414手目 孤独な移民
1969年、ララのおじいちゃんは、日本からブラジルへ移住した。
ブラジル移民の歴史って、長いんだよ。
最初のメンバーは、WW1よりもまえ。
WW2のあとも、しばらくしてから、ちょっと流行った。
戦争で負けて、生活が苦しかったんだろうね。
でも、おじいちゃんが来た時代には、もう珍しくなってた。
日本は経済的に成長して、出稼ぎする必要がなくなったから。
ララさ、いろんな友だちから、なんでブラジルへ移ったのかって、よく訊かれる。
そんなのわかんないよ。
ララもララのパパもブラジルで生まれたし、おじいちゃんは、なんでブラジルへ来たのか、話してくれないんだよね。ま、ジジョーがあるんでしょ。ひとりで来たみたいだし。
おじいちゃんは、ハンサムでもダンディでもなくて、すっごくマジメな感じのひと。けっこう無口。ララとは、あんまり似てないかな。ララはママ似。おじいちゃんは弁護士さんですかって、たまに訊かれる。日系は弁護士けっこういるから。ようするに、そんな雰囲気のひと。でも、エンジニアなんだ。車を作ってる。
あ、香子、言いたいことはわかるよ。おじいちゃんは車を作りに、ブラジルへ移住したんじゃないか、ってことだよね。ちがうみたい。おじいちゃんは最初、車は作ってなかった。結婚するまでは、農園で働いてたんだって。びっくりだよ。戦後に農園で働くひとなんて、ほとんどだれもいなかったから。
そもそもさ、農園で働くって言っても、奴隷みたいな生活なの。外国人技能実習ってあるじゃん、日本に。あんな感じで、マジFuckなやつ。おじいちゃんが昔のことを話したがらないのは、なんかあったのかなあ、って思う──あ、話がそれた。おばあちゃんは、レストランのgarçoneteで……あー、日本語だと、なんていうんだったかな、レストランで注文を取ったり料理を運んだりするひと。おばあちゃんのパパは、農園の管理人のひとりだった。どんなレストランだったんだろうね。もうなくなってるかな。ハリウッド映画の田舎に出てきそうなやつだよ、きっと。
ララが生まれたとき、おじいちゃんは、インダイアツーバっていうところに住んでた。ここにおっきな工場があるんだよね。日本の工場が。おじいちゃんは、いつのまにかエンジニアになってた。なんでかは知らない。パパもそこで働いてて、ママと結婚したのもそこ。同じ大学だったんだ。ママは日系3世で、ママのおばあちゃんとお母さんは、もともと現地のひと。ママは大学に入るまで、苦労してたって言ってた。ほとんど1年おきに住所を変えてたって。
インダイアツーバでは、ちっちゃな家を買って住んでた。ちっちゃいって言っても、東京のおうちよりは大きいよ。豪邸じゃないけどね。床は白いタイルで、お日様が入るとピカピカ光ってた。ベランダにはプランターがあって、おばあちゃんがよく水をあげてた。ブラジルのおうちはね、ユニットバスが2個以上あるのがふつう。ララのおうちは、3つあった。治安が悪いからさ、防犯はがっちりしてた。建物は塀で囲まれてて、入り口には金属製の柵があるの。工場のひとたちが住んでる地域だから、毎日殺人事件が起こる、とかじゃなかったけど。
おじいちゃんは、すごく規則正しいひと。9時に車で出勤して、5時に帰って来る。ブラジル人の労働は、1日最大8時間。それ以上はしなーい。でも今年になって、改悪したんだってさッ! 1日12時間まで働けるらしいよ。だれもそんなに働きたくなーい。これもグローバル化ってやつなのかな。
おじいちゃんは家に帰ってくると、すぐにテレビをつけて、そのままダラダラ観てる。ニュースとか、ドラマとか、コメディとか、バラバラ。ララは、おじいちゃんに遊んで欲しかった。けど、おじいちゃんは、ダンスもスポーツもしなかったんだよね。できない、って言ってた。ほんとかどうかは、知らない。家族サービスは、悪かったなあ。
ある日──10歳くらいのとき、ララは床にひざをついて、おじいちゃんのソファーのひじかけに、腕を乗せた。そのうえにあごを乗せて、おじいちゃんにたずねた。
「おじいちゃんって、なにができるの?」
「柔道」
「Judo! Diga-me」
「ララは女の子だ」
「Não importa」
おじいちゃんは、柔道を教えてくれなかった。
できた、っていうのは、ほんとだと思う。
おじいちゃんはWW2のときに生まれたから、学校でやったんだね。
「じゃあ、ほかになんかできないの?」
「将棋」
「ショーギ? ……ショーギってなに?」
「Xadrez japonês」
「Xadrez? Existe xadrez no Japão?」
おじいちゃんは、ソファーから腰をあげた。
2階へ上がって、木の板を持ってきた。
また座って、テーブルにそれを置いた。
五角形のちっちゃなピースと、81の枠がある、シンプルな道具だった。
「なにこれ?」
おじいちゃんは、簡単に説明してくれた。
これがチョー不親切。
漢字が書いてあるピースを見せて、名前と、動き方だけ言うの。
全然おぼえられないし、漢字がノーマルじゃないから、読めなかった。
「わかんなーい」
おじいちゃんは、静かに笑っていた。
ララはゴキゲンななめになって、ソファーから離れた。
