40手目 注目の対局
「ありがとうございました」
ふぅ……快勝なんじゃない、これ?
私は高揚感を押さえるため、しばらく無言になった。
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ん? 感想戦が始まらない?
顔をあげると、橘さんはめちゃくちゃムスッとしていた。
こういう負け方がくやしいのは分かるけど、大人げないというか、なんというか。
まあ、2四歩、2六歩、3二銀、2五歩以下で、ずっと後手が悪いなら、感想戦をするところも、ないと言えばない。たしか、30手台だったと思う。
声をかけようか迷っていると、急に肩を叩かれた。
ふりかえると、松平だった。
「どうしたの?」
松平は、私の耳もとに顔を近づけてきた。こらこらこら。
「風切先輩が呼んでる」
「え?」
松平は、教室の一点を指さした。風切先輩が腕組みをして、テーブルに寄りかかるように立っていた。私はすこし迷って、それから橘さんに話しかけた。
「あの……呼ばれてるみたいなので、感想戦は中止でもいいですか?」
「どうぞ」
おぉ、怖い。さっさと退散。
私は一礼して、席を立った。教室のすみっこに移動する。
「裏見、勝ったか?」
「あ、はい……橘さんが、序盤でポカしてくれました……」
風切先輩はフッと笑って、片方の眉毛を持ち上げた。
「可憐相手に勝ち切ったのは、大したもんだ。結構、食らいついてきただろ?」
私は、「はぁ」とか「まぁ」とか、あいまいに返事をした。
「最後は、一手差でした」
「格下相手にポカが出るのは、可憐の悪いくせだ……が、次はそうもいかない」
次の対局が話題になって、私はにわかに緊張した。
「聖ソフィアが勝ち上がって来ましたか?」
「ああ、みんな驚いてる」
「ですよね……廃部したところから、いきなり女子強豪が出てくるなんて……」
「とはいえ、裏見についてもおなじだ。この準決勝、注目局になるぞ」
そういうプレッシャーを掛けないでくださいな。
私は、ギャラリーだらけになっているところを想像して、悶えた。
「そうあせるな。準決勝進出は快挙だ。そうでなきゃ、俺が来た意味もない」
「どういうことですか?」
「三宅から、聖ソフィアの親玉が来たことを知らされたんだ。それ自体は、問題じゃないんだが……『棋力を判定できないから、ちょっと見に来てくれ』だとさ。恥を忍んで来るはめになった」
三宅先輩、人使いが荒かったんですね。
「松平じゃダメだったんですか?」
私はそう言いながら、松平のほうをじっとりと横目でみた。
松平は髪の毛をくしゃくしゃにしながら、
「すまん、俺も、よく分からなかった」
と謝った。
「べつに謝る必要はないけど……そんなに強いってこと?」
松平は、かなり曖昧な返事をした。私は、風切先輩にたずねなおした。
先輩は先輩で、ややうつむき加減になった。
「……俺にも判然としなかった」
「しょ、奨励会員の風切先輩に分からないって、ありえなくないですか?」
プロレベルでも、ある程度は分かるはずじゃないかしら。
疑われたと思ったらしく、先輩はすぐに訂正をいれた。
「なんというか……底みたいなものが見えなかった」
「底?」
風切先輩いわく、指し手のブレが大き過ぎて、どこまでが実力なのか、見極めがつかなかったとのこと。いい手を指したかと思えば、筋悪な手もあったらしい。
「ようするに、ムラッ気のある選手ってことですか?」
「いや……そこもよく分からなかった……」
「と、言うと?」
風切先輩は、一段とマジメな顔になって、声をひそめた。
「偵察が入ってることに気付いて、指し手を調整してたのかもしれない」
「指し手を調整する? ……この大会のレベルで?」
そんなのムリだ。私は正直、そう思った。
「あくまでも印象の話だ。証拠は、どこにもない。裏見の言うとおり、基本的にはムラッ気のある選手ってことで、大丈夫だろう」
「はぁ……」
なんか、不安になってきた。
「ちなみに、居飛車党ですか?」
「俺が見たときは、四間だった。1回戦はゴキゲンだったらしいぞ」
オールマイティな振り飛車党か。それなら、風切先輩にかなり鍛えてもらった。
「ところで、大谷さんは?」
「大谷なら、慶長の三和に負けた。もう片方の山は、三和と速水だ」
大谷さん、負けちゃったのか……ますますプレッシャーがかかる。
「分かりました。決勝を目指してがんばります」
気合いを入れなおしたところで、幹事から着席の合図があった。
都ノ大学、一丸となって出動ッ!
