409手目 ホームラン
3分後──私は迷いのなかにいた。
1二金を受けるかどうかの判断が、むずかしすぎる。
一例として、4八飛、1二金、6七金、6八桂、7八金、同玉。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
この瞬間、後手は受けないといけない。
4一金以下で、詰んでしまうからだ。
問題なのは、じゃあ後手敗勢なのか、ってこと。
そこを断言できないから、困っていた。
例えば、7八金としないで、4二金といったん受ける。
後手の詰めろは解除されるから、次に7八金、同玉、7六歩くらいで勝てる。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同銀なら、即詰みだ。
もちろん、6一となんて、悠長なことはしないだろう。
6一飛か6四馬が本命。
6一飛、4一銀のあと、後手がどうするのか、これも悩ましかった。
ようするに、1二金のあとで一回受けないといけない、イコール、後手敗勢、じゃないから、切り捨てるところまでいかないのだ。選択肢が残ってしまうということが、かえって決断をさまたげていた。1二金を打たれたらはっきり負け、だったら、ここまで考えなくて済んだだろう。
私は、前のめりになった姿勢をもどした。
前髪を軽くさわる。
いったん2二玉で、1二金を受けるほうが、いい気もする。
ただ、そこで先手の手番だ。
1四歩と取り込んでくるだろう。これも厳しい。
「……」
5分が経過した。
どう進めても、寄せは一回あきらめないといけないっぽい。
どこまで先手玉を追って、そのあとどうやって受けるか。
特に、6七金と打つか打たないかが、最終的な争点になった。
そして、この争点も解決しなかった。
お互いに金を入手する順が発生して、受けが複雑化してしまう。
「……」
私は大きく息を吸った。
落ち着け。
この流れは危険。
堂々巡りになって、ドツボにハマるパターンだ。
迷いに迷ったあげく、最悪のチョイスをしてしまう。
買い物でも、よくある。
「……失礼します」
私は席を立った。
気分転換が必要だと思った。
貴重な時間を溶かすことになる。
それでも価値はあると思った。
私は、他の対局を順繰りに観戦した。
……………………
……………………
…………………
………………全体的に、きわどい。
大丈夫そうなのは、風切先輩くらいだった。
大谷さんのところも、勝てるかどうかわからない。
私は席にもどった。
思考をまとめる。
残り8分を切ったところで、私は3一の王様をつまんだ。
桂馬のうえを滑らせて、入城する。
チェスクロを押した。
長嶋さんは、ちょっと意外そうな顔。
おそらく、4八飛~6七金を読んでいたのだろう。
腕組みをして、うーむ、とうなった。
時間差がある。
残り時間は、先手が12分、後手が7分。
私は長嶋さんの時間も使って、先を読んだ。
「んー、まだまだか」
長嶋さんはそう言って、1四歩。
私は1八飛と打った。
攻防。
のろのろと入玉をみせてもいい。
長嶋さんは、ほほぉ、と言って、あごをなでた。
それからほどなくして、1三歩成。
捨ててきた。
同玉、1九歩で、さらに飛車を叩いてくる。
飛車の横利きを逸らせたいのだろう。
私は同飛成。
長嶋さんは、追加でピシリと1四歩。
同玉……は、危ないか。1二飛の筋が生じる。
私はいったん同龍としかけた。
手をとめる。
……………………
……………………
…………………
………………2二玉のほうがいい可能性、ある?
長嶋さんの棋風からして、2二玉に1三桂と放り込んできそう。
それは、いなせるかもしれない。
2二玉、1三桂、7六歩と打って、同銀なら7七歩でイケる。
あ、でも、5一飛がいきなり詰めろなのか。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
……3一金打、2一桂成、同玉で、切れてるのでは?
私はペットボトルに手を伸ばした。
飲まずに、ひんやり感だけを味わう。
2二玉で、先手がムリ攻めをしてくれば、切れていると思う。
ただ、1四同龍でも、ムリ攻めはしてくれるんじゃないかしら。
例えば2六桂で……あ、龍がもどれないのか。1八龍は、1一飛、1二歩、2一飛成、6七銀の瞬間、1四歩、同龍、3二龍くらいで寄る。
同龍は、単純に危ない。
私は中指一本で、王様をさがった。
2二玉。
長嶋さんは、持ち駒の桂馬を手にした。
パシリ
よし、これを打ち取る。
私は7六歩と叩いた。
長嶋さんは、かまわず5一飛。
3一金打、2一桂成、同玉、6四馬。
ぐッ、最強の応手。
7六銀とひよってくれればいいものを。
私は7七歩成で、銀を回収。
同桂に、4二銀打と受けた。
その瞬間、長嶋さんからすさまじい気迫を感じた。
振り切るまえの、一瞬のタメのようなオーラ。
パシーン
ッ! 私は絶句した。
即切り? ……え、成立するの?
私は長嶋さんを見た。
その表情は堂々としていた。と同時に、勝利を確信した表情ではなかった。
これでイケるはずだ、と、じぶんに言い聞かせている感じ。
どうやら、勢いと見切り発車で切ったっぽい。
私は盤面に集中する。
同銀が飛車当たりで、そのときに1三銀が詰めろ。
だけど、1一歩で簡単に受かる。
そこで2二香は、詰まないはず。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同金寄、同銀成、同玉、1三金、3三玉で、有効な王手がない。
2三金、同玉、2四金も寄らない。
この瞬間に飛車取り。
長嶋さんは、打ち場所をまちがえたと思う。6一飛だったはず。
ピッ
ここで私が1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は4二同銀とした。
1三銀と打ち込まれる。
「1一歩」
「2四桂」
遥か後方で、ボールがスタンドにポーンと跳ねた。
……………………
……………………
…………………
………………ホームランだ。
4二同馬の時点で、打たれていた。
これは取れない。
取ると詰む。
かと言って、取らなくても詰む。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「8七歩ッ!」
王手する。
9八玉。
さ、最善の応手。
私は苦吟しながら、盤のあちこちを見た。
寄せないといけないけど、寄せられる気がしない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
捨てるしかない。
同玉、9九龍。
合駒をさせる。9八銀か9八金なら、2四歩で後手玉の詰めろが消える。
9八香は詰めろが消えないけど、軽い受けだから、寄せられるかも。
長嶋さんは、最後の時間を使った。
ピッ……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
長嶋さんは、9八金合を選択した。
私は7九角で、攻めの手がかりを残しておく。
長嶋さんは、ここですこし迷った。
同金、同馬、8七玉とするのか、単に8七玉とするのか、その選択だろう。
正直、どっちでも後手が悪い。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
8七玉。
単に寄った。
私は無我夢中で読んでいた。
9九龍、9八金のやりとりで、詰めろは解除されている。
2四歩と取っておけば、後手は寄らない。
でも、その瞬間に9九金とされちゃうし、金合いにした理由も、これだろう。
龍を取られて、寄せられる?
ムリな気が──
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
2四歩。
詰まない……はず。
長嶋さんは、こちらの陣地をにらんでいた。
9九金じゃないっぽい? 2二香?
さすがに寄らないわよね?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
2二香。
いやあ、ほんとにそっちか。
こうなったら受け切る。
同金寄、同銀成、同玉、1三銀、3二玉。
先手は攻め駒が足りない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
長嶋さんは、急いで9九金とした。
龍を取った。
6一飛成もあったけど、あくまでも攻めを継続した。
私は5一銀で、飛車を取り返す。
長嶋さんは、7二飛。
攻防だ。入玉ルートを確保されそう。
私のほうは、もう入玉できない。止めないと。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6二桂ッ!」