おじいちゃんの笑顔の意味は、しばらくわかんなかった。
わかるようになったのは、ハイスクールに通うようになってから。
おじいちゃんは、ララがブラジルにassimilaçãoして欲しかったんだよ。
日本語だと、えーと……わかんないな、ブラジル人らしくなる、ってこと。
もちろん、ブラジル人らしい、なんて基準はないよ。
けど、おじいちゃんと同じ考えのひとは、けっこういることに気づいた。
日系人なのに、日本語をまったく話せないひとがいるんだ。
そういうひとは、親から教えてもらわなかった、っていうわけ。
おじいちゃんは、そこまで極端なひとじゃなかった。でも、日系人のお祭りには行かなかったし、日本が主催する交流会にも、顔を出してなかった。そういうのって、あとからじゃないと気づかないよね、うん。
だからさあ、ララはおじいちゃんの期待を、うらぎっちゃったんだよね。うらぎったっていうか、思ったように育たなかった、というか。日本語はちゃんとできるし、将棋はハイスクールの別の日系人に教えてもらったし……一番うらぎったのは、日本の大学へ来ちゃったことかな。パパは、サンパウロ大学に入れって言ってた。サンパウロ大学は、日本の帝大みたいなとこだよ。でも、日系人だけで15%くらいいるの。ニッポン人って、おべんきょーが好きだね。パパはそこの卒業生。
なんで日本に来たのかっていうと……よくわかんない。ひとつのきっかけは、3年前のひっこし。ソロカバっていう町に、新しく工場が建った。パパはエンジニアとして、そっちへ移ることになった。家族全員でひっこし。50kmくらいしか離れてないけど、車で1時間も往復する気は、なかったみたい。おじいちゃんはリタイアしてて、すぐにOKした。私は高校を変えるのがイヤだったから、ひっこしたあとも、車で登校してた。そのとき気づいたんだ。おじいちゃんもおばあちゃんも、パパもママも、ひっこすときにあっさりしてた。なんとなくイヤだったのは、ララだけ。つまり……根っこがない草……あ、それそれ、根無し草、香子、Obrigada。
根無し草じゃないのは、ララだけだったんだ。ララは生まれたときから、サンパウロ州民で、インダイアツーバ市民で、国籍はブラジルだった。そのままブラジルの大学に通う、OK、もしかすると、ブラジル人の男と結婚する、OK、ブラジル人のこどもを生む、OK、その子はもう、日本語を話さないかもしれない。ララは日本を見たことがないから、日本がどういうところかも教えられない。それに気づいたとき……んー、なんていうのかな、じぶんがすごく、細い道に入り始めてるって感じた。
一度ね、おばあちゃんはなんでおじいちゃんと結婚したの、って聞いたことがあった。おばあちゃんは、こう答えた。地球の反対側から来たひとが、小さな街すら出たことのないじぶんのまえに立ったとき、世界が広がるような感じがしたんだ、って。Wow、おばあちゃん、それはなんちゃら効果だよ、だまされてるよ、ララが生まれなくなると困るけど、いい男はもっといっぱいいたはずだよ、っていうのが、ララの最初の感想。だけど、そのときのおばあちゃんの気持ちは、今ならちょっぴりわかる。ちょっぴりね。
ハイスクールの最終学年で、日本の大使館から、奨学生の話が来た。先生のひとりが、ララを誘った。本気じゃなかったと思う。テキトウに声掛けしないと、いけなかったんじゃないかな。ノルマだよ、ノルマ。もしNãoと言ったら、それっきりだったと思う。でも、1週間くらい考えて、行きたいって言った。先生もおどろいてた。
パパとママは反対した。ララ、なんでそんなところ行くの、サンパウロ大学のほうが国際ランキング高いよ~とかなんとか。おじいちゃんはなにも言わなかった。ララはね、おじいちゃんになにか言って欲しかったんだよ。だって、もともと日本に住んでたのは、おじいちゃんだけなんだから。パパは仕事で日本へ行ったことがあるけど、それってただのビジネス旅行。観光客から聞く話のほうが、よっぽど詳しかった。
それでね、締切の前日になって、家族で話し合った。
Que discussão confusa!
ララも決心がついてなかった。
パパは最後、一晩寝て考えなさい、って。
言いたいことは全部言ったから、って。
それでその夜、ベランダで星を見てた。
どうしよっかなあ、って、月と相談していた。
そしたら、おじいちゃんが、となりのベランダにあらわれた。
おじいちゃんは、ララのほうを見ないで、
「ララは、日本人だから日本へ行きたいのか?」
と訊いた。
いきなり銃を向けられたようで、心臓がドキリとした。
「……Não」
「だったら、日本でなくても、いいんじゃないだろうか。今は中国の大学のほうが、レベルは高い。アメリカやカナダではダメなのか」
私はベランダに寄りかかった。
腕を乗せて、そのうえにあごを乗せる。
星は変わらずに光っていた。
「……Eu também não entendo」
「Lara, você não gosta do Brasil?」
「É claro que eu gosto」
おじいちゃんは、ララに背中を向けるように、闇のなかで動いた。
「どこかへ行きたいなら、行きなさい……私はそうした。反対する資格がない」