434手目 当事者性
※ここからは、朽木くん視点です。
さて……困ったことになった。
太宰くんの容体は気がかりだが、対局中なので抜けられない。
エレベータのまえで待機していると、可憐が戻ってきた。
「病院はわかりました。又吉さんと倉田さんを向かわせています」
「具合は?」
「わかりません。車のなかで倒れていたそうですが、季節が季節なので、熱中症ということはないかと……」
たしかに、そうかもしれない。
しかし、車のなかで気を失うなど、尋常ではなかった。
命にかかわらないことを祈る。
僕が考え込んでいると、可憐は、
「決勝で勝てず、もうしわけありませんでした」
と言った。
「謝る必要はない。準優勝は、十分に立派な成績だ」
僕は、将棋の内容を訊いた。
先手志邨で、角換わりから押し切られたらしい。
可憐は、終盤の詰みの説明をしたあとで、
「出過ぎたマネかもしれませんが……このまま延期を申し出ては?」
と小声で告げた。
もっともなアドバイスだ。
とはいえ──
「僕が対局者でなければ、そうしたと思う」
速水くんがいても、そう提案したのではないだろうか。
僕は風切くんのほうを見た。
ソファーに座って、ふともものうえで手を組み、じっと前を向いている。
あれは……将棋のことを考えている目だ。
あるいは、これからの対局に備えて、心を無にしている目だ。
両者は異なる。どちらなのかまでは判断できない。
いずれにせよ、この状況、このハプニングについて考えてはいないはずだ。
「……やはり風切くんは、ただの大学生将棋指しではないのだな」
「なにかおっしゃられましたか?」
「いや、次の戦法をなににしようか、考えていた」
可憐はなにか言おうとした。
しかし、けっきょく口にしなかった。
ウソだというのは、バレたような気もする。
さて、いろいろと困ってきた。
僕が嘆息するヒマもなく、慶長の日高くんの声が聞こえた。
「それでは、決勝の指し直し局を始めます。ご集合ください」
もういちど洋室に入る。
窓を背にして座る。
ギャラリーは、半分くらいになっていた。
帰った者も多いのだろう。
風切くんも入室して、新しい缶コーヒーをテーブルに置いた。
日高くんは、やや疲れたようすで、
「先ほど説明した通り、これが本日の最終局です。千日手、持将棋の場合は、後日、別の会場にて指し直します。日程と場所は未定です。よろしいでしょうか?」
と確認を入れた。
「ああ」
「承知した」
駒を並べて、チェスクロをセットする。
振り駒──僕の先手。
日高くんは、スマホの時計で時刻を見ていた。
「準備はよろしいですか? ……あと10秒です……始めてください」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
僕はひと呼吸おいて、7六歩と突いた。
3四歩、2六歩、4四歩、4八銀、3二飛。
【先手:朽木爽太(晩稲田) 後手:風切隼人(都ノ)】
三間──相当自信があるのか、他の研究をしてこなかったのか。
ここまで秘匿する意味もないから、前者だろうか。
あるいは、第三の可能性として、これを連投せざるをえない事情があるのか。
ひとまず、愚直に組もう。
2五歩、3三角、6八玉、9四歩、7八玉、4二銀、5八金右。
方針は、対局前から決めてあった。
無理矢理の打開はしない。
今日中に決着をつけなくても、よいと思う。
6二玉、9六歩、7二銀、5六歩、4三銀、7七角、7一玉。
風切くんは、素直に美濃のようだ。
8八玉、8二玉、7八銀、5二金左、8六歩、3五歩、4六歩。
左美濃から、様子をみる。
スキがあれば穴熊へ移行したい。
5四歩、5七銀、4二飛、8七銀、6四歩、7八金、7四歩、6八銀。
少しずつ固めていく。
風切くんは、6三金。
将棋は先手のゲームで、居飛車のゲームだ。
極論をいえば、の話だが。
理は僕にある。ないのは力だ。
ここからの1時間ちょっとで、棋力差は埋められない。
「……5九金」
7三桂、9八香。
穴熊へ。
風切くんはこの手を見て、30秒ほど考えた。
3二飛。
次に5一角か。
正直なところ、後手から開戦してもらってもいい。
例えば、5一角以下、7九銀に3六歩。
(※図は朽木くんの脳内イメージです。)
このとき、4八金でガードできる。
5九の金は、それを想定している。
というのも、これは可憐や他の部員と検討して、ストックしてあったものだ。
先手を引いて、それらしいかたちになれば、使おうと思っていた。
ただ……過去の検討では、こちらが本命ではない。
4五歩の攻め合いが、おそらく最善手。
(※図は朽木くんの脳内イメージです。)
AIでも調べてあった。そこそこ信頼できる。
以下、3四飛に4四歩と取り込んで、同銀、4五歩、3三銀と押し返す。
その瞬間に4八金と上がって補強。
単に4八金よりも、後手に主導権を握られにくい。
「……9九玉」
ひとまず立てこもる。
5一角。
ならば4五歩。
この手を見て、風切くんは目を細めた。
単に4八金を読んでいたか?
