422手目 信用
「大塒がやられたようだな……」
「フフフ……奴は新人四天王の中でも最弱……」
「他もあらかた負けたけどな」
1年生がざわつくなか、いよいよ今日の最終戦。
現時点でベスト8。
さっき敗退した強豪も、観戦に回っていた。
残りのメンツは、なんというか……山の偏りと風切先輩の快進撃で、1年生がほとんど全滅。土御門先輩なんかは、扇子であおぎながら、
「一回くらい負けてやればよいのにのぉ」
と嘆いていた。
いや、トーナメントで一回負けたら、そこで終了でしょ。
とはいえ、今回は1年生に同情するひとも、多いっぽかった。
現状で残っているのが、生河くんしかいないのだ。
女子ではまだふたりいるけど、それは別の話。
ともかく、幹事も会場へもどってきて、いよいよ準備が始まった。
風切先輩は椅子を引いて、
「初手合いだな。よろしく」
と、気軽にあいさつした。
生河くんは、あいかわらずおどおどしたようすで、
「よ、よろしくお願いします……」
と返した。
盤駒、チェスクロの設定も終わって、開始時刻を待つ。
17時開始で、今は16時56分。
このままだと18時を越えるから、帰ったひとたちもそこそこいた。
やや人口密度の低い教室で、ギャラリーは4つのテーブルに分散した。
私はもちろん、風切先輩の応援。
空いたスペースに立っていると、愛智くんもやってきた。
「おつかれさまです」
「おつかれさま……生河くんの応援?」
愛智くんは、ちょっと答えにくそうに、
「そういうわけじゃありませんが、風切先輩の応援とも言い切れないですね」
と答えた。
ま、それでいいんじゃないですかね。
個人戦だから、大学をどうこうしてもしょうがない。
とかなんとか言ってるうちに、開始時刻1分前。
「振り駒を済ませておいてください」
生河くんは、どうぞと言って、すぐにゆずった。
風切先輩は歩を5枚集めて、シャッフル。
結果は、後手。歩が1枚だった。
駒をもどして、姿勢をただす──異様な雰囲気が漂い始めた。
どう異様なのかは、言葉では説明できない。
ただ、なんというか……独特の緊迫感がある。まるで決勝のようだ。
ギャラリーも、ひそひそ声に。
幹事のひとは、じっと腕時計を見ていた。
「……定刻になりました。始めてください」
「よろしくお願いします」
ふたりとも一礼して、対局開始。
生河くんはタメもなにもなく、7六歩と突いた。
風切先輩はすこし呼吸をおいて、3四歩。
2六歩、4四歩、2五歩、3三角、4八銀、3二飛。
【先手:生河ノア(慶長) 後手:風切隼人(都ノ)】
三間か。
私は、
「生河くん、なにか策はあるのかしら?」
とつぶやいた。
愛智くんは、
「サク? ……作戦ですか?」
と訊き返した。
「そう、なにかありそう?」
さすがに教えてくれないかな、と思った。
けど、予想とはまったく違う反応が返ってきた。
「ノアに作戦とかないんじゃないでしょうか」
「え……対策もなにも?」
「ええ、僕がこの対局に注目している理由でもあるんですが、ノアは素で一発入る可能性があると思ってます」
すごい自信だ、と感じた。友だち補正かな、とすら思った。
でも、愛智くんは、そんなことないです、と言った。
「例えば氷室先輩だと、どうですか? 一発入りそうじゃないですか?」
「……そうね」
「裏見先輩の世代にも、そういう感じのひと、いません?」
私は逡巡した。
思い当たらない、とは言えない。
大谷さんは、風切先輩に全然勝てないわけじゃない。
つまり、全国大会常連レベルなら、なんとかなる、とぃうわけだ。
私がそう答えると、愛智くんは、
「僕たちの世代では、ノアがそうなんですよね。あと志邨さんも」
と言って、盤のほうへ向きなおった。
だいぶ進んでいる。
ここから生河くんは、1六歩で端を打診した。
風切先輩、小考。
そして3六歩。
いきなり突っかけた。
もっとも、これは三間によくある、3筋の交換だ。
同歩、同飛、3七歩、3四飛で、後手の飛車は高く浮けた。
駒組みが再開される。
6六歩、5四歩、6七金右、4五歩。
これを見た愛智くんは、
「積極的ですね。先手がまだ穴熊を見せてるからでしょうか」
と推測した。
同銀、3五飛、3六銀、3四飛、4六歩、3三桂。
うーん、勉強になる。私では思いつかない手順だ。
4筋に銀がいると邪魔だから、3筋に追いやったわけね。
生河くんも立て直しを図った。
4五歩、5三角、6八角、7一角、3八飛。
3筋に飛車を回っても、銀が邪魔にならない?
