394手目 確率のゆりもどし
は~……私は椅子にもたれかかって、大きく背伸びをした。
体重をかけると、リクライニングになって、天井が見える。
しばらくその体勢で、LED電灯を眺めた。
「……スランプだわ」
近くにいた穂積さんは、スマホから顔をあげた。
「なにが?」
「将棋」
「ま、そんなこともあるわよ」
完全に他人事ですね。
初日に1回も出さなかったことを、怒ってる?
というタイプでもないか。
穂積さんと同じテーブルには、粟田さんの姿もあった。
ふたりとも、スマホで麻雀してるっぽいのよね。
大会中にそういうのはよくないのですが。
しばらくして、粟田さんの声が聞こえた。
「あ~、またラス引いちゃった」
私は、
「負けたの?」
と尋ねた。
「うん、ラスだった」
「ラスってなに?」
「4人中4位」
ふーん、白黒をつけるゲームじゃなくて、着順ゲームなのか。
粟田さんは、前髪をなおしつつ、
「私もスランプかなあ」
とつぶやいた。
私は便乗して、
「スランプのときって、なにかやってることある?」
と尋ねた。
粟田さんは、麻雀で?、と訊き返した。
それでもいい。将棋関係者には、すでに訊いて回った。
なにも解決しないから、他のゲームプレイヤーも参考にしてみたい。
粟田さんはスマホを持ったまま、天井を見上げた。
「んー……やっぱり、普段と逆をやってみる、かな」
「逆?」
「三面張捨てて単騎リーチとか」
喩えがわからん。
一方、穂積さんは、チッチッチッと指をふった。
「あわちゃん、それはオカルトよ」
「え~、オカルトじゃないよ~」
「どう考えてもオカルト打法でしょ」
なんだかよくわからない論争が始まったので、私は説明を求めた。
粟田さんは、
「今、AとBの箱があるとするね。どっちかに当たりが入ってて、Aの確率が80%、Bの確率が20%のとき、香子ちゃんなら、どっちを選ぶ?」
と質問してきた。
「それって麻雀じゃなくない?」
「あ、専門用語で説明しても伝わらないかな、と思って。仕組みはいっしょだよ」
「Aの確率が高くて、Bの確率が低いってこと?」
「そうそう」
あまりにも簡単で、ひっかけ問題じゃないかと疑いたくなる。
まあ、乗ってみるのも手だ。
「……Aじゃない?」
「普通はそう考えるよね。だけど、ツイてないときは、Bを選ぶといいんだよ」
「……なんで?」
「ツイてないときは、逆張りが正解なの」
……………………
……………………
…………………
………………オカルトでは?
「確率はAが大きいんでしょ?」
「運がないときは、一番大きい確率が一番小さくなっちゃうんだよ」
いやいやいや、それオカルトだから。
っていうか、確率の概念に反してるでしょ、たぶん。
穂積さんも呆れて、
「香子、まともに取り合わないほうがいいわよ」
と言った。
粟田さんは、
「え~、ひどい~」
と抗議。
穂積さんは淡々と説明。
「あのさ、箱の中身は独立事象なんだから、試行錯誤を繰り返せば、Aがたくさん出るのよ。大数の法則。サイコロを1万回振ったら、ツイてるとかツイてないとか関係なく、だいたい1666回出るわけ」
「不調のときは、確率の揺り戻しがあるんだよ」
粟田さん、あなた経済学部でしょ。
法学部に数学で負けないでください。
あーだこーだやっていると、部室のドアが開いた。
風切先輩が顔を出した。
「ん? お客さんか?」
「あ、お邪魔してまーす。粟田です」
「ああ、経済学部の子か。なにしてるんだ?」
麻雀だ、と素直に答える粟田さん。
そこは誤魔化して欲しかった。
とはいえ、風切先輩もそのへんはうるさくないから、会話は自然と流れた。
そして、さっきの逆張りの話になった。
すると、穂積さんはいきなり指パッチンをして、
「そうだ、風切先輩、あわちゃんを説得してください」
と言い出した。
「説得?」
「数学的に言って、逆張りは意味ないってことです」
風切先輩は、詳しい説明を求めた。穂積さんは、状況を教えた。
先輩の第一声は、
「そいつは数学じゃ決まらないぜ」
だった。
穂積さんは、目が点になった。
