439手目 斜光
桂馬の先打ち……同銀に同銀?
私は30秒ほど考えて、それだと後手有利なことに気づいた。
同飛としてしまえばいいからだ。
以下、2三歩成、同桂、2一銀には、4一玉と逃げる。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これで追撃できない……はず。
ただそうなると、意図がわからなかった。
単純に読み間違え? 他の手がもっと悪かった?
……………………
……………………
…………………
………………あ、4四同銀じゃなくて、2三銀か。
4二玉、4四銀なら、圧が違う。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は4二玉と、単に逃げた。チェスクロを押す。
これで2三銀は回避。
打ってきたら、8八金、9七玉と追いつめてから、2三桂でいい。
2三銀に代えて2三歩成なら、同桂。これを同飛成とはできない。
ただ、後者は後手がいいかと言われると、微妙な気も──
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
……えッ、切ってきた?
同金に……こっちは8九飛で、詰めろをかけることができる。
ってことは、同金に詰めろをかける自信があるってこと?
あるいは、この時点で私の王様が詰み?
私はちょっと──だいぶ不安になった。
詰んではいないはず。だって、3二金と置いても詰まないでしょ。
同銀、同桂成、同玉のあとが続かない。
8四角が詰めろ? そっちのほうがありえる。
でも、そんなに早くは……あッ、8九飛に一回受けるってこと?
しまった。手を戻すパターンを考えてなかった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は同金。
そのあと、8四角、8九飛、先手の受け、の順を読んだ。
7七銀捨てがあることに、すぐ気づいた。
同金、8九玉。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
マズい、これはこっちが負けっぽい。
だけど、8九飛じゃなくて7九飛なら?
この場合は7七銀が効かない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
あッ………………
……………………
…………………
………………全然違った。
私は前傾姿勢になる。
……………………
……………………
…………………
………………詰めろな気がする。
っていうか、詰めろだ。4三角成以下。
短手数じゃないけど、駒を取り合って詰む。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は5一玉と逃げた。
山名くんはギリギリまで考えて、3二桂成。
同銀、同角成。
その指し方から見て、山名くんも読み切っていないっぽい。
私は全集中する。
攻めと受けが、複雑に絡み合っている。
現時点で、詰めろじゃなくなってない?
4一馬、同玉、3二銀、同玉、2三銀に、4二玉なら3二飛で詰むけど、4三玉なら3二銀打でも詰まない。問題は、4一飛。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これが詰むかどうかの判断がつかない。
合駒問題な気もする。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
1分では読み切れない。
私は詰まないほうに賭けた。
7九飛と打ち込む。
もしかすると、ここで7七銀かもしれない。
読む量が多過ぎる。
山名くんも真剣な顔で、じっと盤を見ていた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
ぐッ、予想してた手だ。詰むの?
4一飛以下は、未だに分からない。
詰みそうなルートのほうが多いから、ノータイム指しもできない。
私は59秒まで読んで、同玉とした。
3二銀、同玉。
山名くんは、ここで軽く息を吸った。
50秒のところで、手を動かす。
アラートが鳴る前に、着手した。
パシリ
私は背筋が伸び、口が軽くひらき、それから──くちびるを結んだ。
詰ん……で……る。
同歩に4四桂と打ち直せば、詰んでる。
同歩以外は? じつは右へ逃げられるのでは?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は同歩と取った。
4四桂、4三玉、5四銀、同玉、5五飛。
ここに飛車打ちで終わるのか──7五歩が詰みに利くなんて。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
顔を上げた私は、しばらく憮然とした。
最後、完全に詰んで……た? 詰んでたような気がする。
どこで負けになった? 7九飛と打ったとき? 4二玉と逃げたとき?
わからない。けっきょく読み切れなかった。
私は、
「どこで負けにした?」
と素直に訊いた。
山名くんは、
「僕もよくわからないかな。いつの間にか勝ってた」
と答えた。
私たちは、終盤を検討した。
7九飛が敗着、ということになった。
その時点で、後手に詰みが発生していたからだ。
でも、そのまえが先手優勢だったのか後手優勢だったのかは、なかなか結論が出なかった。山名くんは、
「勝ったと思ったのは、5四角と最後に出れたとき。それまでは負けかもと思ってた」
とのことだった。
私は、