私はちょっと考えて、そうでもないことに気づいた。
6四歩、4七銀、2五桂、3六歩みたいな展開がある。
【参考図】
こうなると、先手のほうから押し込める。
風切先輩は、次の手に1分考えた。
そして、歩を置いた。
こ、これは。
愛智くんは、
「3筋が停滞すると穴熊にされるので、打開しましたね」
と解釈した。
生河くん、長考。
1分ほど考えて、2七銀と引いた。
そっちかあ。4七だと思ったけど。
風切先輩はノータイムで4五桂と跳ねた。
……………………
……………………
…………………
………………ん?
3七桂成は、繋がってなくない?
同桂なら繋がるけど、カタチは同飛だ。
これで3六歩は無効化される。
私が指摘すると、愛智くんは、
「たしかに……3七は続かないです」
と同意した。
なにか錯覚があった?
いや、そうとも思えない。これは有段者なら一目だ。
生河くんのほうも、やや警戒している気配があった。
ほんの少しだけ、表情が曇った。
とはいえ、ここで指す手はひとつしかない。
4六歩だ。 桂馬を露骨に殺す手。
生河くんもそれを指した。
風切先輩は、4三の銀にゆびを添えると、スッと上がった。
え? 桂馬を見捨てた?
……………………
……………………
…………………
………………あ、そっか。
愛智くんも気づいて、
「このサポートが成立するんですね。4五歩、同銀は後手が厚いです」
と言った。
その通りだ。
4五歩、同銀、4八飛、4六歩は、後手が手厚い。
【参考図】
感心するような空気が、あたりに流れた。
でも、生河くんはこの手を読んでいたみたい。
すぐに対応した。
桂馬を取り切らずに、6五歩としたのだ。
7七角の覗きで、4五歩、同銀、1一角成を狙った手だ。
風切先輩は4七歩。
7七角に4八歩成、同飛、3七桂成の余地を作った。
愛智くんは、
「両者、歩切れです。歩の必要な局面が現れたら、一気に傾きそうですが……」
と懸念した。
いや、それはないんじゃないかしら。
同一局面は指したことないけど、歩一枚が致命傷になるようには見えない。
ただ、それはあくまでも、私の予想でしかないわけで──
パシリ
桂馬を取った。
生河くんは、同銀に7七桂と変化した。
ギャラリーも意表を突かれたかたちに。
となりでは、
「7七桂ってなんだ?」
「ミレニアムの準備じゃね?」
「さすがにそれはないだろ」
と、あれこれ憶測が飛んだ。
個人的には、6八の角を動かしたくなかったんじゃないかな、と思う。
風切先輩は、この手を本線で読んでいなかったようだ。
長考に入った。
私は、
「バランス取れてそう?」
と尋ねた。
「いや、ちょっと僕では判断が……」
「3六歩と後手から行くのは、ありそうなのよね。同銀、同銀、同歩に3七歩で」
【参考図】
「あー、ありそうです。同飛に4八歩成ですか」
そうそう、同桂なら3六飛と走る。
けっこう有力なんじゃないかな、と思いきや、風切先輩はこれを選択しなかった。
4四角と出た。
うーん、当たらないなあ。
生河くんは1分考えて、7五歩。
ん? 7五歩?
他の野次馬たちも、ざわざわした。
「おいまさか……」
「ここから玉頭戦か?」
動揺するメンバーとは別に、強豪陣はまだ冷静だった。
土御門先輩は扇子を口もとに当てて、「なるほどのぉ」と言ってたし、児玉先輩も、へぇ、という表情だった。
私も、なんとなく察した。
右が完全に均衡しているなら、玉頭戦はアリだ。
後手は美濃だから、上からの攻めには弱い。
だけど、1筋から4筋までが、均衡している場合に限られる。
生河くんは、それに自信があるってこと?
さすがになんかありそうじゃない?
風切先輩、また長考。
残り時間は、先手が18分、後手が15分で、やや差がついていた。
私は愛智くんに、
「7四歩、イケると思う?」
と質問した。
個人的には、細いという印象だ。
愛智くんは、その黒マスクの下で、
「そうですね……」
と小声でつぶやいてから、しばらく黙った。
そして、こう答えた。
「ノアがイケると思うんなら、イケるんじゃないですか……それくらいは信用してます」