風切くんは口もとを手でおおって、しばらく動かなくなった。
それから、缶コーヒーのキャップを開ける。
ひとくち飲んで、缶を置いた。
また読み始める──たまらないな、この圧は。
風切くん、君は自分のことを、負け犬だと言っていたな。
これが負け犬のオーラか?
君が負け犬なら、僕らはさしずめハムスターかもしれない。
いや、これは卑下しすぎだ。
将棋指しは、僕らのようなアマでも、多少はうぬぼれている。
勝てないはずはない。
問題は、諦めないこと──ではないな。将棋は、気持ちのゲームではない。
パシリ
浮いた。
当然の一手だ。
先ほどの長考は、今後の方針決定だろう。
ひとまず、研究の利は活かさせてもらう。
すぐに4四歩と取り込む。
同銀、4五歩、3三銀、4八金。
風切くんは、ノータイムで8四歩と突いた。
見落としがちな手だが、これも研究の範囲だ。
「7九銀」
「3六歩だ」
僕はハッとなった。
これも研究の範囲内──だが、深く分析していない。
部のパソコンのAIでは、第一候補にならなかった記憶がある。
今度は、僕が考える番になった。
……………………
……………………
…………………
………………難しい。
細部まで研究してあったのは、6五歩~4二角の展開だった。
(※図は朽木くんの脳内イメージです。)
これとは合流しそうにない。
本譜なら、3六同歩、同飛、3七金が本筋か?
3五飛と引かれたら、6八角と当てられる。
4五飛、2四歩、4九飛成の攻め合いでも、先手は指せそうだ。
しかし、空中のねじり合いにすることは、避けたい。
風切くんの得意な、さばき合いになってしまう。
「……8八銀」
ハッチを閉める。
風切くんは、8五歩と突っかけてきた。
指しすぎと見たい。反撃するなら、このタイミングだ。
3六歩と手を戻して、5五歩に8五歩と取り返す。
風切くんは、そのまま5六歩と押し込んできた。
「6八角」
これでいく。
先ほどの3六歩、同歩、同飛、3七金、3五飛、6八角のバージョンよりも、かたちが崩れていない。8筋の拠点も大きい。
風切くんは、フゥと息をついた。
後ろ髪の結び目をなでる。
戦えている自信はある。
有利かどうかと言われたら、もちろん断言はできない。
しかし、指しやすさは感じた。
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風切くんはもう一度コーヒーを飲んで、持ち駒に手を触れた。
8六歩と打たれる。
攪乱してきた。
単に5四飛かと思ったが、ひと工夫、というわけか。
同角はないので、同銀とする。
ここで5四飛。
読みは大きく外れていない。
8六歩で穴熊が弱体化したとはいえ、8筋の拠点はかえって強固になった。
4七金、3四銀。
分岐点だ。
2四歩は、遅いように感じる。
手抜かれてしまうだろう。
2三歩成としたとき、駒に当たっていないのもマイナスだ。
僕は長考に沈んだ。