「後手の攻めが完全に切れたっていう感覚は、なかったのよね。だから、私のほうの攻め間違いじゃなくて、受け間違いかな、と思ったんだけど……」
と、感想を漏らした。
山名くんは、
「ちょっと思ったのは、6七金打だね。2五桂と跳ねられたほうが、困ったよ」
と返した。
【検討図】
……なるほど、一理ある。
「そうね、こっちのほうが良かったかも」
「ただ、3五歩、6七金打、8九玉、7七金、3四歩が詰めろだから、先手指しやすいと、僕は思ってた」
私たちはそのあと、中盤も色々と調べた。
全体的に難解で、明確な結論は出なかった。
山名くんは、
「ごめん、次の対局もあるから、そろそろいいかな」
と言った。
「あ、ごめんなさい」
私たちは一礼して、腰を上げた。
すると、うしろに松平が立っていた。
私は、
「どうだった?」
と尋ねた。
正直なところ、いい返事は期待していなかった。
顔色でわかる。
松平は、嘆息すらせずに、
「1-6だ……勝ったのは、風切先輩だけ」
そのあと私たちは、控え室に戻った。
なんというか、まあ……すっかり意気消沈している。
ララさんは椅子を3つ並べて、そのうえで仰向けに寝ていた。
1年生組は、なんだか気まずそうにしてる。
最初に話しかけてきたのは、穂積先輩だった。
「おつかれ、残念だったね」
若干、他人事っぽい口調だった。
でも、そのことがかえって、会話をしやすくした。
私は、
「おつかれさまです。全体は、どうなりました?」
と訊いた。
「八ツ橋、慶長、日セン、聖ソフィアの勝ち」
火村さん、勝ったのか。
とはいえ、穂積先輩の話によると、チームレーティング通りらしかった。
公式には発表されてないけど、独自に計算してあったみたい。
松平は、
「風切先輩は?」
と尋ねた。
「そういえば、トイレに行くって言って、帰って来ないね」
私と松平は、教室を出て、男子トイレを捜した。
トイレは簡単に見つかった──けど、先輩は見当たらなかった。
買出しにでも行ったのかな、と思ったところで、階段のうえから声がかかった。
「どうした?」
見上げると、風切先輩が、踊り場のところに立っていた。
立っていたというより、階下を正面に、壁にもたれかかっていた。
私と松平は、ちょっと返事に詰まった。
「裏見も終わったか。どうだった?」
チームのことじゃ、ないと思う。
1-6じゃあ、途中で結果はわかったはずだ。
私は、自分の勝敗のことだと考えて、
「負けました」
と答えた。
風切先輩は、フッと笑った。
「もしかして、俺を捜してたのか?」
松平は、ええ、まあ、と曖昧に返した。
風切先輩は、上がって来るように促した。
私たちは階段を上がった。
踊り場で、窓から斜めに、光が射し込んでいる。
休憩の学生たちも消えて、あたりは静かになった。
「おつかれさん。派手に負けたな」
松平は、
「すみません、なんというか、無策で……」
と返した。
「謝らなくていい。準備すればなんとかなる、ってもんじゃないからな、将棋は」
風切先輩はそう言ったけど、どこか寂しげだった。
あるいは、私の心情が、そう感じさせたのかもしれない。
風切先輩は、壁から背中を離した。
そして、ポケットに手を突っ込んだ。
「ま、いったん区切りはついた。それでいいと思う」
松平は、
「とりあえず、2回戦からは戦型チェックを……」
と言いかけた。
風切先輩は、それに台詞をかぶせた。
「いや、みんなそっとしておいてくれ。奨励会のとき2連敗して、ムリにテンション上げて行ったら、次も2連敗したことがある。落ち込むときは、落ち込むほうがいい」
私たちが答える前に、先輩は階段を降り始めた。
その背中を見送ったとき、私の胸中には、なんとも言えない気持ちが生じた。
それは、窓から射し込む明るさとはうらはらの──あるいは、明るさに裏打ちされたような、そんな感情だった。
場所:2017年度王座戦関東選抜トーナメント 1回戦
先手:山名 由多加
後手:裏見 香子
戦型:角換わり力戦形
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩
▲6八銀 △7七角成 ▲同 銀 △2二銀 ▲3八銀 △3三銀
▲7八金 △6四歩 ▲6八玉 △9四歩 ▲6三角 △7二角
▲3六角成 △同 角 ▲同 歩 △7二銀 ▲4六歩 △3二金
▲9六歩 △7四歩 ▲4七銀 △1四歩 ▲1六歩 △4二玉
▲5六銀 △7三桂 ▲4八金 △6三銀 ▲3七桂 △6二金
▲2九飛 △8一飛 ▲6六歩 △5四銀 ▲2五歩 △4四歩
▲7九玉 △4一飛 ▲8八玉 △3一玉 ▲7九玉 △2二玉
▲6九飛 △8一飛 ▲8八玉 △4一飛 ▲2九飛 △3一玉
▲6九飛 △8一飛 ▲4五歩 △同 歩 ▲同 銀 △4一飛
▲5六角 △6五歩 ▲同 歩 △7五歩 ▲同 歩 △4五銀
▲同 桂 △5五銀 ▲4六歩 △5六銀 ▲同 歩 △6八歩
▲同 飛 △5九角 ▲5八飛 △4八角成 ▲同 飛 △6五桂
▲7六角 △7七桂成 ▲同 桂 △6九銀 ▲6八飛 △7八銀成
▲同 玉 △6三歩 ▲3三桂成 △同 桂 ▲4三銀 △5四桂
▲3二銀成 △同 玉 ▲5五銀 △5七金 ▲2八飛 △4三銀
▲2四歩 △同 歩 ▲2五歩 △4七角 ▲6五角 △6七金打
▲8八玉 △6九角成 ▲2四歩 △2七歩 ▲同 飛 △7八馬
▲9八玉 △7七金 ▲2八飛 △3一桂 ▲4四桂 △4二玉
▲7八飛 △同 金 ▲2一角 △5一玉 ▲3二桂成 △同 銀
▲同角成 △7九飛 ▲4一馬 △同 玉 ▲3二銀 △同 玉
▲5四角 △同 歩 ▲4四桂 △4三玉 ▲5四銀 △同 玉
▲5五飛
まで133手で山名の勝ち