「左の山、だれだ? ふたりとも知らないぞ」
ギャラリーのひとりが、そうつぶやいた。
すると、べつのギャラリーがスマホをいじりながら、
「裏見のほうは、ネットで検索したら出た。H島で優勝経験があるらしい」
と答えた。こら、なにサーチしてるの。プライバシーでしょ。
「H島ってことは、慶長の三和と一緒か。知らないところに強豪っているもんだな」
「まあ、左の山はヌルかったから……」
「しッ、都ノと聖ソフィアに聞こえるだろ」
ああ、もう、ギャラリーが騒々しい。
ここまで増えると、逆に気にならなくなってきた。
私はむしろ、目の前の少女――火村さんに意識を集中し始めた。
単純に気になる、と言ってもいい。
しきりに足をぷらぷらさせたり、頬杖をついたり、せわしない。
でも、子供っぽい仕草とは不釣り合いな、あやしげなオーラを感じる。
「えー、お疲れとは思いますが、準備のほう、いかがでしょうか?」
幹事の質問。特に返事はなかった。ギャラリーも、おとなしくなった。
「それでは、個人戦女子の部、準決勝を始めたいと思います……開始してください」
「よろしくお願いします」
私と火村さんは、おたがいに一礼。後手の火村さんがチェスクロを押した。
私は深呼吸をする。準決勝まで進めたのは、ひさしぶりのことだ。
緊張せずに、前向きに……7六歩。
3四歩、2六歩、5四歩、2五歩、5二飛。
中飛車。一番攻撃的なものを選んできた。
「へぇ、そっちは居飛車なんだ」
火村さんは、なんとも言えない不敵な笑みを浮かべた。
「さっきの対局は、裏見香子の裏芸ってやつ?」
ギャラリーのなかには、くすくすと笑うひとがいた。
私は黙ってスルー。4八銀と上がる。
火村さんは、相手にされなかったのが不満なのか、肩をすくめた。
「無愛想ね……5五歩」
6八玉、3三角、7八玉、6二玉。
序盤の指し手は速い。手つきからして、火村さんが強そうなことは分かった。
7二玉、7七角、4二銀、8八玉、8二玉。
「9八香」
せっかくの準決勝。手堅くいきましょう。
一方、火村さんもニヤリと笑った。異様に長い犬歯が、口の端からのぞいた。
「OK、相穴ね。受けて立つわ。9二香」
9九玉、9一玉、8八銀、8二銀。
お互いにハッチを閉める。
6八金寄、7一金、7九金。
単純に組み合ったら、居飛車のほうが若干有利になるはず。
案の定、火村さんから変化してきた。
「9四歩」
私は30秒ほど考えて、2六飛と浮く。5筋の飛車先を牽制。
「そう来るか……5四飛」
「9六歩」
ここで端を受けておく。
以下、5三銀、7八金寄、6四銀と進んだ。
積極策……いや、そうとも限らない。7四歩〜7三銀引もありうる。
私は5九銀と引いた。これが、2六飛からの構想。
飛車を浮かずに5九銀は、5六歩と突かれて困る。
「7四歩」
やっぱりね。単純な積極策じゃなかった。
私は8六角と上がって、さらに牽制をかけた。
8四歩、5八銀、8三銀、6六歩。
「おたがいに変なかっこう」
火村さんは、甲高い笑い声をあげた。駒組みが面白くて笑うとか、小学生ですか。
「だーけーどー、先手がうまくいってるとは思えなーい。8二金」
「そういうことは、勝ってから言いなさいッ! 4六飛ッ!」
こういう狙いもあるのよ。3二金を強要。
「5二金」
あれ? そっち? ……なんで?
私は変に思った。6五歩に7三銀とできなくなったからだ。3一角成で、後手が敗勢になる。この3一角成を消すために、3二金のはず……錯覚? うっかり? ……準決勝の相手に、リスペクトを欠いた判断は、やめておきましょう。危ない。
とはいえ、6五歩に5三銀とするしかないはずだ。それは、間違いのないところ。
私は6五歩、5三銀と下がらせて、さらに6七銀と上がった。
先手は万全の体勢。
気になる点があるといえば、右桂が使えてないことくらいかな。後手も左桂を使えていないから、デメリットとすら言えない。
先手の駒組みがうまくいってないとか、火村さんの判断ミスもいいところ。
「6四歩」
ん、奪還しに来た? できないわよ?
私は同歩、同銀に、再度6五歩と打った。これも5三銀と下がらざるをえない。
さて、謎の6四歩だったけど……案外に手渡しだった? 後手からは動けないし、先手に動いてもらおうって腹づもりなのかも。もちろん、そうさせてもらう。こっちは穴熊が完成してるから、すぐにでも開戦したい。ずばり5六歩だ。同歩、同銀の進行は、後手の飛車が窮屈になる。よって、5六歩に同歩とはできない。これを受けるには4四銀しかないけど、即座に4四銀は3一角成がある(まさに5二金のデメリット)。
というわけで、5六歩には8五歩、7七角、4四銀でしょうね。これなら、3一角成の狙いが消える。先手としては、そこで8六歩と反発して、どうか。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
8筋はおたがいに急所。怖いところではある。でも、同歩、同角とすれば、後手はふたたび5三銀と戻らざるをえない。以下、5五歩と取り返して、同飛でも同角でも5六飛とぶつけて決戦を挑む。あとは、陣形差で先手が有利という寸法。
この展開がイヤなら、8六歩に同歩と取らないで、5六歩でしょうね。これに代えていきなり3五銀と飛車に当てるのは、1六飛、1四歩、5五歩が間に合う。端歩を付き合っていないおかげだ。
5六歩を放置は、5七歩成とされて私が困るから、当然に同銀と取り返す。そこで後手の手が難しい。5五歩なら4五銀と強気に出て、同銀、同飛でいいんじゃないかしら。
私はここまでの読みを確認して、特に問題がないと判断した。
「5六歩」
開戦。
「ふむふむ、予想通りね。そうこなくっちゃ」
火村さんは、納得の表情。
それでは、お手並み拝見。
「8五歩」
「それは、こっちも予想通りよ。7七角」
4四銀、8六歩。
私は8筋を突っかけた。
「5六歩」
読みが噛み合っている。同銀。
チェスクロを押したところで、火村さんは歩を威勢よく放った。
「5七歩ッ!」