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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第8章 2016年度春季個人戦3日目(2016年5月1日日曜)
44/487

43手目 女王の貫禄

挿絵(By みてみん)


 これは、さすがにマズくない?

 同じことを考えたギャラリーも多かったらしく、若干ざわついた。

 だって……2八香で、どうするの?

 1六角成、1七香が見えている。


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 これで、馬が死ぬ。

 私は風切かざぎり先輩に、今の読み筋を訊いてみた。

 先輩は、読みを深めるように、しばらく押し黙った。

「……それは、4九金があると思う」


【参考図】

挿絵(By みてみん)


「同金は同角成で困る。つまり、取れない。1六香、4八金、同金、2九角成」

「駒割りは……後手の香損?」

「1六と2八の香車は実質働いてないから、互角かもしれない」

 うむむ、こんな筋があったとは。

 私が当惑していると、風切先輩は腕組みをしたまま、ピッと人差し指を立てた。

「但し、先手からは次に厳しい手がある」

「なんですか?」

「8六桂だ」


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 ……あ、これは厳しい。

 7四桂と跳ねられたら、後手はもう助からない。

「7三銀と受けるしかありませんね……もしかして、5一歩はこれの布石でした?」

「ありうる……この時点で5一歩が打ててなかったら、即死してた」

 火村ほむらさんの読みの深さに、私は唖然とした。

 てっきり、5一歩は7六金のポカを誘う手だと思っていたからだ。

「変だな。もこっち指さないぞ」

 ギャラリーのひとりが、そうつぶやいた。

 そりゃ、指さないでしょ。4九金以下の変化を読んでいるはずだ。

 結局、速水はやみ先輩は5分も使って、ようやく手を動かした。

「2八香」

 火村さんは、大きくうなずいて1六角成。

 速水先輩は、ノータイムで持ち駒に指を伸ばした。

 香車ではなく、歩を拾い上げる。

「1七歩」


挿絵(By みてみん)


 1七香じゃない?

「これ、1五馬って引かれますよ?」

「怖い順に飛び込んだが……こっちのほうがいい」

 風切先輩は、そう言って手の意味を教えてくれた。

「1七歩に1五馬と引いたとき、先手はどうする?」

「どうするって言われても……3八飛、4九馬は、受け駒がなくて先手の負けじゃありませんか? 次に4九馬、6八飛、5八金で飛車が捕まりますし、4九馬に3七飛と浮くのは、5八馬と入られて危なくなるような」

「それは先入観だ。3八飛、4九馬のとき、8六桂と打ってみろ」


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 8六桂……あ、そっか。ここで4九馬は、6八飛、5八金、7四桂と跳ねて、9二玉に5八飛が詰めろになる(金を入手して8二金まで)。馬を自陣に突っ込まれても、実際にはそこまで痛くないのだ。風切先輩の言うとおり、先入観だった。

「ぐッ……」

 火村さんのうめき声――これは、1七香と打っていない分、駒得が拡大した。

 かと言って、ここから方針変更はできないはず。

 火村さんは3分使って、結局4九金と打ち込んだ。

 1六歩、4八金、同金、2九角成。

 速水先輩は、桂馬を手にする。

「8六桂」


挿絵(By みてみん)


 痛打。ギャラリーの雰囲気は、俄然、速水先輩持ちになってきた。

「もこっち先輩、2連覇イケるんじゃないですかね」

 奥山くんは、そう言ってにっこりとした。

 だけど、風切先輩は、そう思っていないようだ――というか、風切先輩って、速水先輩のほうを応援してるのかしら? むしろ、純粋に形勢判断してるだけなのかもしれない。

「まだ互角ですか?」

 私は、こっそり先輩にたずねた。

「いや……速水のほうがいい」

 喜びかけた私を、風切先輩は押しとどめた。

「ただ、このまま押し切れるとは限らない。もこっちの手腕次第だ」

 

 パシリ

 

 駒音――私たちは、一斉にふりかえった。


挿絵(By みてみん)


 受けた。けど、この一手自体は当然。持ち駒からして、他に受けはない。

 問題は、ここからどう攻めるか。

 もたもたしていると、飛車を下ろされて逆転してしまう。

「7七桂」

 速水先輩の手は、思ったよりも早かった。

 おそらく、2八香の長考で、この局面を想定していたのだろう。

「これも厳しい。6五桂と8五桂の2通りがあって、同時には受けられない」

 風切先輩の解説をよそに、私は火村さんの様子を観察していた。

 いつものおどけた感じはなくて、歯を食いしばっている。

 劣勢を意識しているのだろう。

 ただ、残り時間は彼女のほうが残していた。速水先輩12分、火村さん14分。

「これしかないか……3九馬」

 馬寄り? これは先手に余裕ができた。

 速水先輩は残り10分まで考えて、猛攻を開始する。

「6五桂」

「6二桂ッ!」

 火村さんは、ムリヤリ7四の地点を受けた。

 7三桂成……では、もちろんなくて、速水先輩は7五歩と追加した。


挿絵(By みてみん)


