420手目 悪くなってから
この手を見て、ギャラリーの緊張が高まった。
西海くんも姿勢をなおして、椅子に深く座りなおした。
両手を座面にあてて、前のめりになる。
明石くんは、
「後手に選択肢が生じましたね」
とつぶやいた。
そうだ、攻めるなら6八銀成or不成、受けるなら、4三歩。
ただ、4七歩、同金を入れてから6八銀成もありえる。このへんは難しい。
明石くんは、
「ここで考えるのはブレです。6八銀不成一択だと思います」
と言った。
「ブレ?」
「西海くんは時間攻めをしています。この段階で並ぶようでは、作戦失敗です」
な、なるほど、そういう考え方もあるのか。
残り時間は、先手が5分、後手が11分。
差をつけること自体には、成功している。
この差を維持しながら、風切先輩を秒読みに追い込みたいはずだ。
西海くんもそのことに気づいたのか、途中で姿勢をもどした。
ワックスのかかっている髪をなで、すぐに指した。
6八銀不成、4六飛成、5四馬、4四桂。
やっぱりそうだ。
4一飛を受け身と感じたひとは、けっこういると思う。
実際、4六の桂馬を抜くという目的はあった。
でも、あのときの風切先輩のオーラは、明らかに攻めだった。
1年以上の付き合いで、さすがに分かるようになった。
西海くんは腕組みをして、また小考。
3三金直。
風切先輩は3一銀で、攻めを継続。
西海くんの動作が、忙しくなってきた。
後頭部をかきながら、いやあ、という感じで首をひねった。
そして5九銀不成。
風切先輩は10秒だけ考えて、金をスッと寄った。
受けた──手がなかった?
まあ、5九銀不成は厳しいから、一回は受けるか。
西海くんは、主導権をとりもどした、と感じたようだ。
6九飛と重ねた。
風切先輩は、最後の時間を使った。
ピッ
1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
2二銀成。
西海くんはノータイムで同玉。
再び秒読み。
風切先輩は、まったく焦っている様子がなかった。
難所じゃない? 落ち着き過ぎのような。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
え、引いた?
攻めと守りが交錯している。
西海くんは9九飛成。攻め駒を補充。
風切先輩は、5五金と打ち返した。
……あ、そういうことかッ!
明石くんは、
「9九飛成が、悪手になってしまいましたね」
と指摘した。
私も理解した。5五金に代えて5九龍なら、同龍、同金、4四金で、桂馬を抜ける。結果は、銀桂交換+現時点の香損。でも、5五金で桂馬を守れば、5九龍の意味が変わってくる。これを同龍、同金は、後手が銀を取られただけ。先手は香損を回復できて、わずかな駒得になる。
西海くんは、しまった、という表情。
この局面を想定していなかったことは、明らか。
残り時間は8分。
だけど、劣勢からの長考になってしまった。
どんどん時間が溶けていく。
残り3分のところで、7六馬と出た。
せめて5九金は防ぐ、という手だ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
風切先輩は5九龍。
同龍、同金、7九飛。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
風切先輩は、かまわず8二飛と下ろした。
明石くんは、
「ほぼ決まりました。先手の飛車打ちのほうが厳しいです」
と、後手負けを断じた。
個人的にはまだ早い──けど、先手が風切先輩だからなあ。
他のギャラリーも、あきらめムードになっていた。
西海くんは最後の時間を使って、苦吟した。
ピッ……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
3二香、5三角成(金取りは放置)、5九飛成、8一飛成。
西海くんからも、闘気が消えた。
後手はもう、どうしようもない、3一に駒を打っても、意味がないからだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
西海くんは3七金と捨てた。
同玉、3九龍で、思い出王手。
3八金と受けられて、頭を下げた。
「負けました」
「ありがとうございました」
ギャラリーから、さまざまな声が漏れた。
「小細工はムダか……」
「途中までは、良かった気がするけどな」
「どうだろう、互角くらいだったかも」
感想戦は、そこそこ短かった。
次の対局まで、あまり時間がないからだ。
9九飛成に代えて6八銀打のケースを、口頭でやりとりしただけ。
風切先輩は席を立つと、私の存在に気づいた。
「裏見、他はどうだ?」
「あ……すみません、さっきまでここを観てたので……」
「そうか、サンキュ。次は大塒か沖田だろ。この山は1年生が固まってるからな」
そう言われてみれば、そうだった。
2日目の男子は、開始時点で64名。
64を目標にする、とよく言われるのは、2日目に出る、と同義だからだ。
この山が4ブロックに分けられて、各ブロックを勝ち上がった4名が、3日目に進出。
これについては過去、いろいろな議論があったみたい。8ブロックで分けたあと、ベスト8の時点で再抽選、というシーズンも。今年度は風切先輩の、「途中で再抽選しても偏りはなくならない。気分の問題」という指摘で、4ブロック16人制になった。
そしたら、風切先輩のブロックに1年生が8人、という事態に。口の悪い(?)土御門先輩なんかは、「殺生じゃ」と言っていた。
風切先輩は今日の1回戦、2回戦で、1年生を連続撃破。次も1年生の可能性がある。とはいえ、1年生だったら楽なわけじゃないし、そういうのは気にしてもしょうがないかな、とも思った。
それとも、1年生にトラウマを植えつけるのが、手を動かすってこと?
じつは黒風切だった?
