳に規定されてるなら、変わってるのかな? まあ、そこはおいといて、『AIだったらどうしそうか?』って、最近は真っ先に考えちゃうよね」
と答えた。
志邨さんは、前髪をなおした。
なんとなく、視線を虚空へ向けた。
「たしかに……今の私たちって、『正解』のあるテストをしてるよね。それが本当の正解かどうかは、ともかく、参照先は持ってる……以前なら、わかんないものはわかんない、で終わらせてたけど……でも、対局中に参照はできないわけじゃん? 覚は対局中、『AIだとどうなるかな?』って考えるの?」
「……考えるときもある」
「あ……そうなんだ」
き、嫌われたかな?
正直に答えたんだけど。
僕が困惑する横で、駒音がした。
受けた。
チェスクロを押した氷室先輩の表情は、なにも語っていなかった。
けど──受けたという事実は残る。
これが、将棋の怖いところなんだよね。
受けた以上、「受けなかったら潰れると認めます」宣言になる。
逆は、そうでもない。
「受ける必要はないよ」と、強気でごまかすことは可能。
僕がこれを指摘すると、志邨さんは、
「まあ、そういう周辺的な話はおいといて……」
とスルーしてから、沈黙した。
うわーん、会話がうまくいかない。どうしよう。
僕は何年トモダチをやってるんだ。
そのあいだも、局面は進んで行った。
2四歩、8六歩、同歩、2四歩、7四歩、同角、2四飛。
ノアの猛攻。
2三金、2八飛。
氷室先輩は、軽やかに歩を打った。
「2七歩」
叩いた。
志邨さんは、
「流れを変えたいところではある」
と曖昧にコメントした。
同飛、2六歩。
ノアは、ここで考えた。
志邨さんは、
「叩かずに2四歩を読んでたんじゃないかな。私が氷室さん相手なら、そういう直線的な順は、後回しにするけど……ノアは、ストレートだし……それに、2四歩が悪いわけじゃない。2四歩、2二歩、3三桂、同桂成、同玉、4二歩は、普通にあった」
と、読みを披露した。
【参考図】
なるほど……? めちゃくちゃ怖くない?
ノア、まだ長考中。
持ち時間を気にするところじゃないけど、少しイヤな流れになった。
さらに1分して、ようやく着手。
4三歩。
叩き返した。
僕は、
「すなおに同飛とか、2八飛もあったような……」
とつぶやいた。
志邨さんは、
「あったね。同飛は2五歩、4三歩で、合流しそうではある。2八飛は、後手に4五銀右と出させて、反動狙い」
と言って、また前髪をなおした。
「前髪、伸びてない?」
「課題で行けなかった。来週切る……あ、今週」
パシリ
同玉、4四歩、同玉、2六飛、2五歩、2七飛。
これは……後手のほうが難しい。
だけど、氷室先輩はここまで考えていたらしく、4六歩と垂らした。
志邨さんは、
「あ~……これ、ノアのミス待ちだね」
と言った。
「そう?」
「ここまでくると、明確に先手有利。紛れを求めてる」
あいかわらずの断定口調。
一方、ノアはこういう思考をしないから、淡々と局面を読んでいた。
淡々と言っても、攻める気マンマンだ。
僕は、
「攻める手が多いね。2四歩か、7五歩が有力?」
と尋ねた。
志邨さんは、
「プラス、6五歩くらい。ただ、6五歩はノアは指さないと思う。同歩に3七金で、歩を取りに行く手だから」
と返した。
【参考図】
「これは完封狙い。ノアはもっと過激に行くと思う」
なるほど、ね。
そのあと、なんとなく会話が途切れた。
沈黙じゃない。ただ、途切れたのだ。会話は、そのうちまた始まる。
この3人で将棋をわいわいやるのは、ひさしぶりだ。
ノアは会話に加われないけど──いや、そんなことはないか。
けっきょくのところ、僕たちは将棋で会話している。
そう思わない?