「これはもう受けが利かない。4八馬からの飛車打ちに賭けるしかないな」

 風切先輩は、攻め合いを示唆した。私は脳内将棋盤を動かしてみて、疑問に思う。

「飛車を打たれても、そんなに痛くないように見えますけど……」

「端も突いてあるし、ひと工夫必要だ」

 火村さんは、その工夫を考え始めたのだろうか。

 ずいぶんと時間を使い始めた。またたく間に、持ち時間が逆転する。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

「ちょっと失礼」

 火村さんは、席を立つと、ギャラリーをかきわけて人混みを出た。

 トイレ? かと思ったら、教室のなかをうろうろし始める。

 落ち着きがないなぁ。

 あごに手をあてたり、眉をひそめたり、ぶつぶつなにか言っている。

「なんだ、あいつの癖か?」

 風切先輩は、あきれたようにそう尋ねた。

「さあ……私のときは、離席しませんでしたけど……」

 そう言えば、トイレに一回も行ってないんじゃないかしら。

 水分を摂取してないから、大丈夫なのかもしれない。

 ただ、あれだけ将棋を指して水分をとらないひとというのも、めずらしい。

 現に速水先輩も、市販のミネラルウォーターを用意していた。

 5分ほどして、ようやく火村さんは戻ってきた。

「4八馬ッ!」


挿絵(By みてみん)


 おおっと、攻め合いを選択した。

「7四歩」

 駒込こまごめ先輩――高校のとき、私が将棋部に入る原因になったひと――なら、「散々考えてそれなの?」と毒づきそうなところだけど、速水先輩は淡々と指した。

 火村さんは、もういちど馬に手を当てる。

「6六馬ッ!」


挿絵(By みてみん)


 な、なるほど、この順を長考してたわけか。

 7四歩は必然だから、ここで火村さんが時間を投入した意義はあった。

 今度は、速水先輩が長考する。

「無視して7三歩成じゃないですか?」

 私は、風切先輩にたずねた。私なら、ノータイムでそう指しそう。

「ここは考えたほうがいい。例えば、7三歩成、同桂、6六歩、6五桂がある」


【参考図】

挿絵(By みてみん)


「同歩、6六桂と打たれたとき、どう対処するか考えないといけない」

「後手も、そうとう怖いですね……」

「火村は、6六馬よりも、ここに時間を使ったんじゃないか?」

 ふむふむ、ノータイム指しできない理由が分かった。

 6五同歩、6六桂に6七玉は、5八銀、5六玉(6六玉と取るのは、6八飛、7七玉、6七銀成、7六玉、6六成銀、8五玉、8四金までの詰み)、7七飛が詰めろ+7筋の桂打ちを防いで好手になりそう。

 

【参考図】

挿絵(By みてみん)

 

 以下、7四桂打、同桂、同飛成の局面が、6四桂、同歩、6五金、4五玉、4四銀、3四玉、3三金までの詰めろになっている。

「もしかして、そこまで先手優勢じゃなかったってことですか?」

「先手優勢なのは、まちがいない。勝ちやすくはないってだけだ」

 有利不利と簡単難解はちがうってことか。納得。

 31手詰めが発生したら勝勢だけど、簡単とは言えない。それと一緒。


 パシリ

 

 速水先輩は、7三歩成とせずに、6六同歩と取った。

「ぐぅッ! 勘のいい女ねッ! 7五飛ッ!」


挿絵(By みてみん)


 7筋を受けにきた。

 風切先輩の言っていた「工夫」がこれなら、三回転半並みのひねり具合だ。

「一見攻防の飛車打ち……7七香」

「7六歩ッ!」

 速水先輩と火村さんの腕が、入れ違いになる。

「複雑な局面、すべてはタイミングと順序の問題……7三桂成」


挿絵(By みてみん)


 そっちから? 7四の地点が、どうせ取れないと読んだのかしら?

 同桂、7六香、同飛。

「7七銀。これであなたの攻めは続かない」

「続くわよッ! 6九銀ッ!」

 あ、引っかけた。

 同玉、7七飛成で、先手玉に詰めろがかかる。龍もできた。

「もこっち先輩、がんばれ」

 奥山おくやまくんは、両手のこぶしをにぎって応援した。

 こらこら、ギャラリーは冷静に、能面に、中立に。

「私に奇策は通じない。7三歩成」

「ぐッ……同龍」

 速水先輩は、7四歩で龍の頭をたたいた。

 同桂、8五桂。


挿絵(By みてみん)


 決まった? 後手が窮したようにみえる。

 ここで、火村さん、最後の大長考。残り時間は、5分しかない。

「風切先輩だったら、なにか指しますか? 投了レベルの局面ですけど……」

「そうだな。個人戦だし、速水相手なら投了したい局面だ……が、大学将棋は、悪あがきが大切だ。この火村って女、何者かは知らないが、大学将棋には向いてる」

「悪あがきって言っても、手がありませんよ?」

「いや、ひとつだけ可能性が……」


 ピッ

 

 火村さん、1分将棋に。30秒……40秒……50秒……。

 

 ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!