「風切先輩……まさかオカルティストだったんですか?」
「いや、そうじゃなくてだな。現代数学は、公理系からの推論の集まりであって、現実の法則の集まりじゃないんだよ」
「先生、もっと簡単にッ!」
風切先輩は椅子に座って、足を組み、うしろ髪をくるくるし始めた。
「例えば、サイコロの目が6分の1で出るっていうのは、なんで言えるんだ?」
「6面だからじゃないですか?」
「6面は全部均一にできてるのか?」
穂積さんは、ちょっと考えて、
「んー、穴の数が違いますね」
と答えた。
「だろ。重心が完全にバランスしてるわけじゃない。じっさいに振れば、出やすい目と出にくい目がある。じゃあ、数学の問題で6分の1になるのはなぜか、って話になるよな。答えは、単にそう仮定してるから、だ。それぞれの面が6分の1で出るサイコロと仮定されてるから、それぞれの面が6分の1で出る。ようするにトートロジーだ」
ほぇ~、意外と深い話だった。
穂積さんは、
「だけど、運でサイコロが左右されるのは、数学的にもありえなくないですか?」
と反論した。
「そんなことないぜ。Aを運の集合、Bをサイコロの確率の集合として、そこに二項関係Rを設定することは可能だ。もちろん、運の集合なんてものが現実世界に存在するかどうかは、別だがな。それは数学の仕事じゃなくて、物理学の仕事だ」
穂積さんは、うーんとうなった。
粟田さんは、ほくほく顔で、
「スランプのときは、やっぱり逆張りが正解ですね」
と言った。
いや、それは違うと思う。
今の風切先輩の話は、運のあるなしは数学じゃなくて物理学、っていうだけで、運が現実に存在する、とは言ってない。
いずれにせよ、これ以上議論するとぐだぐだになりそうだから、やめておく。
ちょうどいいことに、風切先輩が話題を変えてくれた。
「ところで、来週はどういう並びで行くんだ?」
私は、ちょっと言いよどんだ。
「そうですね……4回戦の聖ソフィアと、6回戦の京浜が、ヤマなんですけど……」
「うちにヤマとかあるのか。電電理科に負けてるんだが」
なかなか辛辣な発言。
言い返せないところがつらい。
「とりあえず、聖ソ戦は、がらっと変える予定です」
「愛智は?」
「さすがに愛智くんは出します。終盤、こけただけですし。抜けるなら私と松平かな、と」
「それこそ気にしすぎじゃないか? 2連敗なんてよくある」
内容がマズいんですよ、内容が。
端歩の見落としにいたっては、恥ずかしいから松平と大谷さんにしか言っていない。
松平も調子が悪いみたいだし、ここは穂積さんともうひとり入れ替え──と行きたいんだけど、問題は山積みだった。
風切先輩は、その問題点を的確に指摘してきた。
「そもそも、連勝中の選手が、3人しかいなくないか?」
「そうなんですよね……星野くんとララさんも0-1ですし……勝ち星のある選手、っていう条件にすると、青葉くん、私、大谷さん、風切先輩、愛智くん、平賀さん、松平の7人で決まっちゃいます」
この並びは、かなり読まれやすいと思う。
けど、考えれば最善な気もしてくる。
議論が堂々めぐりになっていて、役員のあいだでも意見がまとまっていなかった。
大谷さんは、奇をてらわずにその7人でいいのでは、という立場。
私と松平は、工夫したほうがいい派だけど、細部が一致しなかった。
私の案は、私が外れて穂積さんがイン。
松平の案は、自分も外して、穂積さんと三宅先輩がイン。
風切先輩は、ポンとふとももを叩いた。
「ま、ゆっくり決めてくれ。一局指そう」
私たちは盤駒を用意した。
振り駒を、というところで、がらりとドアが開いた。
平賀さんと青葉くんが登場。
「おつかれさまですッ!」
あいかわらず元気なことで。
じゃあ、今度こそ振り駒を、というところで、穂積さんはまた指パッチン。
「真理ちゃん、工学部だったわよね?」
「ですです」
「運って物理的にあると思う?」
「ウン?」
「Luck」
「そんなウ○コな物理量は存在しませんッ!」
平賀さん、教養を身につけるまえに、デリカシーを身につけてください。