なーんて考えているうちに、3回戦のアナウンスがあった。
「えー、ちょっと押してますが、15時から予定通りおこないます。お手洗いは、早めに済ませてください。人数が少なくなってきたため、この会場で男子の全対局をおこないます。会場を間違えないように、気をつけてください」
このあたりも、シーズンごとにバラバラ。春は午前2局、午後2局だった。秋は午前1局、午後3局。これは完全に会場の都合で、大学が午前中の早い時間帯を許可してくれなかったのだ。スポーツでも大会ごとにレギュレーションが違うし、こんなものよね。
わいわいやってるうちに、時間が到来。
同じ幹事が、もう一度顔を出した。
「準備はよろしいでしょうか?」
特に返事なし。
「それでは、始めてください」
「よろしくお願いします」
16人全員が一礼して、対局開始。
私たち都ノ勢は、ささっとチェックを入れる。
それから、風切先輩の応援に向かった。
【先手:大塒俊琉(大和) 後手:風切隼人(都ノ)】
今回は、平賀さんといっしょに観戦。
戦型チェックで、ペアになっていたからだ。
平賀さんは、
「相振り? ……めずらしいですね」
と言った。
たしかに、女流だとまだ指されてるかな、というイメージ。
とはいえ、大塒くんは振り飛車党だ。相振りになっても、おかしくはなかった。プロで下火だからと言って、アマで避ける理由にはならない。
大塒くんは、すらっとした背の高い男子で、韓国風キノコヘア。
着ているものは、秋物の長袖シャツだった。赤と黒のチェック柄。
30秒ほど考えたあと、長い腕を伸ばして、4六銀と強く出た。
平賀さんは、
「今の、2八銀もありましたよね?」
と訊いてきた。
「それは後手が指しやすいんじゃない?」
棋力差抜きでも、前に出たほうがいいと思う。
5二金、6五歩、6二玉、6七銀、7一玉。
どうなんだろ、これ。
大塒くんは、なにか狙いがあるのかしら。
風切先輩のほうは、悠然と組んでいる。
9六歩、5四歩、9五歩。
平賀さんは、
「んー、むずかしい。相振りわからん」
と言った。
私も居飛車党に転向してから、こういうの指さなくなったしなあ。
高校のときは、部室に相振りの定跡書もあったけど、忘れちゃった。
風切先輩は、淡々と8二玉。
端を詰められても問題ない、と。
2六歩、5三金、5六銀、6四歩。
あ、後手から開戦した。
突っかける前兆がなかったから、意外性があった。
大塒くんも、んッ、という感じ。小考。
私は、
「今のところ、1四歩もあったわよね?」
と確認を入れた。
平賀さんは、
「5五歩もありましたよ」
と答えた。
そうだ、それもある。
比較検討しなかったのかしら。
研究の範囲内? 指されたほうとしては、ちょっと気味が悪い。
大塒くんは1分使って、同歩と取った。
同金、6八飛、6三金引。
これは……先手が悩ましくなった?
選択肢が多いように感じる。さっきの後手よりも、だ。
おそらく、5個くらいは簡単に挙げられる。
6五歩と拠点を確保する手、2七金で上部を厚くする手、3五歩で受ける手、1六歩で様子を見る手、8六角と覗く手。
他にも、6六角と出る手が、ないわけじゃない。
大塒くんは両ひじを挙げて、上半身を左右にひねった。
ストレッチのあと、また長考。
局面は、にわかに停滞した。
西海くんなら、見切りをつけるところだけど──
私たちは、大塒くんの対応を注視した。
場所:2017年度 秋季個人戦2日目 男子2回戦
先手:風切 隼人
後手:西海 渚
戦型:先手三間飛車vs後手居飛車穴熊
▲7六歩 △8四歩 ▲6六歩 △3四歩 ▲7八飛 △8五歩
▲7七角 △1四歩 ▲1六歩 △5二金右 ▲4八玉 △4二玉
▲3八銀 △6二銀 ▲6八銀 △3二玉 ▲3九玉 △3三角
▲7五歩 △2二玉 ▲5八金左 △3二銀 ▲2八玉 △5四歩
▲5六歩 △4四歩 ▲6七銀 △4三金 ▲6八角 △5三銀
▲4六歩 △2四歩 ▲3六歩 △4二角 ▲2六歩 △1二香
▲7四歩 △同 歩 ▲同 飛 △7三歩 ▲7九飛 △1一玉
▲2七銀 △3一金 ▲3八金 △2二金 ▲3七桂 △3三金寄
▲4九飛 △6二銀 ▲6五歩 △4三金 ▲7七角 △5三銀
▲7九飛 △9四歩 ▲9六歩 △6二飛 ▲6八角 △8二飛
▲7七角 △6二飛 ▲6八角 △8二飛 ▲7七角 △2三銀
▲4八金左 △3三金寄 ▲5八銀 △3二金引 ▲4七銀 △3三角
▲6九飛 △5二飛 ▲4五歩 △同 歩 ▲同 桂 △7七角成
▲同 桂 △7八角 ▲6八飛 △8七角成 ▲5三桂成 △同 飛
▲7八歩 △5五歩 ▲7一角 △5四飛 ▲5五歩 △同 飛
▲5七歩 △5四飛 ▲6四歩 △5六歩 ▲同 銀 △4六桂
▲3九金 △5六飛 ▲同 歩 △5九銀 ▲4一飛 △6八銀不成
▲4六飛成 △5四馬 ▲4四桂 △3三金直 ▲3一銀 △5九銀不成
▲5八金 △6九飛 ▲2二銀成 △同 玉 ▲4九龍 △9九飛成
▲5五金 △7六馬 ▲5九龍 △同 龍 ▲同 金 △7九飛
▲8二飛 △3二香 ▲5三角成 △5九飛成 ▲8一飛成 △3七金
▲同 玉 △3九龍 ▲3八金
まで129手で風切の勝ち