 

「5八銀ッ!」


挿絵(By みてみん)


 びっくりな手が飛び出した。

 けど、すぐに狙いは見えた――同玉、6六桂の王手だ。

 そこから龍を逃がすつもりだと思う。

「さっきも言ったでしょう。私に奇策は通じない。同玉」

「6六桂ッ!」

 4八玉、7八龍、3七玉。


挿絵(By みてみん)


「うぐぐ……7二歩」

 火村さんは、犬歯をのぞかせながら、受けに回った。 

「よしよし、もこっち先輩、入玉確定」

 奥山くんは、少なくとも引き分けとみたらしい。

 でも、速水先輩の指し手は、遥かに冷酷だった。

「入玉合戦はしないわ。7四銀」

 明確な詰めろ。7三銀打以下だ。同龍は同桂で即詰みになってしまう。

 

 ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!

 

「7三香ッ!」

「8四銀」


挿絵(By みてみん)


「……くッ!」

 あ、あっさり寄った。ほんとにあっさり寄った。

 決め方が鮮やか過ぎる。

 7三銀左成からの詰めろ(こっちは短手数で、7一玉、8二金まで)と、8三銀左成からの詰めろ(こっちは長手数で、7一玉、5三角、同金、8二金、6二玉、7三桂成、同歩、同成銀、5二玉、4一角、4二玉、3二龍まで)で、ダブル詰めろ。

 

 ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!


「8一桂ッ!」

 受けた……けど、8三銀左成、7一玉、8二角、6二玉、7三角成、同歩、同桂成、同桂、同成銀、5二玉、6三成銀までだ。本人も分かっている様子だった。8三銀左成、7一玉、8二角、6二玉に7三角成とされたところで、火村さんは奥歯を噛んだ。

 

 ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!

 

「負けました」

「ありがとうございました」

 速水先輩が一礼して終了。火村さんのほうは、悔しそうな顔でじっとしている。

 ギャラリーは、外野で口々にコメントをし始めた。

「もこっち、3連覇か。やるなぁ」

「6六桂と跳ねられたときは、ヒヤっとしたが」

「あれはさすがに切れてるだろぉ。俺は見切ってたぜ」

「ウソつけ。おまえのは、いっつも後出しだからな」

 感想戦が始まりそうにないから、入江会長が対局者に終了をうながした。

「お疲れさまでした。表彰式に移りたいと思います。ご起立ください」

場所:2016年度 春季個人戦3日目 女流決勝

先手:速水 萠子

後手:火村 カミーユ

戦型:後手ゴキゲン中飛車


▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5二飛

▲4八銀 △5五歩 ▲6八玉 △6二玉 ▲7八玉 △3三角

▲6八銀 △4二銀 ▲3六歩 △7二玉 ▲3七銀 △5六歩

▲同 歩 △同 飛 ▲3三角成 △同 銀 ▲4六銀 △3二金

▲5五歩 △7六飛 ▲7七銀 △7四飛 ▲6八金 △4二金

▲1六歩 △1四歩 ▲5七金 △8二玉 ▲6六金 △7二銀

▲9六歩 △1五歩 ▲同 歩 △1七歩 ▲5六角 △1五香

▲7四角 △同 歩 ▲1一飛 △1八歩成 ▲同 香 △同香成

▲同飛寄 △2七角 ▲4八飛 △6四香 ▲2一飛成 △5一歩

▲5九金 △6六香 ▲同 銀 △3八角打 ▲2八香 △1六角成

▲1七歩 △4九金 ▲1六歩 △4八金 ▲同 金 △2九角成

▲8六桂 △7三銀 ▲7七桂 △3九馬 ▲6五桂 △6二桂

▲7五歩 △4八馬 ▲7四歩 △6六馬 ▲同 歩 △7五飛

▲7七香 △7六歩 ▲7三桂成 △同 桂 ▲7六香 △同 飛

▲7七銀 △6九銀 ▲同 玉 △7七飛成 ▲7三歩成 △同 龍

▲7四歩 △同 桂 ▲8五桂 △5八銀 ▲同 玉 △6六桂

▲4八玉 △7八龍 ▲3七玉 △7二歩 ▲7四銀 △7三香

▲8四銀 △8一桂 ▲8三銀直成△7一玉 ▲8二角 △6二玉

▲7三角成


まで109手で速水の勝ち

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